津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(144)寛永三年・日帳(七月廿四日~廿六日)

2020-02-07 19:48:26 | 細川小倉藩

                       (寛永三年七月)廿四日~廿六日

         
         |     廿四日
         |

薬師薬猟     |一、御くすしいしん、薬種をとらせニ近所之在郷へ被参候ニ付、御馬壱疋申付遣候、馬之儀ハ上田忠
         |  左衛門ニ申渡候也、
         |             (河田)
鋤簾ノ要     |一、しよれん四つ五つ入候由、八右衛門所ゟ申来候、不破平太夫・中山左次右衛門へ、才覚候て、遣
普請惣奉行    |  候へと申遣候事、
         |                                  (ママ)
水替桶      |一、水かへ候用ニおけノ事、八右衛門方ゟ申来候間、上林甚介与手前ニ有之除掃おけ遣候へと申付候
         |  事、
明神米ノ滞納   |一、築城郡明神米、赤尾甚右衛門百性前ニ滞米有之ニ付、御郡奉行由断ニ而候間、御郡奉行手前ゟわ
         |  きまえ被立候へと、申渡候事、

         
         |     廿五日
         |

         |一、京都ゟ富田彦右衛門尉被罷下、 御書被成下候を持参被仕候事、
         |一、加藤新兵衛、御郡へよひニ遣、被罷帰、今朝登城被仕候事、
         |
三斎清水寺法印へ |一、三斎様ゟ清水寺法印ニ成被遣 御書幷仁喜斎ニ成被遣 御書、同宿をよひ、相渡、御印それ/\
ノ書状      |  ニ相渡候帳ニ、判形をさせ置候也、
仁喜斎ヘノ書状  |

         
         |     廿六日
         |

惣談       |一、御家老衆・與右衛門殿・利斎何も御談合之儀候而、頼母佐殿へ御より合被成候、御横衆も三人共
         |  ニ被罷出候事、
泰勝院ニテ光寿院 |一、今朝泰勝院ニて、御法事御座候事、
法事       |
         |一、栗野伝介、御郡ゟ被罷帰候事、
扶持方貸     |一、詰小早ニて、上方へ御ふちかたかしの儀、可得 御諚ため差上せ申候、御船頭ハ石井又左衛門
         |  也、此御船頭京へ直ニ参候へと申付候也、
         |     (鬼籠)    小倉町
小倉町人鬼籠村ノ |一、国東郡木子村ノ惣吉〇五右衛門出入之儀ニ付、池内源助を遣、双方之口を聞届、書物を取、被
百性ト女敵討出入 |                  (ママ)
詮索       |  帰候而、御年寄衆・與右衛門殿・利斎ニ頼母佐殿ニ被懸御目候処ニ、五右衛門おち申上ハ、加為
         |                                        (さく脱)
         |  其分候、併五右衛門書物を御町奉行へ上ヶ候儀は、二左衛門上ヶ候由候間、今一往せん可然由
         |  候間而二左衛門口を、與右衛門殿ゟ、御聞せ可被成由、御年寄衆被 仰渡候事、
         |   〃  

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■赤穂浪士の討ち入りの時間

2020-02-07 18:54:39 | 歴史

                                                                日本橋 朝之景

  ご存知歌川広重の「日本橋・朝の景」である。「お江戸日本橋七つ立ち・・・」と唱歌にあるように、大名衆は木戸が開く七つ時に日本橋を通って(通らない人もあるが)それぞれの国へ帰って行った。日本橋の木戸は「北詰」にあったといわれるから、この浮世絵では手前が北であり、開かれた木戸が見えている。もっとも木戸は江戸の町中に設けられているから、七つ時に日本橋を抜けるというのは少々怪しく思えるが、これは歌詞にそうあるだけで、いろいろ詮索することでもなかろう。

 私は今月の史談会で「御預人記録」を取り上げることにしているのだが、記録によると浪士たちは七つ時に討ち入ったとされるが、やはり木戸の開く時間が影響しているのだろうか。
討ち入りの日は旧暦の14日(夜が明けると15日)だから、七つ時とはいえ満月に近い月が足元を照らしていたのだろう。
討ち入り後は吉良邸の裏手にある回向院に向かい寺内に入り休憩することを予定していたが、門番の僧に「寺法」により明六つにならないと門を開けることができないと断わられている。都合の良い逃げ口上だが、幕府からのお咎めがあることを恐れての事である。
浪士たちは約12~13キロの距離を2時間ほどで歩き泉岳寺に到着している。私は最近このスピードを体感しようと早足で散歩をしてみたが、この距離をこのスピードで歩くことの凄さを実感している。
浪士たちは慎重にコースを見極めながら引き上げているが、幾つもの橋を渡らなければならない。絵図を携えていたであろうが、すいすいと歩くのは難儀であったろう。途中では大名屋敷の門前で誰何されたり、上杉家の追っ手を心配しながらの歩行である。
随分以前の事だが、「泉岳寺の手前には高輪大木戸があって、役人は文句を言わなかったのか」という話を聞いたことが有る。ご尤もな話ではあるが、「やんやの喝さいを受ける浪士たちを押しとどめることなどできなかったのだろう」という話になり、なんとなく合点したことが有った。
これは、大きな認識不足で、高輪大木戸が築造されたのは、この事件の8年後の宝永7年の話であった。
中央義士会監修の「赤穂義士の引揚げ」を読んでいるが、内蔵助の事前の行き届いた調べや、行動に伴う規範といったものが四十七人の浪士一人/\に行きわたっていることに感動すら覚える。町人ならずとも、幕府の役人や諸大名その他多くの武士たちに感動を与えらことがうなずける。
史談会で取り上げるには、少々俗っぽい話になるなと思っていたが、まさに武士道に立脚した素晴らしい行動をいかに間違いなくお伝えできるかを考えている。
あと一週間後の事である。

