31 の儀ニ付精を出首尾能仕廻骨折候段具さ
連 上聞候段御直ニ 御意有之難有次第手疵
快気の上正保元年六月 御前へ被 召出此度
の手柄を御賞詞有湯治抔致可然由御懇
意の被 仰渡也 其上尓て御鉄炮十挺御預
被成候而猶又 御意尓府中ニてハ気も晴やか
尓有まじ府外二出候而山沢逍遥し寛々
保養望尓任せ何方成共山荘の地可被下由也
又七郎難有由御請申上御前を退出す 何方か失念
見立て屋敷拝領住居す聞人々扨手柄哉と称美しけれ 又
七郎段々結構被 仰付難有奉存由傳へ承ル
元亀天正の比ハ城攻合戦武士ハ朝夕也 如此事ハ
朝茶のこ尓も足りなんと笑ひける尓何連も其勇
気を感しけると也
私云或節尓廿一日阿部屋敷隣何某と申
者其日当番なりけるが御番被成 御免阿
部へ討手被差向候ニ付火用心且又落人
等無之様尓心を附致在者候様被 仰付
候間其御旨堅守り安閑と在者候由 然共
跡尓て何共被 仰付ハ無之由かの栖本か心
懸と此人の有様考合候へ共誠尓黒白ノ違
乍不及栖本が心懸被あらまほしく候 後日
二月四日、今日は立春の日である。毎度の事ながら「春は名のみの風の寒さや・♪♪」と口について出る。
しかしここ数日暖冬から並の冬に帰ったような感じである。
さて、217年前元禄16年2月4日といえば、赤穂浪士46名が切腹を仰せつけられた日である。白金の細川家下屋敷で17名が切腹した。
今回の史談会(15日)では同じ月の事件として、赤穂浪士の「御預人記録」を取り上げることにした。
事務局を預かる身として御三方ほど講師をお願いすることで少々安心していたが、先様のご都合も有り、どなたも今月は無理だということで、今回も責任当番である。
史料の読み込みと共に、インターネットで関連記事を読んだりしている。
本所松坂邸の平面図、引き上げる赤穂浪士の隊列、泉岳寺までの道順などを調べていると、興味は尽きない。
白金邸と泉岳寺の位置関係、白金邸の配置図・間取り図、切腹の絵図や状況を示す図面など準備をするものもたくさんあって、あっという間の残り時間になりそうである。
実は、接待役を勤めた堀内傳右衛門の覚書を取り上げようかとも思ったのだが、ボリュウムが大きすぎて無理であり、特に興味ある逸話はピックアップしてご紹介しようと思っている。
旧暦2月4日はグレゴリオ暦では3月20日である。江戸の春は暖かさも増してきたことであったろう。
(寛永三年七月)五日~九日
|
| 五日
|
御物師ノ船中賄 |一、御物師衆へ上方へ上せ申候ニ付、舟中賄人として、佐分利兵太夫与ノ後藤七左衛門申付候事、
| 〃
野田幸長出船 |一、野田小左衛門今晩出船被仕候事、
| (忠有)
彦山座主病治療ニ |一、彦山僧正御房御煩ニ付、当町之くすし見斎遣候、就夫、馬壱疋・人弐人申付候事、
薬師ヲ派遣ス |
|
| 六日
|〇記載ナシ
|
| 七日
| ( マ マ )
下関買米 |一、蔵本之甚右衛門 右両人ニ、野田小左衛門■■■才覚ニて、下ノ関へ米かいニ遣被申
米価百目ニ三石五 | 候、米弐百石斗有之由申候へ共、殊外高直ニ御座候、百目ニ付、三石五斗六升斗之間ニうり可申
斗六升ノ間 | 由申候、小左衛門■被仰付も、何程高直ニ申候とも、弐百石斗先買調可申候、其外ハ小左衛門上
高クトモ買ウベシ | 方ゟかい下シ可申之由、被申候か、いかゝ可有御座候哉と申候ニ付、何程高ク候ともかい調可申
| 由、申渡候事、
|
| 八日
|
中津買米 |一、中津へ米かいニ遣候御鉄炮衆、明石源左衛門与ノ池田左兵衛也、
| メのニ画目を突き通さず
囮雀ノ飼札 |一、じゞめきおとりの飼札八枚来候、十日之日付ニ■、内田久太夫ニ相渡候事、
| (松井興長) (米田是季)(有吉英貴)
奥方火ノ用心 |一、おくの火用心■之事、式ア少輔殿・監物殿・頼母佐殿被仰候通、梅田和泉・本庄少介両人ニ申渡
| 候事
|
| 九日
| (鬼籠)
女敵討ノ糺明 |一、池内源介を、国東郡木子村惣吉女房間男糺明のため遣候、段々様子申渡候事、
下関買米四百石 |一、下ノ関ニ而御買米四百石有之由、舟瀬里兵衛申来候ニ付、四百石共ニ当津へ廻候へと、申付候事、
筑前ヨリ女房盗来 |一、筑前ゟ女房をぬすミ参候九郎太夫、せんさく被仕候へと、富田十太夫・伊藤儀太夫両人ニ申渡
ルノ詮索 | 候事、
|
沼田延元女江戸借 |一、長岡勘解由殿御娘子二、江戸ニ而去年五月ゟ同極月迄、御米金銀御借被成、元分ニて相済、うけ
| (小篠) (松野親英)(町)
米金銀ノ算用 | 取との江戸□次太夫・織ア・三右衛門加判切手弐枚、勘解由殿内■永井惣右衛門被持来候を、彦
| (ゟヵ)
| 進・甚丞へ見せ可被申由、申渡候事、
忠利小荷駄はやひ |一、殿様ノ御小荷駄、はやひニて死申候由、上田忠左衛門所ゟ申来候事、
ニテ死ス |