津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寄せられた貴重な情報・ニ題

2020-06-07 09:18:09 | 人物

■明智光秀が義叔父、妻木藤右衛門廣忠という人
 先に妻木氏の後胤・妻木頼黄なる人物の存在をコメント欄にお教えいただいたが、これをご覧になった「ツツミ様」から更に詳しい情報を頂戴した。
重複するがお目に留まりやすいようにと思いここに全文を再掲する。

いつもながら、多岐にわたりいろいろご教示いただいているが改めて御礼を申し上げる。
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『寛政重修諸家譜』に、日本橋の設計者・妻木頼黄の家の系譜を辿ると、藤右衛門廣忠という人物にたどり着きます。
その来歴は、「天正十年明智光秀滅亡のとき、光秀が伯父たるにより、六月十八日近江國坂本西鏡(ママ)寺にをいて自殺す。
年六十九。法名宗眞(割注:今の呈譜宗心)」とあります。

法名に「宗眞」とするのは、『寛永諸家系図伝』作成時に提出させた系譜の記載で、「宗心」は、寛政三年の呈譜にあった記載という事になります。
寛政三年に出された触れでは、時間はかかってもいいので、来歴を可能な限り詳しく調べて書き出すように指示されていますので、ここにあるのが、当時把握されていた情報の全てかもしれません。

因みに、『柳営譜略』を編纂した中川忠英は、寛政三年当時目付として、「万石以下御目見以上之面〃先祖書取調御用」掛りを命じられ、「寛政譜」編纂に深く関わっていました。先の触れも、中川等、掛り目付名で出されています。

 

■河村猪右衛門一族、臼杵藩士河村氏について
 細川藩士・河村猪右衛門父子は、天草島原の乱に於ける働きについて、吟味方の寺本八右衛門との軋轢が昂じ寺本によって殺害された。
寺本は細川忠利によって罪を得ることなく済んだがカ、忠利の死去後殉死している。

細川家史料は、当然のことながら寺本側にたっての視点で書き記されている。過日、そのご一族で臼杵藩士・河村氏のご子孫からご連絡をいただいたが、大変真摯な内容に感動したところであった。
更には、このやり取りをご覧になって、ご厚誼いただいている「大坂の陣豊臣方人物事典」の著者・柏木輝久様から臼杵藩士・河村氏についての詳細な情報を頂戴した。
二回にわたるメールであったので、当方で少々編集を加えたが、深い感謝を供しここにご紹介する。

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 臼杵稲葉家の史料から、猪右衛門の長女は肥後で某家に嫁ぎ、夫の死後は臼杵に来住、子息は父とともに死没、次女は臼杵の岡部忠正の妻となっております。
猪右衛門の末弟河村三十郎が臼杵稲葉家に仕えて子孫が続いているので、この家筋の御方でしょうか。
寛永十六年付の「有馬城乗之儀ニ付申上覚書」は、肥後から妹を頼って臼杵に来住した長女が、亡父の遺志の印としてしっかりと握りしめて持参したものでしょうか。想像が膨らみます。

なお、猪右衛門の曾祖父は美濃西郷城主河村図書とされますが、「麒麟がくる」でも描かれた斎藤道三側に宗徒の河村図書良秀(筑後守子)との関係性、秀吉の馬廻川村図書助や大坂七組速水甲斐守の岳父川村図書との所縁はどうなのか、色々気になるところです。
寛永の書上がご子孫所縁の御家に大切に受け継がれていることに、猪右衛門が400年間なおも無念の主張を続けているような感覚を抱きました。
また、河村様の「殺された側の言い分」というお言葉には、歴史を多角的にみる大切さを改めて考えさせられました。

そして、河村家のご子孫筋が事件の痕跡を守って存続していることを貴blogによって知りまして、驚き入っております。

「二伸」

多少補足いたしましすと「臼陽氏族誌」や「鼇城藩臣志」といった臼杵稲葉家の史料によると、河村家の家祖は美濃西郷(席田郡西郷か?不明)城主河村図書で、その子が弥左衛門、その子儀太夫正義が稲葉一鉄に三百石で仕えました。
正義の次男(母親は美濃の人青木善兵衛の娘)が河村猪右衛門で、例の私闘で死亡。
猪右衛門の長男某も、この私闘に関連して死亡(『部分御旧記』によると、事件後に切腹を命じられました)。

