熊本大地震により、多くの県民市民が自らの被害にもかかわらず、熊本城の大被害に涙して、その復旧の進捗と共に自らを重ね合わせて奮い立たせている。
この歴史的遺産が県市民の心に深く認識されていたことが伺われる。
今でこそ熊本城周辺は高層ビルが立ち並び、近傍からその雄姿を望むことは難しい。
しかし、かっては熊本平野のいたるところから、又山々から遠望できたのである。
下図の如く京町台地に連なる阿蘇溶岩流の先端部に熊本城が建てられていた。
西には金峰山や山系の外輪部にあたる花岡山に視界を遮られているが、南・東そして北東方向まで180度の視界を眺めることができた壮大な城であることが判る。
遠くは宇土半島の山系や雁回山から御船・甲佐・矢部方面に連なる山並みで視界はさえぎられるが、広大な沖積層が熊本平野をなしこれを一望することが出来ていた。
司馬遼太郎は、「肥後のめでたさは、一国が美田でできあがっていることである」とその著「春灯雑記」(p80)に記している。
熊本洋学校の教師として明治4年に熊本に赴任してきたジェーンズは、熊本城から一望できる景色に感銘して「熊本平野が円形劇場のように広がり」と形容している。(ジェーンズ・熊本回想p20)
秋には黄金の波打つ平野が望まれたのであろう。
熊本市の東側の溶岩流の先端部は、その段丘部から阿蘇の清らかな伏流水を湧出している。
水前寺公園や江津湖の湧水がそれであり、市民の大方が水道を地下水で賄うという自然の恵みを享受している。
やや高い段丘部の広い平野部分が託麻が原の戦などの古戦場である。
熊本の地形を示す熊本市のサイトや、国土地理院の陰影地形図等を眺めていると、飽くことを知らない。
熊本大地震以後、大きな被害をもたらした「布田川断層」やその後ひんぱんに小さな地震を頻発させた「日奈久断層」などが日本的にも知られるようになった。
熊本市には外にも立田山の北側から、熊本城の裏手を通り、金峰山の外輪部の花岡山・万日山、独鈷山、城山、御坊山の北側を結ぶ「立田山断層」が走っている。
これが随分静かであることが気味悪い。
熊本の西にそびえる金峰山はまさに熊本のシンボル的な山で、先ほど記した幾つかの山はこの外輪部だといわれる。
最西端は熊本市の小島町の田んぼの中に、熊本で一番低い山「御坊山(おんぼうさん)」として残って居り、これが熊本の悠久の歴史の証人であるということも面白い。
熊本城が建つ京町台につづく丘陵地は、立田山などと共に阿蘇の大爆発に伴う火砕流の先端部である。
(立田山は金峰山の噴火に伴うもの・20/3/3訂正)
やわらかい石質部分は浸食崩壊を重ね、「龍崩(たつくえ)」などという地名を残している。
○ 熊本城
1、金峯山 2、花岡山 3、万日山 4、独鈷山 5、城山 6、御坊山 7、立田山 8、上江津湖 9、下江津湖
A、白川 B、坪井川 C、井芹川