ご厚誼いただいている、北九州市小倉北区在住の小川研次さまから、忠利に殉死した阿部弥一右衛門に関する一文をお送りいただいた。
森鴎外の「阿部一族」で知られる一連の不幸な事件は、細川家の歴史のなかでも悲惨な事件の一つである。
氏は九州唯一の名誉ソムリエの称号をお持ちの方だが、豊前時代の細川家について深い造詣をもたれ、「小倉藩葡萄酒事情」「細川ガラシャ」などについて冊子や論考をお寄せいただいた。この度は宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑の写真とともに「阿部弥一右衛門」と題した一文をお寄せいただいたのでご紹介する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
阿部弥一右衛門 小川研次
宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑
阿部弥一右衛門は殉死の際は千百石の上級家臣であった。
出自は広島大学の藤本千鶴子氏の研究により宇佐郡山村(現・JR宇佐駅東の大字山)の
惣庄屋であったことが判明している。
現在、山地区の貴船神社に多くの子孫らに囲まれて「阿部弥一右衛門」の墓碑が建っ
ている。「万里一条銕一天宗宇雲居士」と刻まれ、一族の誇りを感じる。
また、命日が「寛永十八年三月十七日」となっており、忠利の逝去当日である。
建立の年が不明だが、寛永二十年(一六四三)二月二十一日に弥一右衛門の遺子権兵衛
らが誅伐された後の三月十四日に権兵衛召抱えの者も誅伐されている。
「豊前の者四人、国(肥後)の者八人、豊前以来の三人誅伐、他は放免」(『熊本藩年表
稿』)とあり、豊前の者一人が宇佐に戻り、弥一右衛門やその家族の事を一族に伝えた
と考えられる。そうであれば、弥一右衛門の命日は藩主忠利と同日になることに真実
味が増してくる。
寛永五年(一六三二)九月に忠利肥後転封直前に家臣として召しかかえられている。
(森鷗外「阿部一族」―その背景―』 吉村豊雄著 熊本大学学術リポジトリ)
わずか五十石の農民身分の者がどのような理由で忠利側近となったのだろうか。
あまりにも謎に包まれている人物である。
『小倉藩人畜改帳』(元和八年(一六二二))の宇佐郡における山村の村人数一五八人の内、
九十三人が惣庄屋の者とあり、郡最多でかなりの実力者であったことが窺える。
手長名は山村与右衛門であり、弥一右衛門の父である。
『細川日帳』寛永元年(一六二四)八月四日に与右衛門が小倉に屋敷を構えることを藩に
願っている。町宿では不便ということだが、代を弥一右衛門に譲り、小倉に隠居する
つもりだったのか。
寛永三年(一六二六)五月一日の「日帳」に、弥一右衛門は木下延俊が鹿狩りの時に延俊
から小袖を預かっていると記されている。
木下延俊は豊後日出藩初代藩主であるが、父家定は豊臣秀吉の正室北政所(高台院)の実
兄であった。つまり、北政所の甥である。正室の加賀は細川藤孝の娘である。
よって忠興とは義兄弟となる。特に忠利とは親しかったという。
このような状況から弥一右衛門は宇佐郡ではかなりの実力者であったことが窺える。
この時、すでに惣庄屋であったと思われる。
同年十二月に藩は宇佐郡の銀山開発に乗り出す。
「宇佐郡麻生ノ銀山見せに、はぶやの忠兵衛差し遣候事」(十二月一日)「はぶや」は灰
吹屋のことで、鉱石から金銀銅を抽出する精練技術を有する専門家である。
この忠兵衛、二十二年後の慶安元年(一六四八)十一月十三日に肥後国でキリシタン容疑
で穿鑿を受けている。二十六日には閉門赦免となっているが、キリシタンとみて間違い
ないだろう。(『熊本藩年表稿』細川藩政史研究会編) 忠兵衛については後述する。
「麻生の銀山」は麻生谷(現・麻生地区)と宇佐鉱山(院内町下船木)も含んでいたと考える。
ところが、弥一右衛門がこの銀山に登場する。
「宇佐郡麻生谷ノ銀山、くさりを五はいかけ、なまり二百五十目くべ、銀子一匁三分有
之由、山村弥一右衛門此中申上につき、」(十二月七日)とあり、弥一右衛門が銀山にて
くさり(鉱石)五杯(一升と二.五合)に鉛を入れて銀子を抽出したと報告している。
ということは、弥一右衛門は精錬技術を有していたことになるが、このことにより灰吹
屋忠兵衛が再度現地にて「吹き申候所に」銀子が出たとある。
しかし、金山奉行春木金太夫が現地で採石し、呼野金山で試してみたが、全くなかった
と記録されている。(十二月七日)
郷土史『企救郡誌』によると、小倉藩の鉱山開発は忠興時代から始まったとされるが、
特に忠利は呼野金山を始め、田川郡の百舌鳥原金山、採銅所など鉱山開発に力を注いだ。
寛永四年(一六二七)『幕府隠密探索書』には藩内最大の呼野金山には「六年前にはかなり
の量の金が取れ、五、六千人もの人がいたが、現在では三百人程で金はほぼ取れない」と