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■鍋奉行

2020-02-07 08:04:13 | 徒然

 けさのTVで「鍋の素」の話が取り上げられていた。日本中冬将軍に攻め込まれて、津々浦々今晩は「お鍋」のお宅がさぞかし多いことだろう。
「鍋の素」は随分多くの品数があるらしく、組み合わせて好きな味を作り上げられることが好評らしい。そんな話の中で「鍋奉行」という言葉が出てきた。

去年の事、当ブログが原因のお騒がせ事件が起きた。細川藩に「鍋奉行」という役職があるということが巷間うわさが広がってのことだ。
                                                https://togetter.com/li/1315307

これはえらいことになったと思い、お詫びの文章をUpしたことを思い出し調べてみると、去年の2月5日のことであった。
掲載されていた侍帳の原本が熊本大学で確認が行われ、「鍋」の文字は「浦」であることが判明し落着した。
今思い出しても冷や汗もので、影響の大きさを実感し大いに反省をした所であった。

                                       

  これは1977年発行の細川藩政史研究会発行の「肥後細川藩侍帳」全四冊の内の「一」にある「妙解院忠利公御代於豊前小倉 御侍帳幷軽輩末々共ニ」に掲載あるものである。(p7・中段)
その後この四冊は、改訂されて「熊本藩侍帳集成」として1996年に発刊された。ここではこの部分は「浦奉行」と改められている(p9)。誤植であろうと思われる。
当方の「新肥後細川藩侍帳」が、1977年の「肥後細川藩侍帳」を底本としたことによる誤りである。
改めてお詫び申し上げる。

         

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■細川小倉藩(143)寛永三年・日帳(七月十九日~廿ニ日)

2020-02-07 07:08:59 | 細川小倉藩

                       (寛永三年七月)十九日~廿二日

         
         |     十九日
         |               (衆脱ヵ)(矢野)  (米田是門)         両人

本丸ニテノ談合  |一、御本丸ニ而ノ御談合、御家老三人、利斎・與右衛門殿、御奉行衆、御横目衆三人、他国ゟ米・大
         |                         〃
他国ヨリノ雑穀輸 |  豆之外ハさこくノ分ハ入候而可然の由ニ而、入可申ニ相きわまり候事、
入ハ可      |
河口番へ通知   |一、右ノ通、川口御番へ申渡シ、指帋遣候事、
鷹師ノ女門出切手 |一、御鷹師衆ノ女御門出切手之儀、被相尋候間、御年寄衆へ被得御意候処ニ、右ニ御門番衆へ書落遣候
         |  間、御年寄衆ゟ切手御出シ可被成旨候事、
         |
         |                (元明)
留守居等へノ触方 |一、御留守居衆ノ御触無之ニ付、住江甚兵衛・高田九郎右衛門被相尋様子、御年寄衆尋申候処ニ、何も
         |  四与ノ頭衆ヘノ触状ニ、御与中へ被仰触候ヘとの儀ニ候ハヽ、何時もわきへの触被成間敷候間、
         |  御年寄衆まてへ、何へも可被仰触之由、申入候ハヽ、可被仰触候由候、
米田是季米ヲ町ニ |一、監物殿百石御米御借用可被成由候へ共、遅り候付、町ニ而御借被成候而、御米ハ御借有間敷由候
テ借ル      |  事

         
         |     廿日
         |

中小性賄所    |一、中小性之衆賄之所ニ、松山小兵衛・角喜兵衛付置候処ニ、小兵衛上方へ御用候而、差上せ申候、
         |  其替ニ宮木五郎助を付申候事、

         
         |     廿一日
         |

長崎へ飛脚    |一、御鉄炮衆弐人、長崎へ飛脚ニ遣候、桑主殿与ノ坂本喜介、山内勘兵衛与之白石五右衛門、右両人
         |  ニ上方ゟ成被下候、御書幷我々ゟ之状共、其外式ア少輔殿方々之状共持せ遣候事、
         |一、当三月ニ、江戸へ五人連ニ而参候御鉄炮衆ノ内ニ、松岡久左衛門与ノ池辺七兵衛、江戸ゟ京へ御
         |  使ニ罷上候処ニ、御国へ御使ニ御■下被成候由ニ而、 御書持下ル、但、七月十六日ノ御日付ノ御
         |  書か、同廿一日ニ下着候也、
落黒鴨ヲ鷹ノ餌ニ |一、くろかも壱つ、ひかしのためいけニて、死候て居申候を見付候由ニて、高見與兵衛所ゟ持せ差上
渡ス       |  候を、川井権丞へ、御鷹ノ餌ニ被仕候へと申遣候也、

         
         |     廿二日
         |

小堀長左衛門   |一、林弥五左衛門与之小堀長左衛門と申仁、弥五左衛門被申付候由ニて、登城仕候、是ニ壱人加、
         |  (豊後玖珠郡)
         |  小田村へ可遣也、
日損之談合    |一、日損之御談合、御年寄衆御登城被成、米田與右衛門・矢野利斎・御横目三人、御奉行両人ニて有
         |  之事
         |                                         (胴)
取逃ノ小者ヲ様斬 |一、真下喜左衛門小者取にけ仕候を、当町ニ而とらへ、今朝せいはい仕ニ付、御腰物二而一とうをた
ニス       |  めし候事
         |七月廿三日
         |一、御荷舟加子壱人五左衛門と申者、江戸にて当年六月三日ニ病死仕由、鏡善右衛門申来候事、

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