「松平周防守様・松平右京大夫様(照貞)・松平右近将監様・板倉佐渡守様(晴清)・酒井左衛門尉様・秋元但馬守様(喬房)御廻り被遊候道法、廿九丁十九間」と書かれた項がある。調べて見ると皆さんどうやら老中職の方々らしい。つまりこのお歴々を一巡して挨拶をして廻るという事だろう。そしてこれに加えて「右ニ若御年寄様方御一同ニ御廻り被遊候」は「道法、三十四丁十六間」とある。参勤で江戸に下った時の一番の仕事である。(帰りもそうだが・・・・)
「竜ノ口(上屋敷)ヨリ白銀(下屋敷)江之道法」も幾通りものルートがある。
(1)表御門ヨリ、土手通・鍛冶橋・五郎兵衛丁・京橋筋・伊皿子上り、目黒御門迄 壱里十三丁五十間。
竹門迄、壱里壱四丁三十間余、表御門迄、壱里十四丁十八間など到着する御門ごとに記されている。
(2)裏御門ヨリ、鍛冶橋・京橋・尾張丁・田町・伊皿子・竹門迄 壱里十六丁九間
(3)右同、鍛冶橋・河岸通・尾張丁・芝西応寺丁・杢平阿波守様表御門前・聖坂・竹門迄 壱里半弐丁
(4)右同、大名小路・数寄屋橋出・直ニ通丁・田町通・目黒御門迄 壱里十丁廿間余
但、鍛冶橋ヨリ通ニ出候ヘハ、壱丁半余遠シ
(5)右同、数寄屋橋・鍋丁・増上寺大門前・片門前通・有馬様脇ヨリ・鋼坂・豊岡丁・魚籃竹門迄 壱里十六丁半四間
(6)右同、御門ヨリ、数寄屋橋・八官丁ヨリ、愛宕下中通・明神前・将監橋・四国丁・白銀表御門迄 壱里九丁五十間
(7)右同、数寄屋橋・八官丁・和泉守殿御門前通り・三嶋丁・将監橋ヨリ、新道筋・鋼坂・魚籃竹門迄 壱里十七丁九間
(10)右同、数寄屋橋・八官丁土橋・和泉守殿御門前・隠岐守様御屋敷脇より、裏大門入、天神谷・赤羽根柵門出、三田通・聖坂・目黒御門迄 壱里拾壱丁
(11)右同、数寄屋橋・八官丁・裏大門入・方丈前ヨリ、蓮池通・赤羽根・三田・聖坂・目黒御門迄 壱里七丁四十間
(12)右同、数寄屋橋・土橋切通・森本丁・元神明ヨリ、竹門迄 壱里十六丁
(13)右同、日比谷通り・新橋切通・森本丁・元神明、竹門迄 壱里半五十間余
(14)右同、八代洲河岸・日比谷御門・新橋・愛宕下切通・四国丁通・聖坂・白銀表御門迄 壱里十四丁五十間余
(15)右同、和田倉・桜田・虎御門・西久保・四国丁通・白銀御門まて 壱里十一丁二間
この十五通りをどう使い分けていたのか知る由もないが、余り距離的には違いがない。大方壱里十丁(5.0キロ)から十六丁(5.7キロ)といった処か。
大名行列のスピードは凡そ時速3キロ位だとされるから、二時間ほどということになるが、いまでは繁華な東京の街中をこんな時間では歩けないだろう。
古地図をなぞって悪戦苦闘である。
一里=三十六町=3.93km
一町=六十間=109m
一間=六尺=1.82m
一尺=30.3cm