している。(『百舌原金山の持つ秘密性の考察』岡崎悠多楼著「郷土史誌かわら第二集」)
しかし、これを鵜呑みにすることができるだろうか。
幕府としては、藩主が金の算出量を過小に申告しているとの疑いから隠密を送るのだが、
いわんや忖度されるのも今の世も然りである。
つまり、この「宇佐郡麻生谷ノ銀山」は藩の財政政策のために隠蔽されたと考えるが妥
当である。
「同時代に書かれた『日帳』は間違いなく一次史料であり、最も正確な史料だから、歴史
史料としては百年後に書かれた二次史料に優先する。
しかし『日帳』は藩の公務日誌であった。公的なものであるが故の制約、あるいはその時
の情報源による制約も考えられる」(『虚実はあざなえる縄』服部英雄)
つまり都合良く書き換えられた可能性があるのだ。
弥一右衛門のこれらの行動から「金山」開発に関連していた。ならば山村の村民数一五八
人の内九十三人もの「身内」は、実は「堀子」を多く抱えていたことも理解できる。
もちろん農業にも従事していたが、弥一右衛門を棟梁とする「堀子集団」だった可能性も
ある。この頃、忠利は金山事業に力を注いでおり、企救郡呼野金山や田川郡の採銅所、弁
城などで多くの堀子が働いていた。(拙著『田川キリシタン小史』)
寛永四年(一六二七)五月九日、弥一右衛門から小倉城に書状が届いた。
宇佐宮永勝院の危篤を伝える書である。
永勝院は宇佐宮にある院坊であり、法印裕尊は忠興時代からの親しい関係にあった。
忠興が宇佐宮の廃典を復興し、行幸会、放生会を行い、呉橋を架け、楼門を建てるなど多
大なる貢献を果たしたのは裕尊に因るという。
(『宇佐市民図書館郷土スペース月報』二〇〇五年一月十五日)
十九日には永勝院法印の遺物のことに触れているので、十日前後に亡くなったのだろう。
翌年の正月三日、弥一右衛門は永勝院から忠利の書状十通を回収し、忠利の元へ送ってい
る。何が書かれていたのだろう。
また、弥一右衛門は宇佐宮、大貞八幡宮(薦神社)の千石、百石の借米に触れている(正月十
二日)ことから、宇佐宮との関係が強かったと思われる。
祭事などに関わっていたのだろう。郡内の惣庄屋の中で最も重要な地位にいたのである。
忠利の肥後国転封の直前である寛永九年(一六三二)九月十一日付『奉書』には山村弥一右
衛門に「別之御用」とあり、これが惣庄屋(農民身分)から家臣に取り立てられる大きな理
由である。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』)
「別之御用」とは何を指しているのだろうか。
寛永十二年(一六三五)に「阿部弥一右衛門」の名があり、熊本の保田窪にて地筒仕立(鉄砲
隊)を始めている。熊本へ入ると間もなく「阿部」姓となった。
忠利の命によるものだろう。
また翌年の七月六日に飽田郡の郡奉行に就任している。この一週間後に細川家中に多くの
キリシタンからの転宗者を出している。(『熊本藩年表稿』『肥後切支丹史』)
最後に細川黒田豊前入封前の大友時代の宇佐郡の状況を念頭においていただきたい。
キリシタン大名大友義鎮(よししげ・宗麟)の義兄(奈多夫人の兄)である田原紹忍親賢(ちか
かた)の妙見岳城(宇佐市院内町香下)は宇佐郡の中心的存在であった。
親賢は宗麟の第三子大友親盛を養嗣子に迎えていた。また、親盛は洗礼を受けており、洗
礼名はパンタリアンである。『一五八二年のイエズス会日本年報』この人物が後の細川家
にて二千石で仕えることになる松野半斎親盛である。
兄の親家(宗麟二男)、松野右京正照(宗麟嫡男吉統の二男)、志賀左門(妻は宗麟の娘)など多
くのキリシタン旧大友家臣も仕えた。
親盛は慶長十九年(一六一四)に仏教に転宗しているが、再びキリシタンに立ち返り、寛永
十三年(一六三六)に禅宗に転宗した。(上級家臣を中心に二十七名『花岡興輝著作選集』)
後述するが、元和三年(一六一七)にイエズス会へ地区代表者の一人として自署した文書を
提出している。つまり、すぐに立ち返ったのである。
元和五年(一六一九)に殉教した藩内キリシタン柱石であった加賀山隼人の後継者と目され
る。つまり筋金入りのキリシタンである。
親盛のキリシタンになることを反対していた兄大友義統(よしむね・宗麟嫡子)はやがて宇
佐の妙見岳城にて洗礼を受けることになる。
追記:2020/6/21
実は、先述の阿部弥一右衛門の墓碑と並んで右田因幡といわれるの墓碑が存在する。
弥一右衛門のそれとは小ぶりだが、同時代のものである。
『綿考輯録』によると弥一右衛門の享年、法名、菩提寺も不明としているが、因幡は
「心陽統安」と「泰陽寺」(現・泰陽禅寺)では判明しているが、山地区の墓碑には「咄宗
誉浄休信士」(浄土宗)とあり、俗名は確認出来ない。
しかし、因幡が宇佐郡出身であることは間違いないだろう。」