光秀の前半生がよく判らないこともあって、脚本は自由気ままという感じで展開している。
今回は細川藤孝(幽齋)が登場して、光秀と刃をかわすというシーンがあったが、そこに将軍義輝までもが現れた。
義輝は天文5年3月10日(1536年)の生まれ、藤孝は天文3年4月22日(1534年)の生まれだとされる。
つまり、父・義晴が天皇の命を受けて正室(慶寿院・近衛尚通の娘)を迎えるにあたり、それまで御側に在った清原宣賢の娘を細川晴員に下げ渡され生まれたのが藤孝であり、のちに正室から生まれたのが義輝である。
三淵藤英は晴員の嫡男であり、当然生母は異なり、藤孝にとっては異母兄ということになる。資料によっては藤英の母を清原宣賢女とするものがあるが、明らかな間違いである。
いずれにしてもイケメン俳優の勢ぞろいであるが、俳優諸氏の夫々年齢相応の時代背景である。
藤孝の子・忠興に光秀の女・珠(ガラシャ)が嫁ぐことになるが、まずはこういった人間関係を知ってもらおうとの前振りであろう。
史実が明らかな人物を描くより、却ってこのように自由な脚本による進行は中々面白い。
大河を欠かさず見るのは久しぶりである。明智氏に係る関係者の皆様は、どういう思いでご覧になっているのだろうか?
32 何の御咎もなきとも女童の作行尓ハ可な
らんか誠尓武士の御身分ハ云甲斐なき次
第 上江ハ勿論何の面目アリて朋友等も
面を可合や物語尓終たる不覚者と云ん
か畢竟ハ兼而不心懸尓て本意を亡却し
て居たりと云んかたとへ後日御咎を蒙る共
武士の本意を達して恥を後世尓残さぬ■ ■肚?
自分ニも心能忠孝の道尓も叶ひなん也と
聞るまゝ爰尓記す
追考
畑十太夫 禄五百石 無双の骨柄成故被 召抱此節討
手を蒙り候ニ臆病を構阿部か宅尓ハ不行して
震ひおのゝ紀三丁目尓さまよひ叓果て後
帰りしかハ早速御暇被下長崎ニ至り町人と成
し由力量も有て三間柄の鑓を片手に而振程
也しとかや 去れ共志なき者尓て人々之笑と
成けりと也
阿部茶話談終
これをもちまして一応の完了を見ました。タイピングの過程では藤本千鶴子氏の校本「阿部茶事談」と見比べながら読み下しを進めてまいりましたが、まさしくこの史料は「似て非なる」内容であることを知るに至りました。
この原文をもって本来の「阿部茶事談」としてお使いになりませんよう、お願い申し上げます。
昨日の朝食時TVを何気なく見ていたら「阿」という苗字の方が出演されていた。皆さんはお読みになれるだろうか。
少々失礼な申上げようだが、これを読むことができる方は「すごい・・」といってもよいだろう。
正解は「ほとり」様である。
「阿」とは、「おもねる。へつらう。」の意のほかに、「川や山などの曲がったところ。隈(くま)」などの地形に関する意もある。
熊本は元々隈本といっていたし、菊池市に隈府(わいふ)があり、熊本市・城南には隈庄(くまのしょう)という地名が残る。
いずれも菊池川・御船川流域に広がる地域であり、菊池氏・阿蘇氏の活躍に欠かせない水運に恵まれた地である。
すぐに「阿蘇」のことが頭に浮かんだ。
阿蘇とは「蘇のほとり」ということになるが、「蘇」とは「よみがえる。生きかえる。」「古代の乳製品」という意があるが、「よみがえる+ほとり」では情景が想像できない。
和名抄では阿蘇を「阿曽」と表記している。「曽」には「かさなる。かさなり。」の字義があり、山々の連なりを感じさせる。
阿蘇の地は、「山々の重なるほとり」と考えると、まさにその通りではないか。
阿蘇の語源というサイトがあるが、私の解釈は受け入れられるものではないようだ。