延享元年七月十一日の「惣月行事記録抜書」に次のような記事がある。
船場弐丁目・古河町・山崎町右三丁ノ町裏ニ前々より水堀有之候処、右之所ニ居候ものとも御堀を埋
メ致隠地銘々屋敷内ニ取込不届之儀ニ候、右御堀之儀ハ、御絵図ニも出居候処、心儘ニ内々ニて右之
仕方ニ付前々之通、堀候様ニも可被仰付候得ども、左候てハ大勢之者及難儀可申、且ハ御堀之形チも
残り居候事ニ付、御慈悲之上、堀候儀ハ被差免、隠地之過料として五年分之地子銀一同ニ急度上候様
ニ被仰付令其沙汰候、右之外ニ支配之所々右之通之様子も可有之哉、左候ハハ御絵図改相違ニ付令吟
味、早々相達可申旨、御沙汰有之候条、左様相心得御町中遂吟味、有無之儀早々相達可申候、以上
町奉行
指摘の水堀が描かれているという絵図は、今迄お目にかかったことがないが、大変興味ある話ではある。
是非ともどこにあったのか確認したいものだ。
近くには「慶徳堀」などというものがあって、今では埋め立てられているが地名として残されている。
大きく蛇行していた旧白川の流路が埋め立てられているが、名残のようにも思える。
どのくらいの大きさだったのか、相当な土量だと思われるがどこから持ってきたのか・・勝手に埋めてはいけませんな~