津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■後藤又一郎のお墓

2014-05-11 13:13:26 | 人物

 Dr.T先生から後藤又兵衛の子・又一郎のお墓に付いての問い合わせがあった。又一郎の妻は加賀山隼人正興良の娘・リユであり切支丹であったから、又一郎の菩提寺の過去帳には名前が残されていないという事だけが頭に残っていた。御寺の名前は記憶になかった。
これは加賀山家の一族でもあられる上妻博之先生の御著を見るのが一番だと思い、あちこちひっくり返す。
いわゆる切支丹や転切支丹の子孫を確認するために、詳しい系図が46家ほど残されているが、ここに後藤又一郎の六代孫にあたる新右衛門が「安養寺」に葬られたとある。かすかな明かりが見えてきた。
又片岡弥吉著の 「日本キリシタン殉教史」 の、「細川藩の殉教者」をみるとここでは確かに「安養寺過去帳に市十郎(又一郎)の名前があるのにりゆの名がない」と書かれている。
今度はその安養寺の所在を捜すがこれが見つからない。いろいろググっていたら、昨日の「坂崎家」につづいて、「武公伝」のサイトにヒットした。なんと偶然なことか。
                                            高田原之絵図 熊本県立図書館蔵  武公伝より引用

実は上図左の養寿院にかつて武蔵の位牌が残されていたという。そしてこの養寿院は廃寺となり安養寺に吸収された。
その後この安養寺も廃されて、現在は「泰巌寺」となって今日に至っている。ここに過去帳が残されているのか、お墓はどうなったのか現況不明である。 
即Dr.T先生にTEL報告、面目をほどこした次第である。

 

            小笠原少斎-------+---備前・長基(6,000石) 室・忠興姪吉田二位女・たね
                           |
                           +---宮内・長良(600石) 室藤孝女・千
                           |
                           +---与三郎・玄也
                                    ∥---------源八郎他八人
            加賀山隼人興長---+--------みや
                         |
                         +---------りゆ
                                  ∥
            後藤又兵衛-----------後藤又一郎       

 

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■坂崎清家の先祖附を読む

2014-05-11 07:44:55 | 先祖附

 先に「肥後讀史総覧」の「細川家主要家臣」にある坂崎家の系図に誤りがあることを指摘した。これを再確認するために坂崎清家の先祖附をご紹介したいと思う。 

                                     弐千七百石 坂崎清
                         一、先祖坂崎兵庫前廉川崎忠三郎と申候
                           池田勝入様江罷在其後蒲生飛騨守殿江
                           御備頭相勤其以後金吾中納言様江罷在
                           彼方ニ而茂御備頭相勤申候御暇申其以後
                           浪人ニ而播州尼崎江罷在候処ニ
                           三齋様被及聞召御家ニ可被召出候旨處ニ
                           被仰下候得共御断申上罷出不申候然處

             (初代)          嫡子坂崎清左衛門可被召仕由ニ而被召出御知行
                           千石被為拝領其後御加増五百石被為拝領候
                           兵庫儀茂一列ニ罷下候処ニ格別ニ弐千石被為
                           拝領候旨御座候得共数度御断申上其後
                           剃髪仕坂崎道雲と申候右弐千石御書出
                           其節頂戴仕今以取持仕居候右清左衛門儀
                           妙翁(應)院様御代御小姓頭役相勤            妙解院の間違い
                           真源院様御代御番頭役相勤申候処ニ年

                           罷寄申候付御役儀御断申上候処御免
                           芦北御番代ニ仰付十ケ年相勤彼地ニ而病死
                           右清左衛門有馬御陳之刻
                           真源院様江御附被成罷越申候彼地ニ而相働
                           為御褒美御知行五百石被為拝領候処ニ御断
                           申上候其節
                           真源院様清左衛門宅江被為掛 御腰候節成
                           御意候者有馬江被 召連働之趣

                           妙解院様江 悪敷被仰上候哉と存御知行
                           御断申旨哉是非拝領仕候様被遊御意御腰物
                           御直ニ被為拝領候御知行之儀茂奉得其意候段
                           御請申上候
              (二代)      一、祖父坂崎清左衛門儀実父者城清助と申候右     祖父とあるのは先祖附の筆者が四代目で有る事による。         
                           清助儀若手之時分 秀吉公江為人質
                           罷越申候其後城隈部其外国侍
                           一揆之節右人質共御誅罰ニ相極候刻岡田

                           将監申上候者親共之不忠■(依ヵ)之為存儀ニ而茂
                           無御座候付一命可被相助旨御断申上城隈部
                           両家之人質同前ニ申請乍両人同名ニ仕候付
                           右清助名字を改岡田源大夫と申候右清左衛門
                           儀於豊前国
                           妙解院様江岡田将監奉願十三歳ニ而御家ニ
                        被召出御知行四百石被為拝領岡田虎之助
                           申候其後両度御加増被下之此節岡田内膳と

                           申候都合七百五拾石被成下曾祖父坂崎清左衛門
                        二従弟ニ而御座候右清左衛門養子ニ被仰付坂崎
                        内膳と申候御児小姓頭被仰付相勤其以後
                           御加増三百石余被下之都合千六拾六石五升余
                           被為拝領御小姓頭被仰付相勤居申候処ニ曾祖父
                           坂崎清左衛門病死仕候ニ付家督御知行弐千石
                           被為拝領其後内膳江被下置候御知行を茂直ニ
                           被為拝領都合三千六拾六石五升余被下置候

                           妙應院様御代千石御加増被下之都合四千
                           六拾六石五斗余被為拝領御側ニ召仕御備頭
                           被仰付其後御家老役被仰付相勤申候其
                           已後極老仕隠居被仰付栖山と申候 

 

坂崎家に関する情報は「宮本武蔵」というすごいサイトの、「武蔵伝記集・武公伝4」の中間くらいの処に紹介されている。これは「忠利下問に対して、武蔵は坂崎内膳宛に文書を提出して応答した」という事に対してである。
ここに記されている「隈部・城両家の人質も殺されることになったが、岡田将監が嘆願して助命し、身柄を引き取った。その時城清助は名字を岡田源大夫と改めた。(中略)さて、岡田源大夫の子・虎之助は、十三歳の時、岡田将監が豊前小倉の細川忠利に願い出て、召抱えられた。(中略)名を岡田内膳と改めた。その後岡田内膳は、坂崎清左衛門の養子になった。」とある。しかしこれとて正確さに欠けている。
これは厳密に言うと「城清助は岡田源大夫と名を改め、その男・某は将監が養子(二男)となし忠利に召抱えられ、岡田虎之助と改めた。両度の加増を受けたがその節内膳と名を改めた」とすべきであろう。その後主命により坂崎清左衛門の養嗣子となった。
これは坂崎家と岡田家が姻戚関係(二従弟)にあり、このことによる主命であろうと推察される。 

一方坂崎家は「坂崎出羽守直盛」の一族とする柳生家の史料が存在する。「玉栄拾遺」には宝暦八年、編者が細川家家臣鳥養市兵衛に聞いた話として、「目下細川家中で坂崎兵庫なる者が侍大将として禄三千石を食んでいる。これが出羽守成政(直盛)の弟にして元和のはじめに藩主に仕えたものである」とある。元和の始めの召出ということになると、初代・清左衛門(道雲)と考えて間違いないと思われる。 

 

                            

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