津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本の地形図を眺める

2020-02-24 16:34:06 | 熊本

 熊本大地震により、多くの県民市民が自らの被害にもかかわらず、熊本城の大被害に涙して、その復旧の進捗と共に自らを重ね合わせて奮い立たせている。
この歴史的遺産が県市民の心に深く認識されていたことが伺われる。

今でこそ熊本城周辺は高層ビルが立ち並び、近傍からその雄姿を望むことは難しい。
しかし、かっては熊本平野のいたるところから、又山々から遠望できたのである。
下図の如く京町台地に連なる阿蘇溶岩流の先端部に熊本城が建てられていた。
西には金峰山や山系の外輪部にあたる花岡山に視界を遮られているが、南・東そして北東方向まで180度の視界を眺めることができた壮大な城であることが判る。

遠くは宇土半島の山系や雁回山から御船・甲佐・矢部方面に連なる山並みで視界はさえぎられるが、広大な沖積層が熊本平野をなしこれを一望することが出来ていた。
司馬遼太郎は、「肥後のめでたさは、一国が美田でできあがっていることである」とその著「春灯雑記」(p80)に記している。
熊本洋学校の教師として明治4年に熊本に赴任してきたジェーンズは、熊本城から一望できる景色に感銘して「熊本平野が円形劇場のように広がり」と形容している。(ジェーンズ・熊本回想p20)
秋には黄金の波打つ平野が望まれたのであろう。

熊本市の東側の溶岩流の先端部は、その段丘部から阿蘇の清らかな伏流水を湧出している。
水前寺公園や江津湖の湧水がそれであり、市民の大方が水道を地下水で賄うという自然の恵みを享受している。

やや高い段丘部の広い平野部分が託麻が原の戦などの古戦場である。
熊本の地形を示す熊本市のサイトや、国土地理院の陰影地形図等を眺めていると、飽くことを知らない。

 熊本大地震以後、大きな被害をもたらした「布田川断層」やその後ひんぱんに小さな地震を頻発させた「日奈久断層」などが日本的にも知られるようになった。
熊本市には外にも立田山の北側から、熊本城の裏手を通り、金峰山の外輪部の花岡山・万日山、独鈷山、城山、御坊山の北側を結ぶ「立田山断層」が走っている。
これが随分静かであることが気味悪い。

熊本の西にそびえる金峰山はまさに熊本のシンボル的な山で、先ほど記した幾つかの山はこの外輪部だといわれる。
最西端は熊本市の小島町の田んぼの中に、熊本で一番低い山「御坊山(おんぼうさん)」として残って居り、これが熊本の悠久の歴史の証人であるということも面白い。
熊本城が建つ京町台につづく丘陵地は、立田山などと共に阿蘇の大爆発に伴う火砕流の先端部である。
                                                                 (立田山は金峰山の噴火に伴うもの・20/3/3訂正)
やわらかい石質部分は浸食崩壊を重ね、「龍崩(たつくえ)」などという地名を残している。

                                
 熊本城

 1、金峯山 2、花岡山 3、万日山 4、独鈷山 5、城山 6、御坊山 7、立田山 8、上江津湖 9、下江津湖
 A、白川 B、坪井川 C、井芹川

 

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■細川小倉藩(158)寛永三年・日帳(十一月十八日)

