■明智光秀が義叔父、妻木藤右衛門廣忠という人
先に妻木氏の後胤・妻木頼黄なる人物の存在をコメント欄にお教えいただいたが、これをご覧になった「ツツミ様」から更に詳しい情報を頂戴した。
重複するがお目に留まりやすいようにと思いここに全文を再掲する。
いつもながら、多岐にわたりいろいろご教示いただいているが改めて御礼を申し上げる。
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『寛政重修諸家譜』に、日本橋の設計者・妻木頼黄の家の系譜を辿
その来歴は、「
年六十九。法名宗眞(
法名に「宗眞」とするのは、『寛永諸家系図伝』作成時に提出させ
寛政三年に出された触れでは、
因みに、『柳営譜略』を編纂した中川忠英は、寛政三年当時目付と
■河村猪右衛門一族、臼杵藩士河村氏について
細川藩士・河村猪右衛門父子は、天草島原の乱に於ける働きについて、吟味方の寺本八右衛門との軋轢が昂じ寺本によって殺害された。
寺本は細川忠利によって罪を得ることなく済んだがカ、忠利の死去後殉死している。
細川家史料は、当然のことながら寺本側にたっての視点で書き記されている。過日、そのご一族で臼杵藩士・河村氏のご子孫からご連絡をいただいたが、大変真摯な内容に感動したところであった。
更には、このやり取りをご覧になって、ご厚誼いただいている「大坂の陣豊臣方人物事典」の著者・柏木輝久様から臼杵藩士・河村氏についての詳細な情報を頂戴した。
二回にわたるメールであったので、当方で少々編集を加えたが、深い感謝を供しここにご紹介する。
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臼杵稲葉家の史料から、猪右衛門の長女は肥後で某家に嫁ぎ、夫の死後は臼杵に来住、子息は父とともに死没、次女は臼杵の岡部忠正の妻となっております。
猪右衛門の末弟河村三十郎が臼杵稲葉家に仕えて子孫が続いているので、この家筋の御方でしょうか。
寛永十六年付の「有馬城乗之儀ニ付申上覚書」は、肥後から妹を頼って臼杵に来住した長女が、亡父の遺志の印としてしっかりと握りしめて持参したものでしょうか。想像が膨らみます。
なお、猪右衛門の曾祖父は美濃西郷城主河村図書とされますが、「麒麟がくる」でも描かれた斎藤道三側に宗徒の河村図書良秀(筑後守子)との関係性、秀吉の馬廻川村図書助や大坂七組速水甲斐守の岳父川村図書との所縁はどうなのか、色々気になるところです。
寛永の書上がご子孫所縁の御家に大切に受け継がれていることに、猪右衛門が400年間なおも無念の主張を続けているような感覚を抱きました。
また、河村様の「殺された側の言い分」というお言葉には、歴史を多角的にみる大切さを改めて考えさせられました。
そして、河村家のご子孫筋が事件の痕跡を守って存続していることを貴blogによって知りまして、驚き入っております。
「二伸」
多少補足いたしましすと「臼陽氏族誌」や「鼇城藩臣志」といった臼杵稲葉家の史料によると、河村家の家祖は美濃西郷(席田郡西郷か?不明)城主河村図書で、その子が弥左衛門、その子儀太夫正義が稲葉一鉄に三百石で仕えました。
正義の次男(母親は美濃の人青木善兵衛の娘)が河村猪右衛門で、例の私闘で死亡。
猪右衛門の長男某も、この私闘に関連して死亡(『部分御旧記』によると、事件後に切腹を命じられました)。
猪右衛門の長女(長男某の姉)は、初め肥後で某家に嫁ぎ、夫と死別後、晩年は臼杵に来住して妹婿の岡部家で保護されました。
猪右衛門の次女(長男某の妹)は、臼杵稲葉家中岡部忠正の妻となりました。
猪右衛門の異母弟(母は村瀬吉家の娘)河村三十郎が、臼杵稲葉家に百五十石で仕えており、この家筋が臼杵で連綿と続いたようです(家紋は車・轡)。
なお、家祖河村図書の事蹟は不明ですが、『美濃国諸旧記』などに美濃国山県郡高木の住人川村図書入道務元、斎藤道三に与同した川村図書良秀(筑後守の嫡男)が見えるほか、「常在寺記録」に同寺檀那の河村図書、『太閤記』に秀吉の馬廻川村図書助、「蜂須賀家家臣成立書並系図」に大坂七組の番頭速水甲斐守の岳父河村図書などが散見されます。異世代の同族ではないかと推測いたしております。
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御二方には本当にありがたく御礼を申し上げる。
当サイトは発足当時、サイトの頭に「他力本願的」という文言を着けていたことが有る。
広く皆様の知見をご教示いただきたいとのけしからぬ思いからであった。
これはまさしく図に当り(・・・)、色々な方々から貴重な情報を頂戴するとともに、広くご厚誼をいただくようになった。
これはまさに私の財産になっている。今後とも賢兄諸士にはいろいろご教示いただきたくお願い申し上げる。
津々堂 拝