津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■逆流性食道炎?

2019-11-13 16:31:39 | 徒然

 ここ一週間ばかり、不快な胸部痛におそわれ、あと数日でひと月おきの診察日なのだが、待ちきれずに病院行き。
左胸に痛みがあり、胃のあたりにも鈍痛が慢性的にあり不快極まりない。一年ほど前心臓肥大だといわれて、心臓に起因するものかと思って出かけたが、即座に否定されてこちらは一安心・・・。
症状から「逆流性食道炎」とのご託宣が出た。「ファモチジン錠10㎎」という胃薬の処方を受けて帰る。
原因は何なんでしょうね。年寄に又症状が一つ増えて、不愉快な事ではある。

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■細川小倉藩(73)寛永元年・日帳

2019-11-13 10:58:17 | 細川小倉藩

                         (寛永元年八月)十四日

         |                          
         |     十四日   両人詰 朝曇 
         |              (安宅)
田川郡奉行ノ報告 |一、林與兵衛登城ニ而、田川郡あたか村に而助兵衛と申百性、四郎右衛門と申百姓をなたニ而切申
間男刃傷一件   |  候、様子ハ助兵衛女を、四郎右衛門内々心をかけ、ぬすミ申由きヽ候て、切申由申候、然共、慥
女鉄火ニ焼ズ   |  成せうこ無之候、女二てつ火なと取せ申候へ共、手もやけ不申候由申候、右之四郎右衛門口を尋 
         |  候ヘハ、少も左様之きハ不仕候、以下様之御きうめい被成候共不存候、四郎右衛門すいりやう仕
訴人ヲ恨ム    |  候ハ、当春彼助兵衛走申候ヲ、郡代へ申候、其いこんニ仕たると存候事
筑前へ走者    |一、同郡作右衛門と申者、前かとハ田川郡ニ居申候百性ニ而候、彼者ちくせんへ壱とせはしり申候、
土蔵破リ     |  ちくせんニ而蔵をやふり、米をぬすミ申候、あらわれさうニ御座候故、おやをすて、たがわへはし
         |  り参候て、おぢ御座候ニかゝり居申候、彼者女しくせんニ置申候、跡ニ而、余人へゑんニ付候由
         |  きゝ候而、我等ノ有もきかすニ、はやゑんニ付候由、口をしく存候間、しうとをうちはたし可申
         |  と申、又ちくせんへ参候由申候、色々留申候へ共、きゝ不申候間、不及是非、おいなからうち切
         |  申候様ニ承候由、與兵衛被申候事
         |                             ニと
惣奉行京都中津郡 |一、宮部久三郎登城ニ而、京都・中津郡へ御詰衆御借米渡シ候やう、ミな/\さしかミ参候へ共、両
詰衆ヘノ貸米ノ断 |  人郡ニミな/\へ渡シ候ほとハム御座候、いまた田ニ米出来不申候間、成不申候、無念ニ思召候
リ        |  〃
         |  間、前かとニ申入候由候事
野田幸長中津ノ算 |一、野田小左衛門中津へ御算用ニ、小早舟ニ而参候、かちにて参筈ニ候へ共、眼病相煩候故、小早を
用        |  被申付候事
新百姓ノ新築ニ竹 |一、有間刑ア登城、当御郡ぎおん原ニ、新百性拾四人家数廿作り申候、此竹木被下候様にと、目録上
木渡シ      |     (規矩郡)  
         |  ケ申候、西大野山にて遣候へと、御奉行衆判形被仕候、判分ハ西大野山、半分のちぎやう大塚ニ
         |  而被渡候事
銀鍋ノ算用延引  |一、藤本勘五郎、御上洛前ニ銀なべ被仰付、上ケ申候、其銀子ノあまり預置申候ヲ、 上方へ御使ニ
法度ハ一倍    |  上、又下候ても、かなたこなた仕、利さかい〇まて延引仕候、御法度ニハ 一ばいニ而可召上旨
         | (ママ)
         |  ニ之由被仰候、 一ゑん左様ノ儀不存候て、ゆき当申候、右之段せい帋ニ而候ハヽ、くるしかる
         |                加三わり銀子上ケ  
         |  ましき由ニ候事、則せいし被仕〇候事、相弁候事
         |        〃
         |一、井戸亀右衛門与小頭登城、御鉄炮ノ藤本二左衛門と申者病死仕候事
         |
新銭鋳造ノ奉行手 |一、瀬崎猪右衛門新銭鋳申御奉行ニ、香春へ参候へと被申付候ヘハ、手前礑不罷成候、其上小者も所
前ナラズ差替ウ  |  持不申候間、余人ニ被仰付か被下之由、達而申ニ付、右之通無紛候間、指替可申之由候事
         |   (義近)        (藤崎正義)               (ママ)
         |一、藤崎喜八郎登城候て、言斎家屋敷之儀、喜八郎江戸へ罷候刻、明可申之由、被申越候事
         | (細川藤孝室)沼田麝香                           (首)
光寿院七回忌ノ布 |一、光寿院様七年忌之地僧衆へ御布施金、西堂ヘハ銀子五枚、圭主座共ニ四人ニハ八木九石、 三斎
施        |  様ゟ被遣候事                   (雲嶽霊圭)
         |



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■旅家老・三宅藤兵衛から三卿家老・長岡監物宛の書状

2019-11-13 06:41:59 | オークション

 大石内蔵助ほか赤穂浪士引取り熊本藩責任者 三宅藤兵衛書状 長岡監物宛 というヤフオク、内容は赤穂浪士引き取りに関するものではないのでご注意を・・・
主税(綱利養子、のちの宣紀)の名前が出ていることを考えると、主税が綱利の養子となった宝永五年(1708)から藤兵衛が家老職となり江戸を離れる正徳二年(1712)までの間のものか?
この時期太守・綱利は生母・清高院の看病の為と称して帰国しようとしない。そんな中、世子として認められた主税(宣紀)は綱利に替り、宝永七年六月熊本に向け発駕しており、約半年を熊本で過ごし、八年二月に熊本を出発して三月七日江戸についている。
二月廿八日の日付からすると、文中の「大井川」云々の記述も整合する。さて私の推量は正解であろうか?

ちなみに長岡監物は5代・米田是庸、三宅藤兵衛は3代・重経(元禄十五年~正徳二年一月 旅家老、正徳二年一月~正徳五年八月 家老)である。

          
                                         

 

                      
                                                                   

           

                                中央部

 

   左

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