2020-02-24 09:54:00 | 細川小倉藩

                  (寛永三年十一月)十八日

         
         |    十八日
         |
忠利北ノ丸ニ茶ノ |一、朝、北ノ御丸ニ而御数寄成被成候事
湯        |             〃
         | ママ
         |一、
         |         (山城愛宕郡)                        (可政)     (敦行)
上洛供侍吉田ニテ |一、当年御供衆、京吉田ニ而被請取候遣銀子、日数算用にて返上被仕帳、加々山主馬・続平右衛門・
請取遣銀子ノ日数 |             (浅山)    (田中氏次)
算用銀      |  永良長兵衛ゟ参候を、則清右衛門・與左衛門判形仕候て、松本彦進・豊岡甚丞方へ遣候事、
         |         (規矩郡)
曽根ニテ打チシ雁 |一、林弥五右衛門、曽祢にて、雁壱つ打候て、持せ被差上候を、北ノ御丸へ北原新十郎被持参候事、
ヲ上グ      |
中国ヨリ梨購入  |一、中国ゟなし六十七買来候事、
         |   (三淵重政)     (英貴)     (興相)
中津家中嫡枚ニツ |一、長岡右馬助殿・有吉頼母佐殿・牧左馬允殿、中津ゟ沖津宇兵衛・村上善九郎借米之儀ニ付而、被
キ惣談      |  成御登城候事、
鶴打ノ命     |一、そねの源兵衛ニ、靏参候ハヽ、 御印無之候とも、打可申旨被 仰出候、御印ハ彼地へ 殿様頓
         |  而被成御座候間、 御直ニ可被遣旨ニ候、弥五右衛門ハ可罷帰旨、北原新十郎を以被 仰出候
         |  事
鉄砲玉薬ヲ渡ス  |  右之御意ニ候付、則、鉄炮■玉薬を持せ、右之様子御郡奉行間部申遣候也、
         |一、立入太郎兵衛儀ニ付而、真下七兵衛ゟノ状ニ 御印成被下候、幷太郎兵衛書物壱つ同前ニ包、
御印ノ袋     |  御印ノ袋ニ入置候也、
百姓下人ノ小人ノ |一、中津様御領分御百姓ノ下人、御小人ニ御奉公仕罷居候を、かの百性子をうしなひ、御百姓不罷成
帰農願許可    |  ニ之由、理り申ニ付、真下七兵衛其吟味被仕、御切米ノ残分なと算用仕遣、可返由ニ候、其跡ニ
         |  〃  
         |  ハかわりをおきかへ可申之由、被申候間、一段可然由申渡候事、
音信用鬚籠ノ制作 |一、方々へ御音信ノ時、被為入候間、ひげこいろ/\ニこしらへさせ置可申旨、野田源四郎を以被
         |   仰出ニ付、則熊野半左衛門・中山左次右衛門ニ申渡候事、
         |                      
         |           「ひげこ」の画像検索結果髭籠(ひげこ)
         |
三斎へ進上ノ鮑梅 |一、三斎様へ為御音信、あわひ・梅■梅ノ花被進候事、御使者ハ歩之御小姓吉村次左衛門也、安村太
花        |       ( マ  マ )                            〃
         |  右衛門くミ    やとハ田町四町目之由也、
         |

 

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■志方半兵衛言上之覚・4(12月13日付‐3)

2020-02-24 08:18:47 | 史料

08        一、肥後ノ御人数ハ嶋原へ御加勢共御帰陳共
           天草ニ御逗留共いまた知不申由ニ御座候
           此等之趣宜願御披露申候 恐々謹言
             十二月十三日か四日か 志方半兵衛
              諏方猪兵衛殿  
         一、肥後様去十三日ニ天草ゟ河尻まて御
           開陳被成嶋原おもて濟申迄ハ河尻ニ被成御座候
           天草ニハ小笠原備前与清田石見与被為 残置候事
         一、立允様も同十四日ニ河尻まて被成御開陳御茶屋
           之向杦嶋ニ被成御座候 御供衆ハ御舟ニ被召置候事
         一、寺沢兵庫殿去十三日ニ富岡之城被成御着候内
                立允様へ   天草へ早々被成御渡■■為御礼
           十四日之朝御使参候 立允様へ 使札を以申入候との
           御礼ニ而御座候 早々御使被成御渡為れ存候 為御礼
           三宅藤兵衛嫡子藤左衛門 立允様へ御礼ニ参申候

           同家家老原田伊与ハ相煩申ニ付名代をさし上
           申候 何も被成御對面候事                  おにけ
         一、嶋原表一揆籠居申原之城お尓介取ま幾            お尓介 鬼池か

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