津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■極寒に一衣不着のもの

2018-01-25 16:25:21 | ご挨拶

 連日寒い日が続いているが暖房の風が不得手な私は、大いに着込んで暖をとり、脱いだり着たりして調整をしている。
文政10年11月朔日の「惣月行事記録抜書」は、寒さに差向う中「一衣不着」の人たちに対する御救いに触れている。
しっかり頑張ってこのような状況から抜け出るようにと、苦言も呈している。

       例年極寒ニ差向候得は各支配内一衣不着之ものとも不及飢寒候様ニ連年被取救來候処、
       何之申分も無之有力達者之もの等第一衣不着ニ居候もの全銘々不心得故之事ニ付、夫
       等之類ハ救不申候て其段被相達候様との儀ニ付てハ、委細天明八年及達置候通候処、
       近年間々右体之もの有之哉ニ相聞、不心得之至第一風俗ニおゐて難相済事ニ候、根元
       鰥寡孤独其外病者不具之類或ハ非常之災難等ニて一衣不着之其身之力ニ難及難儀之訳
       ニ被対、御仁慈之筋を以取救候様ニ被仰付、其功を夫々被賞事ニ候得は取も直又上よ
       り之御救ニ候処、右躰之もの如何相心得候哉、平日己か振捌ハ自由ケ間敷候ても被取
       救候節ハ義理も恥も無之、剰人並ニ口を張居候など重疊不埒之至候間、以来右躰之者
       有之段相聞ハ屹ト御吟味之上、町人末座ニ被仰付筈ニ候、若其上ニも心底不相改産業
       不心懸にて徒らニ日を送り候者ハ一統風儀之妨ニ相成候間、猶稠敷被仰付筋も有之候
       間、其旨能々相心得候様、常々各以下役脇より之教示ハ不及申、五人組なとよりも無
       油断心を付、気立能成立産業心懸救を受不申程之自分ニ相成候ハヽ、其段達出有之次
       第屹ト御褒美被下置筈候条、右之趣委しく申諭候様、町中一統可被達旨候、以上
           十一月朔日           町方根取中
                渡辺甚三郎殿

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 朱書きした「振捌」は何と読むのだろうか、インターネットも効力を発してくれないが「振りさばく」か?
 棒手振り商売ということなのか。

 実は現在あるお宅の先祖附けを読んでいるが、二男が「不法之振捌いたし候付」、監督不行き届きで注意を受けている。
 武士の子が棒手振りすることもあるまいから、なにかを「売り捌いた」と理解しているが如何だろうか?
 どなたかご教示給われば幸いである。

 

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■太守様御縁組仰せ出さる

2018-01-25 12:45:50 | 歴史

 文政十年(1827)のお正月の事である。太守斎護の縁組について、幕府のお許しが出ている。
熊本藩年表稿には、その旨の書き込みがない。(こんなこともある!!!)

     正月十六日
      一、御縁組御願之通被仰出候ニ付、明後十八日二汁五采之御料理被遊御祝、
        且上々様御使者御一門衆初御近習御次諸手伝等迄御祝頂戴被仰付候、
        依之河内・松合其外之漁所今十六日より明十七日迄熊本直段元問屋え
        有限り持出候様、御達有之候                          大判振る舞い・魚問屋大忙し
     正月十九日
      一、旧臘十六日依召御名代細川邦衛(新田藩主・利用)殿登城之処、太守
        様え松平安芸守様御
息女益姫御縁組御願之通被仰出候段、御達有之候

先代藩主斎樹は先の年の2月12日に死去、3月29日幕府は宇土支藩藩主細川立政をもって本家相続をなした。
5月25日江戸発駕、6月27日熊本に着している。
文政10年3月4日参勤の為熊本初駕、4月19日江戸着。同6月9日益姫龍ノ口邸入り、11月6日婚姻となった。
斎護24歳、益姫21歳である。

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■霊巌洞の五百羅漢

2018-01-25 10:44:15 | 熊本

        クリックすると新しいウィンドウで開きます

                    「熊本素材写真アーカイブス・キロクマ」から引用

 宮本武蔵が晩年霊巌禅寺の洞穴(霊巌洞)に籠り、有名な「五輪書」を認めました。
霊巌禅寺から霊巌洞に至る岩山に、熊本の商人淵田屋儀平が安永八年(1779)の一月に発願し、五百羅漢像を建立しました。
24年かかったとされていますが、熊本藩年表稿によると完成は享和二年(1862)だとしておりどちらが本当でしょうか、何れにしろ膨大な時間を費やしています。
今では写真のように羅漢さまの首が落ちたりしていますが、時の流れを窺わせます。先人の偉業にただただ驚かされます。

          (先の史談会の例会にO会員の小学校三年生の女の子のお孫さんIちゃんが出席されました。
           おじいちゃんに連れられて来たのではなく、大変な歴史好きなのだそうです。
            Iちゃんの差し当たっての希望が、この霊巌洞を訪ねることだと聞いて、驚いてしまいました。
           由緒ある古い歴史を持つO家は、Iちゃんによっていつまでも伝えられていくことでしょう。)

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