寛永元年八月二十日の日帳に次の様な記録が残る。
忠興妾ヨリ重陽ノ |一、江戸ゟ村田忠右衛門下候、 三斎様へ 殿様ゟ続少介へ当、 御書箱壱つ参候、御はら殿ゟ 三
祝儀 | 斎様へ御小袖箱ニ入参候、数ハしれ不申候事
中津に在る三齋の許へ忠利からの書と共に、三齋側室から重陽の節供の祝儀として小袖が送られてきたというのである。
そしてこの側室は清田氏であると注が入れられている。この時期江戸に在ったのであろう。
「御はら様」とは「御腹様」であろうが、細川立允(宇土細川家祖・立孝)と細川興孝(刑部家祖)の生母・幾知(吉)である。
この幾知は「御部屋様」の呼称でも呼ばれ、江戸愛宕山下の三齋屋敷に住んだといわれる。このような形でも消息が伺えて興味深い。
その出自は豊前大友一族の清田氏で清田寿閑(鎮乗・シゲノリ)女である。切支丹で岡城主であった志賀親次の弟で、転び切支丹だとされる清田凉泉院の婿養子となり清田家をついだ。高名な清田七助(石見)は幾知の兄である。
つまるところ、宇土細川家、細川刑部家には大友一族の志賀氏・清田氏の血が流れている。
付足し:
明日ご紹介する九月二日付万日帳では、上記の小袖を中津の三齋の許へ届けたところ、裄丈が短くて三齋が受け取らなかったことが報告されている。
家老をはじめ奉行衆その他があつまり、善後策をこうじるとともに、その日のうちに小早をたて京都へこの小袖(三枚)を贈る手はずをとっている。
重陽の節供は九重なりで九月九日である。さて間に合いますかどうか?関係者の慌てぶりが記されている。お楽しみに・・・