明治元年川尻に於ける「捨て子」についての記録が残る。川尻下町の今村徳次郎なる者が届け出た。
丁頭・横目から七人の町別当の押印を経て奉行所に提出された「口上之覚」に詳しい。
「口上之覚」
当月廿ニ日暮六半頃、私方戸口先ニ小児之泣声仕申候間、
早速罷出見繕申候処、六月過位之男子ニ而全捨子ニ相違
無御座、其節之衣類者縞絣はき之袷、古肌着壱ツ、同袖
なし羽織壱ツ都合三枚、外ニ古手拭、同まいたり、是者
しきものにして有之候、右之通拾ひ揚ケ申候、然処私方
ニ乳持之者無御座候ニ付、近隣之乳持を相頼ミ養育仕居
申候、此段口上之覚を以御達申上候、以上
川尻下町
明治元年十一月 今村徳次郎
悪名高い徳川綱吉の生類憐みの令があるが、一方では「赤ん坊は授かりもの」として、捨て子等はその地域で養育させることが義務付けられている。
10歳になるまではその町や村で養育しその間里親を希望するものがあれば、これに託されたという。
さて上記の件に於いては、幸いなことにすぐさま赤子を育てたいという人物が現れている。
これも丁頭・横目四人から七人の町別当の押印を経て郡役所に提出された。
「奉願覚」
捨子
壱人
右者私儀五ヶ年以前妻帯仕候処、今ニ代継茂無御座候ニ
付、案労仕居申候処、男子壱人有捨候由承申候ニ付、何
卒私江被為拝領被下候様奉願候、如願被 仰付被下候ハヽ
相育代継ニ仕可申段難有奉存候、此段宜敷被 仰付可被
下候、為其覚書を以奉願上候、以上
川尻岡町
明治二年三月 千太郎
申出を受け役所ではこの千太郎という人物の身元を調べている。
「千太郎儀勝手向も兎哉角押居候、夫婦共ニ慈愛厚、兼而心得方宜由」故に願いの通りにして良いのではないかと申し達ししている。
これをうけ、飽田郡代二名が連名にて、その月のうちに町方参政宛に上申、四月初旬には許可がなされた。
去十一月廿ニ日夜、川尻下町今村徳次郎戸口際ニ捨子有
之候処、同町千太郎と申者養育いたし度段書付被御達置
候、依之金子三両三歩被添下候条、往々心を付養育いた
し候様可有御達候、以上
明治二年巳也 町方
四月五日 参政中
飽田
御郡代衆中
千太郎なる人物が養育を申し出てから、ほぼひと月で許可がなされている。
赤子を預かっていた人々にとっても、喜ぶべき結果がもたらされた。
幸いがもたらされたこの子は、生命力がなかったのか二月ほどして残念ながら死去している。
「本文捨子、当月十八日病死いたし候段、川尻入江次
郎太郎へ達之書付、六月廿九日差廻来候事、此先ニ
記録アリ」
以下届け出の覚である。
申上覚
岡町
一男子壱人 千太郎
養子
右者捨子同人江被為拝領難有相育居候処、病気差起り療
用相叶不申病死仕候、此段覚書を以御達申上候、以上
丁頭
明治二年六月 米村金八(以下二名略)
別当七名宛
石原陽太郎殿
入江次郎太郎殿
「付札」
「本紙之趣ニ付、承繕申候処、千太郎相育候捨児、元
来乳養之生育無之処より病気差起、下痢相添候由ニ
付、千太郎夫婦共々昼夜差添看病手厚いたし、懸医
道家大春方、且松岡俊五方江療治相頼療用いたし居
候内、当月十八日暮過頃病死いたし候由ニ而、於所
柄茂何そ煩敷唱茂無之由ニ相聞申候、以上
六月 森又三郎 」
昨今、自らの子を虐待の上殺すという無慈悲な事件が頻繁に報道され眉をひそめさせている。
そんな中、江戸時代にこのような「捨て子」をコミュニティーに責任を以て養育させるという救済策が存在していたことを、詳しい事例を以て知りえて感動を覚える。
短い間ながら、精いっぱいの愛情の中で育てられたことが、せめての救いである。
「授かりもの」である将来ある子らの行く末に輝きあれと祈るばかりである。
江戸の捨て子たち―その肖像 (歴史文化ライブラリー)