津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■有吉家のシヤミとは・・・・

2014-05-27 17:03:14 | 人物

綿考輯録・第四巻 忠利公(上)p472の本文の最後尾にある記事である。

  ■今年、有吉頼母佐証人江戸江差越候也、シヤミ四歳と有之

たったこれだけの文章だが、シヤミとは沙弥であろうが、仏門にあった訳ではなく頭を丸めた童というような意味だと解しているが、どうだろうか・・・・
頼母佐とは有吉本家五代・英貴であり、「今年」とは寛永十二年の事なのだが、当年四歳というと生まれは寛永九年(1632)である。
この時期に頼母佐にこのような年齢に該当するような男子はない。つまり、頼母佐の嫡男で本家六代を継いだ英安は寛文二年(1662)26歳で亡くなっており、逆算すると生年は寛永十四年(1637)頃である。
本家四代で頼母佐の兄・興道は元和四年(1618)に亡くなっており、その二人の息も該当しない。
さてこの「シヤミ」と呼ばれ江戸証人となったとされる人物とは一体何方なのか・・・・・この解明は難問である。 


この件について有吉家のご当主からコメントを頂戴しました。
基本的な間違いは、男子とばかりに思い込んでいたことですが、頼母佐(英貴)殿の四女・志弥美様であることが判明しました。
詳しくはコメントをお読みください。




 

コメント (2)
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■西遊雑記巻之五(肥後) ・6

2014-05-27 15:13:57 | 史料

是より熊本城下へ僅に
一里余熊本は思ひし外廣大に見へ城は加藤清正朝臣
の築きたりし城にて外見目を驚せし事也石垣は
云ひ傳ふ清正を初メ加藤清正庄林何かし飯田角兵衛
三宅角左衛門なとゝ云ひし武勇の士人夫に交りておの/\
自から築しと云う 南方の石垣高サ数丈海内において
かくのこときの大丈夫なる石垣いまた予不見ひら城
とも山城とも称しかたし小山のうへを平らかにひらき
て縄張をし給ひし事と云ひ傳ふ

 

             清正権現之社
              社領千石別當寺を本妙寺
              と云大寺ニ而寺所十四ヶ寺
              二王門より社前まて八丁
              左右櫻樹数百本華ノ頃
              を思へし平生参詣の人
              数多なる故ニ茶店も有り
              六月廿一日より廿四日まての
              祭事ありて國中の貴
              賤群集一山法華宗にて
              他方にても末寺末社有り

              左右ニ画く山ハ小山にて頂
              の上に社を建しもの也 

 

城内はしらされとも外見仰山なる城にて其初ハ八方に
八門有りし事にて本丸と二の丸の間を往来とし
旅人の通行北より来る者は東の門より入て西の門へ
出南より来る者は西の門より入りて東の門に出る
其間数丁にて城門幾重も通る事にて左右高石垣
にて箱の内を行かことく前後もやくら門にてにて其門を
閉す時はいかんともなしかたき所なり 土人の物語りに薩
州侯の御往来の節此所にて前後左右を見給ひ大名の
通るへき所にあらすかゝる地を往来とせしは
心なき事と御いかり色見せしと云之 定て
虚説の事とは察しなからいかにも高貴の人の通行
すへき城内にあらす鳥をとめ籠へ入るゝやふの所也
市中凡をいふといふ東都の町わりのことく城を
中にして武家町商町を以てくる/\と取ま
はして家居有り城内には幾重も塀の有へ
けれとも城内の事を語るは国禁にて知れす 予
此城をめくりて水道の地理を考へ思ふ水の手
少しは不足ならんものか市中へも川の流れを
堰してかけ樋にて取りし所有り堀にも水沢山に
見ゆれとも溜り水也定而城中にハ井も有りて
水に不足なき用意有へし 西のかたに小高き山
有り此山の頂より遠目かねなとを以て見る時は
城内見すかす事もあらんか予此山へ不行遠見の推
量なり此二つの事なくは城におひては海内におゐて
双ふへき城有まし 第一要害堅固にして大城なり城外
凡五里余も原野ひらけ海遠からす国また大国也
清正朝臣は世人たゝ強勇のミの大将とのミ心得て
其実を知らす戦場のかけ引兵の用ひやふ智勇の
将なり遠きハ定かならす天文天正の比より慶長
初年まての爰かしこの戦ひを考へ思ふに恐れ有る
事なから
東照権現公は日本開闢の御名君にして後世とて
も有へきにあらす遥に劣りしとは云へとも毛利元就
上杉謙信此清正の合戦におゐては智謀計略も有り
て義も加はり合戦のしやふ感せる事有り而面白し
此外の戦は十にして七ッ八ッまても力くらへの合戦
にて感せる所稀なり 今は清正権現と称して此地に
はんしやう有る事其理り有て尤あがむへき社也
さて市中残りなく見めくりしに藝州廣島備前
岡山よりも甚タ廣くして商人も多く豪家も有る
所なから間/\に草ふきの貧家も交る町にて見苦敷
町有り 人の通行も廣嶋岡山ほとはなくて淋敷人物
言語も少かりしやふに見へ何となくて辺鄙の風俗有り

