津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家家臣田中小右衛門・奥村安左衛門・熊本宇土藩主細川大和守宛古文書

2020-02-02 21:48:21 | オークション

                                    細川家家臣田中小右衛門・奥村安左衛門・熊本宇土藩主細川大和守宛・江戸期・古文書

                                 

   興味深い文書である。細川大和守とあるのは宇土細川家7代・興里である。享保二十年に13歳で家督、元文元年に従五位下大和守となった。
寛保四年(延享元年)甲子二月八日、興里は参向公家・勅使久我大納言通兄卿の館伴(饗応役)を命ぜられている。興里は23歳の若さである。
この書状は約一か月後のものあるが、重賢が幕府の許可を得て、岳父である久我通兄(細川重賢夫人・由婦姫の父親)を、細川家屋敷に招くについての連絡である。
幕府に申し入れたところ「勝手次第に」と松平伊豆守(松平信明か)の了解があったことが判る。

                  大和守様     奥村安左衛門 
                           田中小右衛門   

                  以手紙啓上仕候 今度
                  久我大納言様御■ニ付
                  御逗留中傳
                  奏御屋敷江
                  太守様御見廻御對面
                  當御屋敷被成御招請給
                  被成度申御用番松平
                  伊豆守様江御書付を以
                  被成御伺候處御勝手次第
                  可被成旨昨日御■差図被成候
                  此段私共ゟ御■を可得
                  貴■旨被 仰付如是
                  御申付候以上
                    三月九日                
                                           

      ■田中小右衛門
    人物の特定ができないが、「豊臣家五奉行の一人、近江水口五万石城主、関原において西軍につき自刃した長束(水口)大蔵大輔正家 の子・半左衛門が、
    細川幽齋の娘・伊也と吉田兼治のあいだの娘を室としている。
    小右衛門とはその子・2代信言もしくは3代又助かと思われるが、「御侍帳・享保八年写」に「小左衛門 御中小姓頭 六百石」とある。

   ■奥村安左衛門
              奥村軍記家(南東10-17)4代目安左衛門・親貞(庄次郎) 
          千三百石 御番頭二番着座大組附御奉行触 屋敷・内坪井
                享保十四年~元文五年十一月 小姓頭
                元文五年八月~宝暦七年四月 用人
                宝暦九年一月~宝暦十一年(病死)番頭

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■如月のネコ

2020-02-02 13:10:11 | 俳句

  一月生まれの私だが、寒さは苦手である。しかし今年の冬は例年と比べ気温が平均2~3度高かったという。
大きな災害をもたらした昨年の異常な気候を引き継いでいるようで、いやな感じがする。

朝の散歩でも手袋やネックウォーマーを必要としない日が随分あった。
明後日は立春だというのに、ここ数日遅ればせながら冬の気温にさがってきた。一週間ばかりは「寒い冬」になりそうだが、今日は太陽もサン/\で散歩も気持ちが良い。

 今日は最低気温が1・2度といったところか。日曜日とあって少々朝寝坊したこともあって散歩の時間も少し押してしまった。
歩いていると目の前をネコが歩いている。首にバンダナ状のものがまかれているから野良猫ではなさそうだ。
1、2mほどのブロック塀の側まで来ると、見事に塀の上にジャンプして見せた。
私が通り過ぎるのを首を回しながら見送ってくれる。頭をなぜようとしたら逃げられてしまった。
歩みを進めながら、ふとどなたかに「塀の上を歩くネコ」の句があったな~と思い至ったが、肝心の句は浮かんでこない。

 大いに気になって、帰宅してこれはと思う本を手あたり次第引っ張り出してみてみるが、中々行きあたらない。
約一時間、徒労に終わるかな~と思っていたところでようやく見つけ出した。
東京やなぎ句会編の「五・七・五、句宴四十年」に、落語家入船亭扇橋が「友を偲ぶ」という項で紹介している。
直木賞作家の故・神吉拓郎氏の句であった。

         きさらぎの 大猫塀をわたりけり

なんと季語が「きさらぎ」、まさに今日の風景にぴったりではないか・・・
句自体は思い出せなかったが、心に残っていたのだろう。神吉氏は猫を愛してやまなかったと解説があった。

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■細川小倉藩(139)寛永三年・日帳(六月廿六日~廿九日)

2020-02-02 09:23:00 | 細川小倉藩

                       (寛永三年六月)廿六日~廿九日

         
         |     廿六日
         |

江戸大廻ノ米船帰 |一、江戸大廻りノ御米舟五艘罷戻、御船頭手嶋茂太夫・上田惣吉・村上新右衛門・加来久三郎・三
着        |                六月四日ニ江戸を出船、
航海日数     |  宅清介、右五人登城被仕候事、〇昨廿五日ニ、此地嫡舟仕由、被申候事、
         |              〃
         |                 (志水元五)(加々山可政)
         |一、御物師ニ付上せ候北村三右衛門ニ伯耆殿ゟ主馬所殿へ参しふかミ包壱つ、同人ゟ薮図書方へ参候
         |          (恵重)
         |  状壱包、同人ゟ志水新丞所へ参状壱包相渡候事、
竹屋喜兵衛買入ノ |一、御上洛前ニ、竹屋喜兵衛中国ニて買候へ共失念仕、此地へ不持来候ニ付、只今中国ゟ参候由ニ
刀        |  て、刀ハ與平次被請取、代銀相渡由、與平次被申候事、
         |                                      (刈田、京都郡)
豊後横目庄田安照 |一、豊後御横目庄田小左衛門殿を走り候ものゝ儀、御家老衆ゟ御国中御触候処ニ、今日かん田ゟふし
内ノ走者ノ探索  |  ん成者両人参申候通、申来ニ付、御家老衆為御談合、御奉行所へ被成御座候、則横田権佐・冨田
         |  十大夫、右両人ニ与之衆拾人斗御付、とらへニ被遣可然ニ談合相究、被仰付、被通候事、
         |

