細川重賢公の時代の事である。
■安永二年三月八日 (薩摩・嶋津家)
一松平薩摩守様御家老嶋津帯刀方より於江戸弘福寺和尚まて物語被仕候處、
坂崎忠左衛門迄通達有之候ハ、当御家之儀薩州とハ前々御別懇之御筋目
有之、殊更御隣国之儀候得ハ、上下共ニ最前之通ニ成度と内々薩州様被
思召候との趣ニ付、其段被達 御聞忠左衛門殿を御使者ニ被遣、彼方様
よりも右帯刀方御使者ニ被罷越、御双方御別懇之御様子ニ候、就夫右帯
刀より被申達候ハ薩州之面々常々御領内通行被仕事ニ候得ハ、不都合之
儀而已可有之条、御領内之者ニ被思召如何躰ニも時宜相応少も無御遠慮
被仰付候様ニ有御座度由、御国末々之役人迄も其通相心得候様ニ有之度
と被申由ニ候、右之趣江戸より御家老中迄申参候間、此段各えも知せ置
可申旨ニ候間、左様御心得候様ニと存候、以上
三月八日 奉行所
春木 金大夫殿
中村甚五左衛門殿
新三丁目別当
次郎兵衛え
■元文元年八月廿七日 (筑前・黒田家)
一此方様松平筑前守様と当時迄御擬絶ニて候、然処ニ松平大学頭様段々御
取持ニて御和睦被成、向後御取遣被成筈之御達有之候