津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■すいぜんじ海苔

2014-05-22 17:19:13 | 熊本

西遊雑記を読んでいると「八代蜜柑」と「水前寺海苔」の事が出てくる。両方とも将軍家に献上する、細川家にとっては大事な産物である。
海苔は五六千枚ほど取れたらしいが、その生産量は随分出入りがあったらしい。水質は天下逸品の湧水なのだが、時には長雨などで雨水の流入などもあって水質が作用したのであろう。古川古松軒もこの水前寺海苔をよく承知のうえで、また記録にとどめたのであろう。
水前寺成趣園の御庭を見たいと止宿した御庭奉行に頼み込んでいるが、他国の者は拝見できないという事で奉行からいろいろ聞いた事を記している。

処で松尾芭蕉の句に  吸物はまず出来(でか)されしすいぜんじ  という句がある。ウィキペディアによると「宝暦13年遠藤幸右衛門が筑前の領地の川にに生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。」としているが、この句からすると、修正を要する説明である。芭蕉は 寛永21年生まれ 、元禄7年10月12日に亡くなった人だが、水前寺海苔がこの時代すでに巷間に知られていることが判る。この句からすると芭蕉も食したのだろうか?
私は七十年ほどの熊本地ごろうだが、水前寺海苔は未だ食したことは無い。

いまは自生のものは見受けられず、嘉島町のきれいな湧水を利用して人口的に栽培が為されている。
現在では食物と云うよりも、その保水力に脚光が当たり、化粧品その他いろいろなものに使われる貴重な資源となっている。
個人の努力によって生き延びている水前寺海苔だが、将来も安泰という状況にはない。 

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・1

2014-05-22 08:46:12 | 史料

古川古松軒が著した西遊雑記は七巻に及び、巻一 備中・安藝・周防・長門、巻二 豊前・豊後・佐賀関、巻三 豊後・日向、巻四 大隅・薩摩、巻五 肥後、
巻六 筑後・肥前・佐賀・長崎、巻七 嶋原・天草・有田・唐津・福岡・筑前 と多岐に亘っている。
後に古松軒は東遊雑記を表わしているが、これは堂々幕府の巡見使の一員としての廻国であるが、この西遊雑記は一人の旅人としての記録として貴重である。
インターネットの世界においても未だ釈文が紹介されていないので、古文解読を楽しみながらここにご紹介する。若し間違いがあればご指摘賜りたい。

 

薩州米津ヨリ肥後一州之記

   西遊雑記巻之五(肥後)      古松軒草稿

薩摩の米津より肥後の水股まて三里半此間に国界
の標木双方より建ッ 鹿児島札の辻まて卅六丁道にて
廿六里卅丁熊本札の辻まて廿五里弐町九間肥後侯の
番所は袋村といふに有り往来人をさして不改薩
摩の番所にて旅人の改メ六むつかし しかれども間道
抜道幾筋もあれは肥後の水股佐敷商人薩州へ
の往来はみな/\抜道を入るといへり 水股は求摩
郡より幾谷川となく小流落合ふ所なり大概の
町場にて一村門徒家にてよき寺院の有之所也 此節
数日雨ふらすして井水もなきくらひにて数十ヶ村申合
せて雨乞有り土人の噂をきけは龍神へ人柱を立て
いけにへを供せると云珍しき事なれは一見せんと
思ひ其地に行見る 海岸にかけ造りのこやをたて
幕にて長壱丈はかりに婦人の形をつくり紙を以て
大振袖の衣しよふをきせそれに赤きもやふを画き
髪ハ苧を黒く染て後へうち乱しきて村役人社人巫女
見物人彼是数百人群集し其中の頭と覚しき
社人海上にむかい至て古き唐櫃のうちより壱巻を
取出し高/\とよみあけし事也 其祭文の文章甚タ
埒なき事なからかな書の古文章思はれ侍りしなり
其後太鼓をかづ/\たゝき大せひ同音に唱へるには
龍神龍王末神々へもの申ス浪風をしつめてきゝめ
され娘は神代の娘にへ祭り雨をたもれ/\雨がふらねは
木草もかれる人たねも絶へる雨をたもれ娘をま
しよよ/\ かくのことく入かはり/\雨のふるまては右の
通に唱へて雨ふる時はかの藁人形を海へ流す事也
右文句を大ぜひ声高にいふ時に傍
よりひやうしをとりていかにも/\と云 土人の物語に二百年以前には
数十ヶ村の娘を集めてくし取をさせくじにあたりし
娘は右のごとくして海へ入れしと辺鄙の地にはいろいろ
のおかしき例も有る事にて古しへの事を傳へてうし
なはす右祭文の文章聞なれぬ文おゝかりし故に写し
取らんと土人を頼みしに急にて調はす あまりも
古雅なる雨乞ゆへに聞流し見捨にせるも心残りにて
見る人の笑ひいかにもならんかと爰に筆を費しぬ
水股より湯の浦へ三里此間に綱木太郎と称せる坂
有り上下弐里険しき事いふはかりなし 肥後の方言
にて坂の名は太郎と云て坂とはいはす 此辺は肥後に
ても風土のよき所にて民家のもやふ薩州よりは勝
れたり湯の裏少しき在所にて温泉有り旅人
入湯せるに誰とがむる者もなく明はなしの温泉な
り 湯はあしからす巧有る温泉のよし しかれとも辺
鄙の地故に他方より入湯に来る人さらになしよく/\
聞は是より山分に入りては爰もかしこも湯
の浦地数ヶ所有りと云
湯の浦より佐敷へ一里此所は南肥後にては第一の
よき所にて商人多く近郷の調もの此地にて事済ほと
の市場なり此佐敷より球磨郡人吉の城下まて
八里といふ
肥後の在/\に入りて百姓の妻女までも諸侯に様をつけ
す薩摩侯は薩摩殿相良侯は求摩どのと称せる事なり
何国も古しへはかく有りし事なるへし辺鄙には
古き言葉も残りて殊勝ならすや殿は様よりも人を
尊ふ言葉なれとも今は下/\にても様を通称とす世の
流行にまかすもまたよし
土人の物語に當国の名所女しまといへるは佐敷
の事といひき予詳からす古哥に
    年するやめしまの松の深みとりしの枝は浦の
                             波にひたして

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