津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水堀を勝手に埋めました処・・・

2018-01-09 15:55:18 | 史料

 延享元年七月十一日の「惣月行事記録抜書」に次のような記事がある。

    船場弐丁目・古河町・山崎町右三丁ノ町裏ニ前々より水堀有之候処、右之所ニ居候ものとも御堀を埋
    メ致隠地銘々屋敷内ニ取込不届之儀ニ候、右御堀之儀ハ、御絵図ニも出居候処、心儘ニ内々ニて右之
    仕方ニ付前々之通、堀候様ニも可被仰付候得ども、左候てハ大勢之者及難儀可申、且ハ御堀之形チも
    残り居候事ニ付、御慈悲之上、堀候儀ハ被差免、隠地之過料として五年分之地子銀一同ニ急度上候様
    ニ被仰付令其沙汰候、右之外ニ支配之所々右之通之様子も可有之哉、左候ハハ御絵図改相違ニ付令吟
    味、早々相達可申旨、御沙汰有之候条、左様相心得御町中遂吟味、有無之儀早々相達可申候、以上
          町奉行

 指摘の水堀が描かれているという絵図は、今迄お目にかかったことがないが、大変興味ある話ではある。
 是非ともどこにあったのか確認したいものだ。
 近くには「慶徳堀」などというものがあって、今では埋め立てられているが地名として残されている。
 大きく蛇行していた旧白川の流路が埋め立てられているが、名残のようにも思える。
 どのくらいの大きさだったのか、相当な土量だと思われるがどこから持ってきたのか・・勝手に埋めてはいけませんな~

 

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■擬作の語の初見

2018-01-09 09:04:16 | 徒然

 「擬作」という言葉について色々調べているが、松本寿三郎先生の御著「近世の領主支配と村落」の第三章「擬制的知行制の成立」の中、「一、家臣団構成」に次のような記述があった。(P231~232)

擬作の語の初見は延宝八年(1680)の知行直所務廃止に関連して「従来、江戸へ家老中幷大身の衆遣される刻、知行高のかまいなく、六〇〇〇石分の御擬作になす故、拝借無之ては不成儀、今からは知行高相応に仰付られ可然とある。

単なる言葉としての「初見」ということであれば、これは間違いである。
慶長二年、有吉与太郎安政(十五歳)が御擬作二千石を拝領していることが綿考輯録に記されている。(忠興公・上 p137)
これは有吉旗下の白杉某に扶持を支給できなくなり御暇にしている。細川家はこの白杉を直臣として召し、御鉄炮三拾挺頭を仰付けられている。
戦いが打ち続き有吉家に限らず困窮は極まっていた。そのような際の「擬作二千石」である。
三年後の慶長五年与太郎の父・立行が木付で大友義統と戦っていた折には、立行の妻まんが生活の困窮ぶりを認め木付の陣中に書状を送っているが、生まれたばかりの子(英貴)をかかえ戦乱の中を逃げ惑っている。

松本先生は「擬作の制度の確立」は貞享年あたりだとされており、先の「語の初見」として挙げられた一文にかんしても「家格に関するものではなく、蔵米を支給する程度の意味」とされている。有吉与太郎への擬作二千石も、まさにそのように解すべき性質のもであったろう。

コメント (2)
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