昨日、今年初めて「平成宇土細川家系譜」を手にしたところ、挟んでいた1997年当時の新聞記事や、光永先生からのお手紙などがパラリと落ちてきた。
改訂第5版が出たことを知りお手紙を出したところ、無料でお送りいただいた。御礼のお手紙を出すと又丁寧なご返事をたまわった。
新聞の切り抜きを見ながら、21年も前の事だと驚いている。写真でお分かりのように、使い込んだ成果(?)の手あかでテカテカ光っている。
熊本地震で本棚から落ちた際、人名索引が数ページ無くなってしまったのが誠に残念である。
著者の光永文熙先生はすでにお亡くなりになっているが、350部作られたが御実家にはもう残部がないとお聞きする。
人名索引の脱落部分を補いたいと思っているが、これは今年の初仕事として図書館に出かけコピーせずばなるまいと思っている。
一九六
「呉服壹丁目 佐賀屋文八郎
文化五年辰四月
右は千木秤改役人善四郎名代、武川權左衛門より相傳候、
緒替・棹替・目盛等取計候儀、差支無之段相達候
但、寛政七年より九年之秤改一件帳ニ記録いたし置候
也」
中古町懸古米屋壹丁目
秀嶋屋
忠 兵 衛
「此忠兵衛ハ致病死、跡目
は遠在ニ罷越、熊本え被居不申由」
千木秤之儀、大坂西三十五ヶ國ハ神善四郎え被仰付置候
ニ付、先達て為改名代罷下候砌、於御國善四郎秤座取次
所相願候付、右忠兵衛取次所ニ差免候、依之西三十五ヶ
國之秤、緒替之儀ハ、忠兵衛手前ニて仕替支無之、棹替
ハ忠兵衛より取次、京都え差登申筈候由、右改之役人
より相達置候、此段承置候様及達候事
但、町在迄ニ達
右明和七年閏六月
右之通、今度遂吟味致記録候、尤草書ニも不及、直ニ書
立候事故、文章も拙ク不都合之所も有之、且同し類之
事所々入交りニも相成居、又自然ニハ洩れ申たる事も可
有之哉、吟味之場ニ至り、彼是委ク可致心遣候、第一後
年無油断書入、彌不可有退轉者也
一九七
一病死之者二日二夜之内ニハ、よみかえり候儀稀ニ有之事 この事件は大変珍しいものとして、あちこちの史料に登場している。
候、既ニ此度、合志郡久米村之者、五十四歳之男大病相煩 「熊本藩町政史料」にも同様の記事がみえる。
候處、先月晦日之暁、致病死、翌朔日之夜葬候節ニ至よ
みかえり、追々服薬等ニて彌養生ニ相成候、然處、當時
下方之風俗ニて病死之者、早速不取置候得は、其家ハ不
及申脇々よりも不埒之様ニ相唱候処より、しきりに差急
候儀、甚心得違之事候條、以来取置不差急、時刻を考、葬
「在中幷寺社支配えも達」
候様可示置段、五ケ町え及達候事
右天明二年九月日帳
一九八
一御在國之砌所々御出之節、外聞役町内御先拂として罷出
候ニ付、合羽代之ため、三人え拾五匁五分宛町方集銀之
内より被渡下來候儀、前々より右之通ニは候得共、御出御
用ニかヽり候儀、町銀之内より可被渡下謂レ無之ニ付、
其段相達、以來御本方より被渡下筈ニ相極候事
右天明二年十月日帳
一九九
一火事之節、外聞役手ニ付候者無之、裁判届兼候趣ニ付、
以来小屋頭共外聞役手ニ付、差圖を受相勤候様、依之
平日町並番公役ハ被指免段、及達候事
右天明二年七月日帳
二〇〇
天明二寅十二月朔日
一着座已上之面々え御奉行中より紙面仕出候節、同役衆之
名前、文面ニ調候時ハ、何某殿と調可申段、當番所より
委キ趣知せ來候事
二〇一
天明二年寅四月日帳「熊本町ニ諏合寄合所被建旨之一件
天明七年十二月日帳ニ記す」
一近年町諏合共、間々不正之商賣取組等いたす由相聞、不
埒之至候、已來心得違之儀無之候、且諏合札等相願候節
ハ、五人組共より遂吟味、慥成者ニ候ハヽ受合、連印之
書付相達可申候、勿論丁頭・別當手前ニても、随分僉議
いたし、五人組共書付之通相違無之候ハヽ、相達可申筈
町中え及達候事
二〇二
一合薬札之儀ハ、世間事觸候丸散薬を町家之者共受賣いた
し候節、紛敷無之、為觸賣之者、下札ニ被渡置候處、心
得違之族有之、合薬札被渡下候ヘハ、自身/\ニ薬を拵、
見せ薬・觸賣共支無之様相心得居候様子ニ相聞候、依之
賣薬被成御免置候外、右合薬札を以自身ニ薬を拵、商賣
いたし候儀ハ、堅ク難成段、町中え及達候事
右天明二年十二月日帳
二〇三
一今度新三丁目出小屋三軒、須崎久左衛門跡屋敷ニ引移被
仰付、新三町目軒帳ニ記候ニ付、以來瓶屋町並之番公役
等相勤候様、別當より願ニよつて其通申付候事
右天明二年十二月日帳
二〇四
新坪井寺原町・紺屋町両町之丁頭
田代屋九平次
右ハ町頭役多年出精相勤候由二て、町並影踏御免被下候
様、別當共より相違、願之通家内共ニ影踏被成御免候間、
年々宗門覺書ニ別當中印を以差出候様及達候事
右天明二年十二月日帳