津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■幽齋公新年の発句

2018-01-03 17:59:32 | memo

天正七年己卯正月元旦の発句       あすと思ふ春やけふさへ朝霞
 天正八年庚辰   同          春といへば雪さへ花のあしたかな
 天正九年辛巳   同          きのふたつ春やむかしの雲霞
 天正十一年癸未正月元旦の発句      道しるといふばかりなる今年かな    知命の歳(50歳)
 天正十三年乙酉正月八日(立春)発句   立そはむ春の日数や八重霞
 天正十四年丙戌正月十五日(立春)発句  まつ立つや十日あまりの春霞
 天正十五年丁亥正月元旦の発句      去年たちし春もけふこそ朝霞
 天正十六年戊子正月の発句        む月たつけさやきのふの春霞
 天正十七年己丑  同          としは越ぬけふ鶯の関もなし
 天正十八年庚寅正月元旦の発句      吾妻路も手にとる春の霞かな
 天正十九年辛卯  同          としといひて春もむかへし今年哉

 文禄二年癸巳正月元旦の発句       たび衣はるをうらやむことしかな
 文禄三年甲午   同          百花の木のめもけふや春の雨

 慶長元年丙申正月元旦の発句       としはこえぬ春立までや八重霞

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■釣耕園續邸の文化的価値調査事業「研究成果報告書」

2018-01-03 07:34:54 | 史料

熊本市島崎町5丁目にある續邸は、綱利時代には御茶屋があったという。
これが近侍していた續弾(団)右衛門に下げ渡された。續家では「お杖の先」と呼んで現在に至っている。
釣耕園」の名は、米田波門が詠んだ詩の中に「釣月耕雲」とあったことから名づけられたと伝わる。
綱利時代にどのような御茶屋があったのだろうか。その詳細は判らない。

米田波門とは三卿家老米田家の七代・是福の弟是著のことである。寛政九年(1797)78歳で亡くなっているから生年は享保五年(1720)であり、綱利の没年正徳四年(1714)からすると一年代時代が下っている。当時ここに綱利代の建物が存し、波門が訪問してその景色を愛で、詩をしたためたのだろう。

「釣耕」の二文字は、道元禅師の「西来祖道我伝東 釣月耕雲慕古風 世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中」に由来している。
 せいらい                                   こうじん       しんざんせつ   うち
(西来の祖道われ東に伝う、月に釣り雲に耕して古風を慕う、世俗の紅塵飛んで到らず、深山雪夜草庵の中)


さてこの「研究成果報告書」は、広大な「お杖の先」にある昭和初期に建築された「数寄屋風邸宅」の詳細な調査の記録である。
建築設計を生業としてきた私としては、大変興味深い報告書である。
無住の状態は建物の痛みは早い。地域で有効活用の道を模索されているようだが、大いに結構なことだ。
この報告書はA4判58頁の立派なものだが、昨年11月18日「城西地区地域活性化フォーラム」で配布されたものである。

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