津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■書評・稲葉継陽著「細川忠利・ポスト戦国時代の国づくり」

2019-11-28 09:30:23 | 書籍・読書

明智光秀を祖父にもつ初代熊本藩主! 戦国乱世に戻さないための対応力とは?
           ―稲葉 継陽『細川忠利: ポスト戦国世代の国づくり』 山内 昌之氏による書評 
                 
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◆創業者と後継者

創業者と後継者との関係はいつの時代も厄介なものだ。戦国期を駆け抜け江戸時代にも活躍した細川忠興のように、耳に快い称賛ばかりに慣れ、国家のかじ取りや政治活動の場で、「燦然(さんぜん)と明るく照らされ、誰からも丸見えの場で、自分自身が成し遂げたこと」(古代ギリシャの哲学者クセノポン)の喜びを後継者に譲る気がなかった隠居もいる。忠興のような型の人物は、老齢とともに人びとの感謝や称賛の言葉が薄らぐことに我慢がならない。

忠興は立派に育てた忠利を家督継承者に定めても17年間も引退せず、忠利は元和7(1621)年36歳でようやく当主になった。三齋と号した忠興は中津城に隠居後、旧臣たちが機嫌伺いに来ないと忠利に当たりちらした。これは戦場と同じく政治でも盛りの時期が過ぎた現実を忠興がまだ直視しないからだ。忠利が「用所」(用件)を言いつけて不参を指示したと疑い、「国中に有りなから今迄参らざるは存外の儀かと存じ候」と不満たらたらなのだ(元和7年9月5日付忠利宛三齋書状『細川家史料』一)。驚いた忠利は「沙汰の限り」とまず老父に相づちを打ちつつ「誰々参り候か、参らず候か存ぜず候間、せんさく仕(つかまつ)るべくと存じ奉り候」と調査を約束したが、武具甲冑をつけぬ忠興の口煩(うるさ)さには、立派な子でもほとほと閉口させられたに違いない(元和7年9月5日付三齋宛忠利書状案『細川家史料』八)。

最近出された稲葉継陽氏の『細川忠利』(吉川弘文館)は本当に面白い本だった。三齋の中津隠居領3万7千石は軍役などを免除されたので、年貢収入はまるまる隠居の手元に残った。無役ゆえに財政が潤沢であり、何と隠居の翌年に米数千石を利子4割か5割で本藩に貸与し、十貫目の丁銀を利子2割で本藩に貸し付けたというのだ。プルタルコスもどきにいえば、三齋が疲れないのは金もうけをしているときだけだと揶揄(やゆ)されても仕方がない。舞鶴が躍動するような甲冑姿を戦場で誇った武人の老後は美しくない。忠利には、三齋の嫌いな小堀遠州(政一)とも共通する行政統治の才があり、藩と百姓をつなぐ惣庄屋の顔触れを着実に改めたのも面白くない。

三齋は、ガラシャ夫人の死後に寵愛(ちょうあい)した女性との子・立孝が育つに従って偏愛もつのる。「御家」だけを見て「御国」の経営に無頓着な戦国生き残りの忠興と、「御家」と「御国」が一つの「御国家」として止揚されるべきと考えた忠利との違いも大きい。救いは忠利が忠興の老人特有の惨めさに恥を上塗りさせる行為を避けたことだ。父子不和を表に出さない忠利の分別である。しかしストレスの代償は大きく、忠利は寛永18(1641)年に56歳で父に先立つ。「教科書的な次元を超えたリアリティー」と彼の統治を評価する稲葉氏の仕事は、理想的な統治を模索した地味な為政者の姿を浮き彫りにした。かねてからガラシャと忠利ひいきでもあった私にはまことにうれしいことだ。

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■細川小倉藩(88)寛永元年・万日帳(九月二日)

