熊本市陸上競技場の南側に、「託麻が原の戦」の碑がある。そこにはめ込まれている銅板画である。(もう一枚ある)
元和元年九州探題に就任した北朝方の今川了俊(貞世)が九州に入り、永和元年(1375)には水島の変で少弐冬資を暗殺、永和三年(1377)佐賀の蜷打の戦に於いて菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と激突し勝利を得ると肥後に侵入し「藤崎八幡宮」に陣を敷いた。翌年了俊の軍に大内義弘・大友親世が加わると菊池の隈府に攻め入った。16歳の菊池武朝と20歳の良成親王らは一族を引き連れて託麻が原に出陣、峻烈を極めた戦では北朝軍20,000人・南朝軍3,500人とも言われている劣勢のなかで南朝方が奇襲作戦をもって奇跡の勝利を得たといわれる。北朝方は川尻に逃れ海路筑後に退却した。
(一部参考:高田泰史著・肥後武将の源流)
以前も書いたが旧・健軍町は広大な原野や森が広がっていた。託麻が原はその一角である。
旧・健軍町は夫々新たな町名を冠して現在に至っているが、「三郎」とか「灰塚」「京(経)塚」とかこの戦いを連想させる地名も残されている。三郎はこの周辺を領地とした阿蘇三郎惟盛からきているし、灰塚は犠牲者を弔った場所でもあろうか。京塚は元々は経塚であったと聞く。
「託麻が原の戦」の碑から東へ約1.6キロ、西部方面総監部の道を挟んだ反対側にかって大きな結婚式場があった。
私は全く知らなかったが、そこに「八万千部之碑」というものが建っていたらしい。
経営者が変わり、現在は老人施設に代わっているが、その際撤去処分されたらしい。
その由来は、託麻が原戦で八万の人が戦ったという説がありその顕彰碑だという。この様な立派な碑が失われるのは残念な事である。
いつも散歩で通るルート上にあるのだが、誠に身近な場所に託麻が原戦跡が広がっていた。
それにしても熊本の中世史は南朝・北朝の対立の真っただ中にあって複雑な人間関係も相まって、理解するのに大いに難儀する。