津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■身近にある託麻が原戦跡

2020-02-06 18:28:44 | 歴史

                                                                                                    

 熊本市陸上競技場の南側に、「託麻が原の戦」の碑がある。そこにはめ込まれている銅板画である。(もう一枚ある)
元和元年九州探題に就任した北朝方の今川了俊(貞世)が九州に入り、永和元年(1375)には水島の変で少弐冬資を暗殺、永和三年(1377)佐賀の蜷打の戦に於いて菊池武朝阿蘇惟武ら南朝勢力と激突し勝利を得ると肥後に侵入し「藤崎八幡宮」に陣を敷いた。翌年了俊の軍に大内義弘・大友親世が加わると菊池の隈府に攻め入った。16歳の菊池武朝と20歳の良成親王らは一族を引き連れて託麻が原に出陣、峻烈を極めた戦では北朝軍20,000人・南朝軍3,500人とも言われている劣勢のなかで南朝方が奇襲作戦をもって奇跡の勝利を得たといわれる。北朝方は川尻に逃れ海路筑後に退却した。
                                 (一部参考:高田泰史著・肥後武将の源流)

 以前も書いたが旧・健軍町は広大な原野や森が広がっていた。託麻が原はその一角である。
旧・健軍町は夫々新たな町名を冠して現在に至っているが、「三郎」とか「灰塚」「京(経)塚」とかこの戦いを連想させる地名も残されている。三郎はこの周辺を領地とした阿蘇三郎惟盛からきているし、灰塚は犠牲者を弔った場所でもあろうか。京塚は元々は経塚であったと聞く。
「託麻が原の戦」の碑から東へ約1.6キロ、西部方面総監部の道を挟んだ反対側にかって大きな結婚式場があった。
私は全く知らなかったが、そこに「八万千部之碑」というものが建っていたらしい。
経営者が変わり、現在は老人施設に代わっているが、その際撤去処分されたらしい。
その由来は、託麻が原戦で八万の人が戦ったという説がありその顕彰碑だという。この様な立派な碑が失われるのは残念な事である。

 いつも散歩で通るルート上にあるのだが、誠に身近な場所に託麻が原戦跡が広がっていた。
それにしても熊本の中世史は南朝・北朝の対立の真っただ中にあって複雑な人間関係も相まって、理解するのに大いに難儀する。

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■細川小倉藩(142)寛永三年・日帳(七月十五日~十八日)

2020-02-06 11:40:04 | 細川家譜

                       (寛永三年七月)十五日~十八日

         
         |     十五日
         |

彦山忠有へ熊谷宗 |一、僧正御煩然共無之ニ付、熊谷宗安を 御鍋様へ、式部少輔殿ゟ御理被仰候而、かつてん出候而可
安ヲ遣ス     |  被遣旨被 仰付候事、

  彦山の僧正・忠有・・ 慶長六年、小倉に入封した細川忠興が、公家日野輝資の三男を養子として座主職を相続させ、忠有と称した。

         
         |     十六日
         |

熊谷宗安彦山ヘノ |一、彦山へ、熊谷宗安ニ歩之御小性一人相添、乗物かき六人宗安逗留中ニ添置候くろくわ之者一人、
         |   (荷ヵ)              (逗ヵ)
道中ノ手配    |  □付馬壱疋申付幷坊中ニ留□申候ハヽ、何方ニ而成共、賄可仕旨申遣候事、
         |                  (山ヵ)
採銅所新町立願  |一、田川郡採銅所ニ新町立罷居申度由申、□頭拾一人、男女共四拾六人御座候由、幷採銅所ノ山口只
         |           (虫損)         
         |  今罷居候処勝手悪候■■新町御立候ハヽ、屋敷同前ニ御免候て被下候ハヽ、参候而居申度由候、
         |               (虫損)
許可       |  左様ニ被仰付候ハヽ、近所の■■■作仕度由申候間、新町立ニ究申候事、
古川源内ヘノ触  |一、古川源内殿へ万公事之触無之ニ付、何方ゟ触可申哉と、御年寄衆へ相尋候処ニ、御奉行所ゟふれ
         |  可申旨之事、
国中旱ノ見立   |一、御國中旱之見立、又内検ノ衆ノ儀書付候而、御年寄衆へ相尋候処、可遣被仰付候事、
内検役ノ書付   |

         
         |     十七日
         |     
(三齋室ガラシャ夫人
秀林院法事    |一、秀林院ニ而、如毎年御法叓御座候ニ付、小倉御有相候御侍衆詰被申候事、
         |                                  (へ)           (申)
諸所ヨリノ音信物 |一、伊藤金内江戸御使者ニ被罷越、方々へ御音信物請取をとり参候を、何方□渡し可□哉と被申候、
ノ請取      |       (かれ)
         |  則御手前ニお□□候へと申渡候事、
         |  (米田是季)
米田是季知行所懸 |一、監物殿御知行所寛永弐年分懸り銀之儀、 御自筆之御裏書を監物殿へ被成遣候処ニ、当年延貸ニ
リ銀当年延貸ノ願 |  仕候様ニと、監物殿被仰越候、然所ニ、何も新地取衆分懸り銀、米ニ而納り候、其上監物殿へ被
忠利自筆裏書   |                                         (虫損)
         |  成遣候 御印之儀ニ候間、監物殿御頂戴候上はいか様共、其旨ニ可仕通金子ニ申候処ニ、□□  
         |  監物殿へ其段被申候由候、監物殿ゟ御使者被下候而被仰候ハ、金子・松本ニ談合申候処ニ、元銀
         |  子ニ而御座候間、銀かしニ而も苦かるまし由候間、則銀子ノ借状調差上ケ候由、被仰越候間、印
         |  判おし候而進之候事、
         |                                                                        (穀)
諸国ノ入米法度ニ |一、諸国米入之儀、御法度被 仰出ニ付、雑売も入候儀御法度ニ候哉と、御町奉行衆ゟ被相尋候間、

雑穀ハ如何    |                                 (左)     (米田是門)
日帳ヲ検索    |  其時分之日帳を取出シ見候処ニ、米御法度と斗御座候由ヲ、米田甚右衛門を以與右衛門殿へ申
         |  入候事、                         (是友)
         

         
         |     十八日
         |       
         |      (築城郡)
椎田ニ大雨降ル  |一、十六日之朝椎田殊外雨ふり候由、今津又十郎被申候、あめニ又十郎あひ申たる由、たしかニ被申

         |  候也、
亀屋了有下着   |一、亀や了有京都ゟ昨晩罷下候由ニ而、登城仕候也、
         |                          (穀)
他国雑穀入ノ惣談 |一、米田與右衛門殿ゟ、式ア少殿御出候ニ付、他国ゟ雑売入申儀ニ付、談合可申候間、明日御年寄衆御
         |  登城被成候様ニ可申触由、被申越候事、
小倉町人女敵討一 |一、国東郡へ、小倉町人五右衛門ノ女ノ儀ニ付出入有之付、穿鑿奉行ニ、御年寄衆ゟ被遣候処ニ、人
件     夫銀 |  足一人可相渡由候、市左衛門・弥三郎所へ申遣候処ニ、人足一人も無之付、夫銀を可相渡と申候
厩ノ草切夫ニ馬ノ |  処ニ、道中ノ百性共悉堀山ニ入申ニ付、日用も無之由候ニ付、御馬屋ノ草切夫被遣、御馬ノくさ
草ヲ買ハシム   |  買申候事、  

 

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■原文に触れる「阿部茶事談」(32・了)

2020-02-06 06:51:55 | 細川家譜

          

コメント (3)
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