津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三齋側室・幾知殿

2019-11-27 14:51:22 | 人物

寛永元年八月二十日の日帳に次の様な記録が残る。

   忠興妾ヨリ重陽ノ |一、江戸ゟ村田忠右衛門下候、 三斎様へ 殿様ゟ続少介へ当、 御書箱壱つ参候、御はら殿ゟ 三
   祝儀       |  斎様へ御小袖箱ニ入参候、数ハしれ不申候事

中津に在る三齋の許へ忠利からの書と共に、三齋側室から重陽の節供の祝儀として小袖が送られてきたというのである。
そしてこの側室は清田氏であると注が入れられている。この時期江戸に在ったのであろう。
「御はら様」とは「御腹様」であろうが、細川立允(宇土細川家祖・立孝)と細川興孝(刑部家祖)の生母・幾知(吉)である。
この幾知は「御部屋様」の呼称でも呼ばれ、江戸愛宕山下の三齋屋敷に住んだといわれる。このような形でも消息が伺えて興味深い。
その出自は豊前大友一族の清田氏で清田寿閑(鎮乗・シゲノリ)女である。切支丹で岡城主であった志賀親次の弟で、転び切支丹だとされる清田凉泉院の婿養子となり清田家をついだ。高名な清田七助(石見)は幾知の兄である。
つまるところ、宇土細川家、細川刑部家には大友一族の志賀氏・清田氏の血が流れている。

付足し:
明日ご紹介する九月二日付万日帳では、上記の小袖を中津の三齋の許へ届けたところ、裄丈が短くて三齋が受け取らなかったことが報告されている。
家老をはじめ奉行衆その他があつまり、善後策をこうじるとともに、その日のうちに小早をたて京都へこの小袖(三枚)を贈る手はずをとっている。
重陽の節供は九重なりで九月九日である。さて間に合いますかどうか?関係者の慌てぶりが記されている。お楽しみに・・・

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■目白台細川邸

2019-11-27 10:31:22 | 徒然

 朝から何気なくヤフーニュースを読んでいたら、学生時代を和敬塾で過ごしたという元衆議院議員のY氏の話が載っていた。

和敬塾とはかっての細川侯爵邸と膨大な敷地を、昭和30年前川喜作氏が買取り財団法人・和敬塾を創立し「男子学生寮」を建設、多くの有為の学生が青春時代を過ごした。現在本館と称される建物は、かっての侯爵邸である。
この地にはかって広大な洋館建築が存在したが、東京大震災の被害を受けた。
          
                  
そして和敬塾本館と現在称されるイギリスチューダ式の洋館は昭和11年に建設されている。

この目白台の細川邸は、和敬塾・永青文庫(細川家旧家政所)・新江戸川公園(細川肥後庭園)の三つに分かれたが、その膨大な敷地は一筆の土地であった。

すなわち、旧・東京市小石川区高田老松町65番地である。本邸の入り口に二本の老松が立っており、これが地名の由来である。
すぐ西側はあの田中角栄の目白邸がある。

護立侯がこの建物の前で、夫人と共にドンドヤをされている写真が残されている。どこに掲載されていたのかをすっかり忘れていたが、寺嶋雅子氏(護立様二女)の御著「梅鉢草」に発見、下の写真であるが、背景にまさしくこの建物が写り込んでいるが、これは裏手にあたる。
現在の永青文庫はかっての家政所、護立侯の目の前やや左手奥にあたる。
右手奥が池や和風の建物が残る、現在の新江戸川公園(細川肥後庭園)で、まさに一筆地続きの広大なお屋敷であった。

             
 私の祖父は家扶として、大正四年から亡くなる昭和十九年まで、これらの細川家御屋敷の建物をつぶさに見ながら奉職した。   

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■細川小倉藩(87)寛永元年・万日帳(九月朔日)

2019-11-27 06:42:54 | 細川小倉藩

          (寛永元年九月)朔日

         |                          
         |     朔日 両人詰 晴天
         |

         | 河喜多・仁保所へ御奉行衆被集、談合候事
奉行等談合    |一、釘本半左衛門ヲ金子替ニ、大坂へ可差上由、半左衛門理も御座候ヲニ付、何かと被申候ヘハ、其
大阪米奉行交替  |                               〃
         |  身ためもいかゝニ候間、内証にて田猪兵衛ニ見仕可然之由、被申候ヘハ、猪兵衛得其意候間、
         |  今夕可申聞由候事           (己の下に大=異)
         |(同)
         |  □所にて
蔵奉行ノ定法   |一、御蔵奉行衆手前 御定法之旨、各吟味候て被申渡候事
         |同所にて
大坂城普請ノ鉄炮 |一、大坂御普請ニ、去年・当年御鉄炮衆被指上せ候儀、日用之積りニ而、惣銀割符ニ可仕旨ニ候間、
足軽日用ノ積   |          (野田幸長) (豊岡)
         |  其分ニ被仕候へと、小左衛門・甚丞所へ、差帋にて被申渡候事
         |同所にて
人抱ノ禁     |一、元田・入江定手伝と候て、新参ニ抱間敷ニ弥談合相究候、此中ノ分ニ可申付由候事
         |同所にて
         |一、藤崎言斎内十兵衛儀、抱候而、彦市・伝介手伝ニ可相渡申候事
         |同所にて
         |一、大坂へ、佐野嶋平兵衛可差上由之事
         |同所
宇佐郡水害    |一、宇佐郡大水ニ家なかし者ニ、ぬれ米を利なしニ米直シニ貸、是ハ立候て、右之御百性ともニハ御郡
濡米ヲ利ナシニ貸 |  麦ヲ可遣之由候事、但、田中猪兵衛・加藤新兵衛目録指出、両人談合ニ参候事
ス        |
         |同所
江戸廻米出船   |一、江戸へ、大廻り御米を、今朝出船仕候事
         |                       ( 刻印打 )
極印奉行     |一、佐藤安右衛門所ゟ御奉行衆へ書状参候、銀子ニこくいうち申候儀、又新汰場ニ、弥金子懸り申候
         |              (米田是門)       (米田是友)
         |  由之事、こくい之儀ハ、則米與右衛門殿へ指帋、甚左衛門被渡候
         |           
          

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