津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■花粉症に・・・

2020-02-11 19:44:55 | 徒然

 今日は昼食後に散歩に出る。昨日の7キロ散歩が応えて、足の付け根が痛い。
いつものコースを回って帰ると、途端に大きなくしゃみ、これが一時間ほど続いた後こんどは鼻水がとめどもない。
以来5時間ほどティッシュの山を作っている。
そういえばTVで「花粉症情報」をやっていることを思い出した。今年は例年に比べると少ないと言っていたように思うが・・・
すでに鼻の脇が赤くなってきた。これはまずい。15日は史談会の例会だというのに「赤鼻」は大いにまずい。
明日からはちゃんとマスクをして出かけることにします。

今日は早めに布団に入って養生に努めましょう。

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(3)

2020-02-11 12:37:23 | 史料

                               

                 釈文: ■志方半兵衛言上之覚・1(12月12日付)

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■細川小倉藩(147)寛永三年・日帳(七月晦日)

2020-02-11 08:43:33 | 細川家譜

                       (寛永三年七月)晦日

         
         |     晦日
         |          (恵重)

         |一、志水伯耆方ゟ、同新丞へ被上せ候状壱つ請取、御舟頭田辺長介へ相渡、上せ申候、
         |一、佐藤安右衛門・春木金大夫ゟノ御請被仕候書、御舟頭田辺長介ニ上せ申候、
         |              (兼英)
佐々江勘左衛門吉 |一、佐々江勘左衛門尉儀、吉田右民ア衛門佐殿ゟ御かまい有之ニ付、御扶持被放候間、御借米・借銀なと
田兼英ノニヨリ |            (坂崎成政)   (永良)  (続敦行)  
召放       |  有之ハ、取立可申旨、清左衛門尉・長兵衛・平右衛門方ゟ被申越候奉書之旨、主馬方罷上られ候
         |  ニ付、村井内蔵助方へ申渡候、御扶持を被放と迄候而、他国可仕との儀不被仰越候間、他国之儀
         |  は重而 御意次第ニ可被仕旨、申渡候事
         |一、佐々江勘左衛門御扶持被放候間、彼知行所代官可被申付旨、栗野伝介方へ申渡候事、
         |    (長元)
小笠原長元借米  |一、小笠原民ア少殿御貸米を宇佐郡ニ而御かり候処ニ、滞米少有之を、御かし米之内を以引取被申
         |  候、此段立 御耳ニ、滞申米之内ニ而候ハヽ、相渡可申候、右之目録ニ外之候ハヽ、御立候筈ニ
         |          (米田是門)   (矢野)  
         |  候間、改可申由、與右衛門殿・利斎へ申渡候事、
船頭ノ法度    |一、御舟頭之儀、米田與右衛門■殿を以理りを申付、此以後御法度/\立候様ニと、堅申定相済候叓、
         |     (典通ヵ)
稲葉典通使者ノ賄 |一、当春、稲葉殿ゟ之御使者渡部主殿被帰候時、道中賄之儀念を入可申旨、被仰出ニ付、泊々へ状
ノ算用ノ切紙   |                         (規矩郡、加藤ヵ)           (元明)
         |  を遣、賄候処ニ、切帋有之付、算用とをり不申由、御代官佐兵衛被申ニ付、住江甚兵衛方へ切帋
         |  遣候也、
         |      (宗珠院)
         |一、おくまゟそうしゅいん殿へのふミ、御舟頭長介ニ相渡、上せ申候也、
         |一、長崎ゟ、飛脚両人、御鉄炮衆桑原主殿与ノ坂本喜介・山内勘兵衛与白石五右衛門、今日参候事、
         |一、式ア少輔殿へ、長崎ゟ之返事、持せ進之候事、
         |    (辰珍)
         |一、津川四郎右衛門殿へ、小物や庄右衛門ゟ参候状相渡候事、
間紹甫ヨリ来状  |一、米田與右衛門殿へ、紹甫ゟ之状相渡候事、
         |    (元五)
         |一、志水伯耆殿へ、小物や庄右衛門ゟ参候状相届候事、
肥前筑前筑後日や |一、長崎へ遣候飛脚両人罷帰候、路次/\ノ日やけノ様子相たつね申候処ニ、肥前・筑前路次ふちハ
けノ様子     |  少も日ニやけ不申、殊外能御座候、乍去、所/\ノものニ様子たつね申候ヘハ、路次ふちはよく
         |  候へ共、いなか/\殊外日ニやけ申候由申候、筑後ノ内ハ、道ふちも日ニやけ申由、申候也、
         |


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■幽齋と三齋

2020-02-11 07:29:07 | 人物

               「細川幽齋」の画像検索結果  「細川三齋」の画像検索結果

                   細川幽齋            細川三齋

 元和六年の末、綿考輯録の表現を借りると三斎は「以之外ニ御煩い」となり、隠居を決意している。
そんな時期三齋は愛娘・万(烏丸光賢室)の見舞状に対して、お礼の書状を送っている。
返書の内容は誠に穏やかであり、病を克服し、家督を譲ることを決意した安ど感がそうさせたのであろうか。
しかし「気力もなく、文をみることも書くこともなり候はぬ」なかで、かなり長文を認めている。
最末尾には「われ/\はうすになり候て、つらを見申候へは、そのまゝゆうさいにてわれなからもきもをつふし申候、かどう(歌道)をしらぬゆうさいと御おもひ候へく候」と、顔つきがすっかり父・幽齋に似てきたと冗談がましい一文が微笑ましい。時に三斎58歳であり、83歳の天寿を全うすることになる。
翌年元和七年一月七日忠利が襲封した。
その書状の日付は十二月二十五日だが、家督云々については触れていないが、書状を十助なる者に託しており、「くハしく申候」と記している。
寛永五年には隠居領・中津に烏丸光賢と室・まんや子供たち、又吉田兼治室(三斎妹・伊也)などが訪れ、花火などを催して好々爺ぶりを発揮している。おだやかな時期である。


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