猪右衛門の長女(長男某の姉)は、初め肥後で某家に嫁ぎ、夫と死別後、晩年は臼杵に来住して妹婿の岡部家で保護されました。
猪右衛門の次女(長男某の妹)は、臼杵稲葉家中岡部忠正の妻となりました。

猪右衛門の異母弟(母は村瀬吉家の娘)河村三十郎が、臼杵稲葉家に百五十石で仕えており、この家筋が臼杵で連綿と続いたようです(家紋は車・轡)。
なお、家祖河村図書の事蹟は不明ですが、『美濃国諸旧記』などに美濃国山県郡高木の住人川村図書入道務元、斎藤道三に与同した川村図書良秀(筑後守の嫡男)が見えるほか、「常在寺記録」に同寺檀那の河村図書、『太閤記』に秀吉の馬廻川村図書助、「蜂須賀家家臣成立書並系図」に大坂七組の番頭速水甲斐守の岳父河村図書などが散見されます。異世代の同族ではないかと推測いたしております。

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御二方には本当にありがたく御礼を申し上げる。
当サイトは発足当時、サイトの頭に「他力本願的」という文言を着けていたことが有る。
広く皆様の知見をご教示いただきたいとのけしからぬ思いからであった。

これはまさしく図に当り(・・・)、色々な方々から貴重な情報を頂戴するとともに、広くご厚誼をいただくようになった。
これはまさに私の財産になっている。今後とも賢兄諸士にはいろいろご教示いただきたくお願い申し上げる。
                                  津々堂 拝

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■お玉さん

2020-06-07 07:39:00 | 徒然

 先に「■ガラシャの子殺し・・?」を書いたら、口悪い悪友が早速「いちゃもん」を付けてきた。
「お玉さんは子殺しなんぞしとらんぞ・・」とわめく。
こちらも負けじといろいろやり返すうちにことは治まった。
「明智光秀の主殺し、斎藤義龍の親殺し、信長の弟殺し、秀吉の子殺し、家康の妻殺し、細川幽齋の婿殺し、どれもこれもけしからん話だ。だから俺は歴史は好かん」と口から泡を飛ばす勢いである。
「歴史は好かんと云いながら、よく知ってるじゃないか」というと、「このくらいは常識だ」という。

 話はガラシャの最後に蒸し返した。「言経卿記にある兄妹を殺した話は、お前が言うように家来か誰かの子だな。お玉さんじゃないな。」「少斎・河喜多・金津以外に死んだ家臣は他にもいたろうが、お前は知らんのか」ときた。
「史料もないし知らねーよ」と返事をすると、「なんだあれは推測か」「それを調べるのが歴史家だろうが」と来た。
「俺は歴史家じゃねーぞ、ただの物好きだ」と応えると、「ほんとにお前は物好きだよな~。ご苦労なこったい」と嫌味を言われて落着した。

 歴史嫌いと言いながら面白いことをいう。随分以前「吉川英治の細川ガラシャ夫人は読んだか」と謂われたことが有り、あわてて「青空文庫」で見つけ出し読んだことが有る。
ここでは「忠興夫人お玉」は「迦羅奢」と表記されている。悪友の指摘は、「吉川英治はお玉さんの洗礼前の時代から、迦羅奢と書きよる。天下の吉川があれじゃいかん」と言い、「大体ガラシャ・ガラシャとどれもこれも書いているが、ガラシャの名が知れ始めたのは近代になってからのことと言うじゃないか」「迦羅奢なんて名前は、当時は家中の者でもそうそう知らなかっただろうし、知っていたものも公には口には出せぬ禁句だったんじゃないか」「お玉さんでいいんだよ。ガラシャと書いてある小説やら論文やらをみんなお玉さんと書き換えてみろ、当時の景色が見えてくるではないか?」との御高説である。

 悪友の言、一理はある。私は相当数のガラシャ関係の本を持っているが、そのほとんどはガラシャ表記であり、そうでないのは唯一熊本女子大学教授・宮島真一氏の著「貴理至端之精華・伽羅奢細川玉子夫人」位である。
「お玉」さんより「ガラシャ」の方が大いに認知されているからの話だろう。
それぞれの著者の方のお考えを伺いたいものだ。

 

