是より熊本城下へ僅に
一里余熊本は思ひし外廣大に見へ城は加藤清正朝臣
の築きたりし城にて外見目を驚せし事也石垣は
云ひ傳ふ清正を初メ加藤清正庄林何かし飯田角兵衛
三宅角左衛門なとゝ云ひし武勇の士人夫に交りておの/\
自から築しと云う 南方の石垣高サ数丈海内において
かくのこときの大丈夫なる石垣いまた予不見ひら城
とも山城とも称しかたし小山のうへを平らかにひらき
て縄張をし給ひし事と云ひ傳ふ
清正権現之社
社領千石別當寺を本妙寺
と云大寺ニ而寺所十四ヶ寺
二王門より社前まて八丁
左右櫻樹数百本華ノ頃
を思へし平生参詣の人
数多なる故ニ茶店も有り
六月廿一日より廿四日まての
祭事ありて國中の貴
賤群集一山法華宗にて
他方にても末寺末社有り
左右ニ画く山ハ小山にて頂
の上に社を建しもの也
城内はしらされとも外見仰山なる城にて其初ハ八方に
八門有りし事にて本丸と二の丸の間を往来とし
旅人の通行北より来る者は東の門より入て西の門へ
出南より来る者は西の門より入りて東の門に出る
其間数丁にて城門幾重も通る事にて左右高石垣
にて箱の内を行かことく前後もやくら門にてにて其門を
閉す時はいかんともなしかたき所なり 土人の物語りに薩
州侯の御往来の節此所にて前後左右を見給ひ大名の
通るへき所にあらすかゝる地を往来とせしは
心なき事と御いかり色見せしと云之 定て
虚説の事とは察しなからいかにも高貴の人の通行
すへき城内にあらす鳥をとめ籠へ入るゝやふの所也
市中凡をいふといふ東都の町わりのことく城を
中にして武家町商町を以てくる/\と取ま
はして家居有り城内には幾重も塀の有へ
けれとも城内の事を語るは国禁にて知れす 予
此城をめくりて水道の地理を考へ思ふ水の手
少しは不足ならんものか市中へも川の流れを
堰してかけ樋にて取りし所有り堀にも水沢山に
見ゆれとも溜り水也定而城中にハ井も有りて
水に不足なき用意有へし 西のかたに小高き山
有り此山の頂より遠目かねなとを以て見る時は
城内見すかす事もあらんか予此山へ不行遠見の推
量なり此二つの事なくは城におひては海内におゐて
双ふへき城有まし 第一要害堅固にして大城なり城外
凡五里余も原野ひらけ海遠からす国また大国也
清正朝臣は世人たゝ強勇のミの大将とのミ心得て
其実を知らす戦場のかけ引兵の用ひやふ智勇の
将なり遠きハ定かならす天文天正の比より慶長
初年まての爰かしこの戦ひを考へ思ふに恐れ有る
事なから
東照権現公は日本開闢の御名君にして後世とて
も有へきにあらす遥に劣りしとは云へとも毛利元就
上杉謙信此清正の合戦におゐては智謀計略も有り
て義も加はり合戦のしやふ感せる事有り而面白し
此外の戦は十にして七ッ八ッまても力くらへの合戦
にて感せる所稀なり 今は清正権現と称して此地に
はんしやう有る事其理り有て尤あがむへき社也
さて市中残りなく見めくりしに藝州廣島備前
岡山よりも甚タ廣くして商人も多く豪家も有る
所なから間/\に草ふきの貧家も交る町にて見苦敷
町有り 人の通行も廣嶋岡山ほとはなくて淋敷人物
言語も少かりしやふに見へ何となくて辺鄙の風俗有り
人物には薮茂次郎といへる大儒有りて學文も流行し
醫師には村井椿壽といふ學醫此外市中にも人物
なきにあらす繁栄の地と称すへき所也 堀うし
の名臣なる事は世に知る事故に爰に
略しぬ
名産はひゃうたん細工にいろ/\の上品有りて
他国におゐて稀也とすまた真珠丸といふ小児の
諸病に功有る名法有り是も他国にはなし