         
         |     廿七日
         |                               (豊後規矩郡)

         |一、豊後御横目庄田小左衛門殿御内衆弐人走候ニ付、御国中ハ不及申、小田迄も、此段御家老衆中ゟ
豊後横目庄田安照 |        (苅田、京都郡)(ママ)               (正重)
内ノ走者捕縛   |  被仰触候へ共、かんた迄昨日とらへ、今日豊後へ黒田蔵人引せ被遣ニ付、永屋七郎左衛門ニ番を
         |  引被申候へと被仰遣候状、御鉄炮衆へ持せ遣候事、
走者二人護送   |一、右走もの弐人、豊後苻内へ引せ被参候御奉行黒田蔵人ニ、御鉄炮衆ノ小頭拾弐人内弐人ハ小頭相添、
継馬       |  次馬ニ乗せ、道中賄申付遣候事、                〃〃
飛脚ハ幟者    |一、長崎ゟ参候飛脚、御のほり衆六右衛門・同佐右衛門両人、藩付庄内・有馬加兵所ゟ、間太郎兵衛
間太郎兵衛船帰着 |  着仕ニ付、様子被申越候、則上方へ御小早申付、致注進候事、
ス        |

         
         |     廿八日
         |

宇佐宮ヨリ日待ノ |一、宇佐ゟ御日待之御洗米・御厄年之御祈祷之御守持来候、御使者小田九次兵衛と申仁事、
洗米  忠利厄年 |                                〃
ノ祈祷札     |
         |一、明日長崎ゟ参候飛脚、今日長崎へさし帰申候事、
         |

         
         |     廿九日
         |                               五十

清田乗栄知行ノ内 |一、清田七介所ゟ被申越候ハ、知行 三斎様被為拝領候時、弐千五百〇石の内、五十石分ハこミニ被
無役ノ分     |  成被下、役仕間敷旨被 仰出由、被申越候、七介被申候分ニて無心元存候ハヽ、式ア少殿・民ア
         |  少殿へ相尋可申由、被申越候事、
門司ニ風待スルニ |一、杉新右衛門風悪敷ニ付、門司ニ于今罷居候、各御上せ候御状之時付違可申由ニ而、書状被差越
付書状ノ時付変更 |  候、日和次第可被罷上由、返事申候事、
御物師横目悪風ニ |一、御物師衆被上候横目ニ、北村三右衛門・河辺與兵衛、其御舟頭、門司ニ今迄懸りい候へ共、順風
ヨリ門司ヨリ乗戻 |  悪敷ニ付、のり戻候由ニ而、右三人登城仕候事、

         |一、■東小倉火事参候事、
         |           (ママ)                   (親英)
江戸廻リ運賃船難 |一、江戸廻之運賃舟破艘仕、御米をはね申ニ付、松野織ア・小篠次太夫・町三右衛門所ゟ被差越候書
破ニツキ刎米一件 |  物弐つ・状壱通、栗野伝介に相渡候事、
         |   (忠有)
彦山ヨリ三斎忠利 |一、彦山僧正御房ゟ、 御両殿様御祈祷之御目録弐包幷御門札 〇以下落丁、
ノ祈祷札門札   |

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■城下の地名、八つの「崎」(+三)

2020-02-02 07:34:21 | 熊本

 熊本四街道連絡協議会の第十回のシンポジウムが昨年11月2日に開催された際、180頁に及ぶ立派な冊子が発行されている。
その中に協議会の理事で、わが史談会の会員でもあるM氏が「古代の城・藤崎城と、藤崎の八崎」なる論考を8頁に亘り発表されている。
所在が分からない「藤崎城」と、藤崎周辺に存在する「八つの崎」を取り上げておられるが非常に興味深い。
中世期の熊本城周辺の有様を浮かび上がらせようとするものだが、なにせ史料が少なすぎて今後の研究がまたれる。

「八崎」については、肥後国誌に取り上げられている。次のような資料も存在する。

      ・加々山紅星子編著 雑花錦語集‐巻20 「藤崎宮八崎の事」
      ・宮村典太編著   藻塩草‐巻27 「肥後国飽田郡八崎」
      ・宮村典太編著   雑撰録‐巻35 「肥後国八崎並に源五郎殿の事」
      ・上妻博之編著   上妻文庫‐巻154   「肥後の八崎」

ネーミングが微妙に違うが内容は同様であろうと思われる。図書館に出かけて確認しなければならない。
さてその八崎として名前が挙げられているのは次の如くである。
      1.藤崎
      2.牧崎
      3.河原崎
      4.榎崎
      5.弥勒崎
      6.御崎
      7.鐘射崎
      8.筆崎

私は藤崎、牧崎以外はとんと判らないが、そもそも「崎」とは海進による「みさき。陸地が海中や湖中に突き出した所」の感を強く持っていたが、こちらは「山の出張った先端。山の鼻」の感が強いようだ。
近辺に「島崎」「琵琶崎」「日向崎」「(谷)尾崎」などの地名も存在するが、これは八崎から除外されているのは何故なのだろうか。

次々に勉強の課題が飛び出してきて、難儀な事と思いながらも大いに楽しんでいる。

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