明智光秀を祖父にもつ初代熊本藩主! 戦国乱世に戻さないための対応力とは?
―稲葉 継陽『細川忠利: ポスト戦国世代の国づくり』 山内 昌之氏による書評
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◆創業者と後継者
創業者と後継者との関係はいつの時代も厄介なものだ。戦国期を駆け抜け江戸時代にも活躍した細川忠興のように、耳に快い称賛ばかりに慣れ、国家のかじ取りや政治活動の場で、「燦然(さんぜん)と明るく照らされ、誰からも丸見えの場で、自分自身が成し遂げたこと」(古代ギリシャの哲学者クセノポン)の喜びを後継者に譲る気がなかった隠居もいる。忠興のような型の人物は、老齢とともに人びとの感謝や称賛の言葉が薄らぐことに我慢がならない。
忠興は立派に育てた忠利を家督継承者に定めても17年間も引退せず、忠利は元和7(1621)年36歳でようやく当主になった。三齋と号した忠興は中津城に隠居後、旧臣たちが機嫌伺いに来ないと忠利に当たりちらした。これは戦場と同じく政治でも盛りの時期が過ぎた現実を忠興がまだ直視しないからだ。忠利が「用所」(用件)を言いつけて不参を指示したと疑い、「国中に有りなから今迄参らざるは存外の儀かと存じ候」と不満たらたらなのだ(元和7年9月5日付忠利宛三齋書状『細川家史料』一)。驚いた忠利は「沙汰の限り」とまず老父に相づちを打ちつつ「誰々参り候か、参らず候か存ぜず候間、せんさく仕(つかまつ)るべくと存じ奉り候」と調査を約束したが、武具甲冑をつけぬ忠興の口煩(うるさ)さには、立派な子でもほとほと閉口させられたに違いない(元和7年9月5日付三齋宛忠利書状案『細川家史料』八)。
最近出された稲葉継陽氏の『細川忠利』(吉川弘文館)は本当に面白い本だった。三齋の中津隠居領3万7千石は軍役などを免除されたので、年貢収入はまるまる隠居の手元に残った。無役ゆえに財政が潤沢であり、何と隠居の翌年に米数千石を利子4割か5割で本藩に貸与し、十貫目の丁銀を利子2割で本藩に貸し付けたというのだ。プルタルコスもどきにいえば、三齋が疲れないのは金もうけをしているときだけだと揶揄(やゆ)されても仕方がない。舞鶴が躍動するような甲冑姿を戦場で誇った武人の老後は美しくない。忠利には、三齋の嫌いな小堀遠州(政一)とも共通する行政統治の才があり、藩と百姓をつなぐ惣庄屋の顔触れを着実に改めたのも面白くない。
三齋は、ガラシャ夫人の死後に寵愛(ちょうあい)した女性との子・立孝が育つに従って偏愛もつのる。「御家」だけを見て「御国」の経営に無頓着な戦国生き残りの忠興と、「御家」と「御国」が一つの「御国家」として止揚されるべきと考えた忠利との違いも大きい。救いは忠利が忠興の老人特有の惨めさに恥を上塗りさせる行為を避けたことだ。父子不和を表に出さない忠利の分別である。しかしストレスの代償は大きく、忠利は寛永18(1641)年に56歳で父に先立つ。「教科書的な次元を超えたリアリティー」と彼の統治を評価する稲葉氏の仕事は、理想的な統治を模索した地味な為政者の姿を浮き彫りにした。かねてからガラシャと忠利ひいきでもあった私にはまことにうれしいことだ。