細川家家臣田中小右衛門・奥村安左衛門・熊本宇土藩主細川大和守宛・江戸期・古文書
興味深い文書である。細川大和守とあるのは宇土細川家7代・興里である。享保二十年に13歳で家督、元文元年に従五位下大和守となった。
寛保四年(延享元年)甲子二月八日、興里は参向公家・勅使久我大納言通兄卿の館伴(饗応役)を命ぜられている。興里は23歳の若さである。
この書状は約一か月後のものあるが、重賢が幕府の許可を得て、岳父である久我通兄(細川重賢夫人・由婦姫の父親)を、細川家屋敷に招くについての連絡である。
幕府に申し入れたところ「勝手次第に」と松平伊豆守(松平信明か)の了解があったことが判る。
大和守様 奥村安左衛門
田中小右衛門
以手紙啓上仕候 今度
久我大納言様御■ニ付
御逗留中傳
奏御屋敷江
太守様御見廻御對面
當御屋敷被成御招請給
被成度申御用番松平
伊豆守様江御書付を以
被成御伺候處御勝手次第
可被成旨昨日御■差図被成候
此段私共ゟ御■を可得
貴■旨被 仰付如是
御申付候以上
三月九日
■田中小右衛門
人物の特定ができないが、「豊臣家五奉行の一人、近江水口五万石城主、関原において西軍につき自刃した長束(水口)大蔵大輔正家 の子・半左衛門が、
細川幽齋の娘・伊也と吉田兼治のあいだの娘を室としている。
小右衛門とはその子・2代信言もしくは3代又助かと思われるが、「御侍帳・享保八年写」に「小左衛門 御中小姓頭 六百石」とある。
■奥村安左衛門
奥村軍記家(南東10-17)4代目安左衛門・親貞(庄次郎)
千三百石 御番頭二番着座大組附御奉行触 屋敷・内坪井
享保十四年~元文五年十一月 小姓頭
元文五年八月~宝暦七年四月 用人
宝暦九年一月~宝暦十一年(病死)番頭