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■細川小倉藩(255)寛永五年・日帳(二月廿三日) 

2020-06-07 05:28:54 | 細川小倉藩

         |
         |    廿三日
         |
         |          烏丸光賢と室・萬
来月中旬烏丸光賢 |一、来月中旬、中津へ烏丸様御二所様被成御下向に付而、 忠利様も中津へ被成御座、御能ヲ二日被
夫妻中津へ来ラム |  成候様二と、被 仰進之二付而、其 御返事を持せ、此地ゟ御飛脚差上申候処ニ、御能組之儀ニ
能組       |  付而、此地ゟ之御飛脚戻り申候ニ、中津ゟも御飛脚壱人被成御添、昨夜半ニ参着仕候を、今朝末
         |  明ニ 御前へ差上申候、 御意之趣、則御返事調、御飛脚差帰申候事、
         |    (人脱か)                                         (広隆)
九鬼広隆ヨリ音信 |一、大坂町與吉と申もの、大坂ゟ罷下候ニ、寺嶋主水方ゟ書状被差越候、又九鬼四郎兵衛殿ゟ、御文     
         |  箱幷のしの箱壱つ持参申候を、則上申候事、
         |  (規矩郡)
宇佐ヨリノ米船ノ |一、平松の沖にて、破損仕候舟之御米弐百八十六俵上り申候、内上賃ニ十俵遣可申由、高原茂兵衛被
捨リ米ノ処理ヲ浦 |  申候間、其分二可被仕通申渡候、右之米之内、四分一ハ頼母殿米をつミ合申ニ付、上り申内四分
奉行ノ指図ニ任ス |  一ハ、頼母殿へ渡可申由、茂兵衛被申候間、是又其分たるへしと申渡候事、
揚賃ニ十俵ヲ給ス |
四分一ハ有吉英貴 |
ニ渡ス      |
乃美景嘉ノ下代判 |一、田川郡乃美主水知行ニ、下代山路惣二郎判形左之書物共可有之候間、有次第取よせ可申遣、道家
形ノ書物     |  左近右衛門・富田十大夫被申候間、御郡奉行衆へ申付、取よせ候て、主水庄屋苻のまゝ、左近右
         |  衛門方へ渡申候事、
中津へ借銀返弁ノ |一、中津為御算用、中神與兵衛明日中津へ被罷越候、去年三十貫目被成御借用候御銀子、元利共ニ両
         |                                  (元高)
算用       |  度ニ御返弁被成、福山源次・村上少左衛門請取切手、蒲田久左衛門・志水次兵衛加判之切手、右
         |  中神ニ被遣候事、
         |      別府村の堀助之丞を総庄屋とする手
由布院横灘ノ郷帳 |一、由布院・横灘、寛永元年ゟ同三年まての郷帳目録相調、明日被成御上候、菅江一郎兵衛■・由布
目録成ル     |                        (景延)   (慰英)  
公儀勘定所    |  院の庄や久左衛門と申もの両人ニ被成御持、宗像清兵衛・仁保太兵衛ニ被遣候、右両人公儀御
         |  勘定書へ罷出、可被遂御算用旨候事、         
由布院横灘算用ニ |     由布院・横灘為御算用 菅江一郎兵衛ニ渡申 物数之覚
物数ノ覚     |
 郷帳目録    |  一、寛永元年ゟ同三年迄之郷帳目録三つ、
 目録      |  一、寛永四年分之目録壱つ、
 万覚書     |  一、万覚書壱つ、
         |     (一成)  (衛則ヵ)   (道家立成)
         |  一、道家帯刀・谷主膳方へ、左近右衛門ゟ状壱包、
         |     (慰英)    (氏久)
         |  一、仁保太兵衛・田中猪兵衛方へ、御用之儀ニ付而状壱通、
         |     (広隆)
         |  一、九鬼四郎兵衛かたへ、 御書箱壱つ、
         |                   (敦行)
         |  一、京衆へ、口ノ御納戸衆ゟ状壱通、続平右衛門・熊谷九郎兵衛ゟノ状壱通、我々共状壱通、
         |  一、大坂ヘ之状壱通、又氏江島殿へ我々ゟ状壱通、坂本二兵衛ゟノ状壱通、
         |     (景延)
         |  一、宗像清兵衛・仁保太兵衛方へ、我々ゟ状壱通、
         |

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