人物には薮茂次郎といへる大儒有りて學文も流行し
醫師には村井椿壽といふ學醫此外市中にも人物
なきにあらす繁栄の地と称すへき所也 堀うし
の名臣なる事は世に知る事故に爰に
略しぬ
名産はひゃうたん細工にいろ/\の上品有りて
他国におゐて稀也とすまた真珠丸といふ小児の
諸病に功有る名法有り是も他国にはなし

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・5

2014-05-27 07:14:48 | 史料

九州にて名高き熊本侯の御別館水前寺の
御茶屋見まく 水前寺は地名にて寺にはあらす 宇土より四里此間
に川尻と云よき湊有り諸州の商船肥後に来れハ
必す此浦に船を繋く所也大坂登しの肥後米こと
/\く川尻より積だす湊故に御米蔵も数多にて町
淋しからぬよき町也

土人相傳ふ天草一揆の時に賊此地の米を奪ひて
糧米にせんとて夜に入りて此濱へ渡らんとす此事
を川尻へ告るもの有りしに事急にしていかんとも
なしかたく不意の事にて熊本へ援兵を乞ふト云
まもなくすてに賊船海上僅に見ゆる故にこはいかゝ
せんと人/\うへを下へと騒動せしに蔵奉行何かし
智才有る人にて町中の火縄数百筋集メ是をかづ/\
に切て火をつけこれを三四尺斗の竹に結付て海
濱数十丁に立ならへしに折ふし闇夜なりしかは
火のひかり鉄炮の火なわのことし 賊船より此火を見て
熊本より堅めの士数千人備へたれは小人数にて叶ふ
ましと十町はかりにて船をかへして危ふき難を
のかれし事なり 全く蔵奉行一人の智謀にて数千
石の米を奪れざりしとの物語り有りき 予按に此
蔵奉行将の器量有る人なりしかるに其名さへ
詳ならす今にてもかゝる人もあらんに其事に預ら
されはむなしく世をふるのミ也

川尻より水前寺まて二里在道にて村数多し
と云へとも一家として豪家も見へす上方筋のことく
白壁にてぬりし土蔵なとも遠目にも見かけす
委しく土人に聞しに地所免にてむかしより
此辺にては百姓ばかりしてかね持には決てなら
らぬ所といへり左も見へし所なり 水前寺の有る
所を今村といふ予止宿せしは水前寺の御庭奉
行田中幸右衛門といひし人の家にて御庭一見の事を
願しに他国者は御法度にして一見ならす 物語り
のミ聞しに御庭の惣名を成趣園と称す御茶屋
を砕月亭と号してふじ山の形をつくりし
芝山有り此地はいかゝの事にや地中より清水を
吹出す事おびただしく其流レ川となりて川尻へ
落ル近江の醒井のことし當国の名産御献上となる
水前寺海苔は此川の流れに生せる海苔なり年に
よりて多少有りといへとも三千枚と五千枚は年/\に
生せる事にて左もなくては御献上の撰り海苔出来
かねるよし しかるに大坂におゐて水前寺海苔と
称せる海苔賣買ニ有る故に大坂蔵屋敷の役人へ
被仰付かの賣買したる水前寺海苔を調へ有りて
御吟味有りしに製しやふも仕たてやふも違ひ
し事なれとも海苔はまきれなき水前寺海苔ゆへ
海苔のつく川筋を御せんぎ有りけるに川下へ流し落ル
事数多にてそれを川筋の百姓取り製し所にて
賣は六つかしき故に内/\に大坂へ登してうりし事也
盗といふニもあらざれはさしての御咎もなく夫より
取る事の御法度となりしのミなり 成趣園の地方
凡そ八町四方泉水浅き所には飛石をつたひて亭に
至るふじの芝山より三保の松はらのもやふも有る
よし 泉水には鯉鮒数多にて夏中尤よしと
田中うじの物語なりし 門前まて行て入る事
不叶残念に思ひし事なりき 国分寺此村に有り見
るへきもなき小院なりし

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