2019-11-28 06:51:49 | 創作

          (寛永元年九月)ニ日

         |                          
         |     ニ 両人詰 晴天
         |
         |一、中津御奉行衆ゟ書状来候、中津御長ゑノ仁左衛門と申者、持参申候事
         |              ゟ                          裄丈
三斎ヘノ重陽ノ小 |一、谷助太夫、たつノ刻ニ中津被帰候、 三斎様へ之御小袖長さ・そでのゆきあい不申候ニ付、めし
袖丈ハズ書状 |                                      
共ニ返サル    |  て御らん被成、御返シ被成候、中津御奉行衆被申候ハ、定而御小袖かわり候間、此方ニ而御あら
         |                                      〃
         |  ため候て、御上ケ候由、ニ候事助太夫ニ口上ニ而被申渡候、則 越中様ゟ之御書も御小袖之上ニ
         |             〃〃〃
         |  置、此方ニ置候ていらさる儀ニ候間、返シ可申由被申候事、式ア殿・民ア殿へ中津御奉行衆ゟ返
         |         (西郡清忠)
         |  事被申候を、今朝形ア殿御小袖持参被申候、右之状写参候事
         |
公儀早飛脚    |一、公儀早飛脚之儀、三ケ番之御鉄炮頭衆へ可申渡之由候事
         |
         | (河田)    (林)               (塀)
小倉城廻リノ塀土 |一、八右衛門・弥五右衛門登城、御城廻り之坪七百五十間、どだいくさり候て、ひかへ柱斗ニてかゝ
台朽ル      |  わり申候、風ふき候ハヽ、たおれ可申候、いかゝ可有哉と申候、左候ハヽ、角木三百五十本入申
角木三百五十本ヲ |               (惑)  
渡ス   倒壊セ |  候、其内ニ三寸角無之候て迷悪申候由候、たおれ候てハ、 公儀へ被得 御意候ハてハ不成候
バ公ノ許可を要ス |  間、早々つくろひ被申付可然之由、被申渡候事
         |                         (米田是門)  (矢野)
三斎小袖ノ仕直  |一、三斎様ゟ九日之呉服被成御返シ候ニ付、御奉行三人、米與右殿・利斎、 式ア殿へ御呼、民ア殿
         |  打合、談合ニ而候、中津へも式ア殿・民ア殿ゟ飛脚を御奉行衆迄被遣候、 又呉服を調直シニ京
         |  へも中川四左衛門被指上せ候、今夕小早出船候事、呉服之御袖ノゆきを、式ア殿ニ而御くらべ候
         |                       〃
         |  ニ、弐分ほど宛みしかく、三つともニ少宛違申候事
         |        (親英)
松野親英懸り銀  |一、同所ニて、松野織ア懸り銀之事談合、とかく月引・日引ニ仕候へと、 御印御座候上ハ、此地ニ
月引  日引   |                                (逗)
         |  織ア殿被居候分、懸可申候、其上清兵衛・仁兵衛所ゟ書物ニも、此地通留中もかゝり申間敷との
         |                                  
         |  様子無之候間、かゝり申筈ニ可仕候、入江・宗像所、織アゟも御奉行衆〇へも右之通被申遣可然
         |  よし、御両人被仰候事                     
借米物成ニ不足ス |一、江戸書立被成 御下候、御給人衆物成不足祖候ほと御米借候儀、たれがさしつニ而候哉、急度言
ルホドニ貸セル者 |  上可仕旨被仰下候ニ付、豊岡ニ被申付、算用仕候へと被申付候、只今書出し候御書付之内、大田
ノ詮索      |  八郎右衛門・曽祢勘介ハ惣並ノ御借米も三十石宛ノ内ニかり申候、又三十石宛ゟ外ハかり不申衆
         |  も御座候、御増借仕候家ハ請人をニ三人宛立候而あかり申候、今少あらめニ候間、成ほと念ヲ入
         |  仕直候へと被申渡候
         |            (仕脱)
         |一、御鉄炮衆二人、平二郎荒子一人明晩出船、江戸へ可差遣ニ相済候事
         |

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