先に 町人考見録から を書いた。「不埒成御家柄」という文言は、大名貸しによって身代を潰した家原自元の紹介の文章に登場している。
家原自光
一、親は自仙といふ。所は西洞院竹屋町上ル丁に住す。自仙代より細川どのへ大分取替相滞候へども、いまだ相続いたし、なを彼御屋敷勤候所、
四つ宝新銀立替の節、又弐三百貫目ほど相滞、其上金借り旁故、借しかたへは年賦に断を申。扨自元は肥後へ下り、段/\御すくいを願候
所、太守(綱利)は元来茶を御好被成、一入自元へは御目をかけられ候故、先は願の通相調、古借の内へ新銀七十五貫目宛、五年の内相渡
り申積りにて、一両年も右のごとく相渡り来り候所、自元も相果、其前年の暮よりはや、約束の通りには相渡り不申、殊に立花飛騨守殿へ前/\
取替滞居申候を、自元起し出し、大坂町人共と相仕に成、此仕送りを致し候所、初年は究のごとく少/\、春は屋敷より請込に相見へ候へども、
其次の年より段々江戸不時の御物入ども打続、引に不引、五年の内に是も四五百貫目滞、身上さしつかへ申候、それ故居宅も明け、ひっそく
致し、なを又今の次兵衛肥後へ下り願ひ候へども、御国凶年故、はか/"\敷渡る事も無之、少/\宛すくい銀の内渡りを受取居申候。大かた
大名がしの筋は同じ事とは云ながら、其内わけて細川家は、前々より不埒成御家柄にて、度/\町人の借銀断在之、此節辻・玉屋・家原、皆
/\此御屋敷へ大分の滞故、つぶれ申候。いづれも件の内済の積りにて、年/\相渡り申やくそくには候へども、みな/\跡は又/\不埒に
成事、あながち細川家には限り不申、大名がた年賦断の通例と存べく候。
まことにもって肩身の狭くなる話ではある。