我が家に関係する先祖附その他の史料をみても、何時細川家に召し出されたのかは記録が見つからないでいた。
処が十年ほど前「福岡県史・近世史料集 細川小倉藩」の元和九年(1623)閏八月六日の項に、次の様な記録があることを発見した。
| 知行高弐百石
| 一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、
| しれ申候事
これは我家の初代・磯部庄左衛門の実兄であり、我家の祖・庄左衛門はこの兄・長五郎と共に召し出されている。
細川家士としての最後は8代の又太郎であり、これは明治三年(1870)七月に役職を罷免されている。
以降数年は熊本藩士であったのだろうが、詳細は判らない。180年ばかり細川家に仕えたことになる。
二代目太左衛門が母方の名字にかえ、現在の姓を名乗ることになった。
この人物はなかなか頑張っている。召し出しから54年勤めあげているが、15度の参勤交代を経験し江戸に在る事30年であったと記している。
幕府巡検使の案内や、水戸藩士・佐々助三郎の熊本巡行の案内役なども務めた。
15度の参勤を勤め、よくぞ金が続いたものだと少々感心するが、元禄九年に到るといよいよいきづまり「連々不勝手ニ而拝借之願申上候」処、参勤を免除されている。
まさに綱利公の代を過ごした人物であるが、出世には恵まれず穿鑿役にとどまった。150石取ではこんなところだろうか?
先祖附ではいろんな人物との関りが記されているが、そのような方々のご子孫といま交わりがあり、不思議さを感じている。
そんな方々の先祖附なども拝見し、時代を追って校合すると、新しい発見が見えるのではなかろうか。
楽しみは留まることがない。