寛永七年三月十七日付、忠利に宛てた三齋の書状に花に関する二つの記事がある。(綿考輯録・第三巻 忠興公・下 p151)
一、紫蘭のことく白キらん所望の由候間、此者之便宜ニほりて遣候へと河内所江申遣候、定而可参候、我等所ニ在之候は地震屋ニ植置候間、女之
細工ニハ能ほり候事中々成間敷と、下々の持候をほらせ進候と申付候、それ悪敷候は、我等げ次第ほらせ、地震屋之を可進候事
一、唐よりるかうと申花被取寄由候而、種を五十給候、もよう絵ニ被書候て、能合点参候、事之外見事なる花にて候、我等上屋敷ニ二十、下屋敷ニ
三十、去十三日四日ニうへさせ候、時分能、下地も能こしらへ申候間、つき可申と満足候(以下略)
(なおこの書状の説明として、るかうハ蜈蚣草と申よし、葉むかての足に似たるゆへかと九月廿三日之御書之内ニあり、とある)