小倉藩葡萄酒研究会の小川研次氏には、過去「小倉藩葡萄酒事情」「秀林院の謎」などの御著を頂戴した。
また「「阿部一族」の一考察」「秘史・阿部一族」等、また最近では「阿部弥一右衛門」などの論考もお送りいただき、ご了解のもと当サイトでもご紹介してきた。
それぞれ細川家の木倉藩時代の姿を彷彿とさせている。
今回の「田川キリシタン少史」は50,000文字をゆうに超える大作である。3~4回に分けてご紹介する。
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『田川キリシタン小史』 小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
プロローグ
二〇一八年七月、世界遺産として登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は記憶に新しい。
それは禁教令下に信仰を命がけで守っていったキリシタンの生き様にある。
江戸幕府は慶長十七年(1612)三月二十一日に禁教令を直轄地や各大名家へ発令し、翌年十八年(1613)十二月二十三日(陽暦一六一四年二月一日)
には全国へ拡大した。
キリシタンは処刑される者や国外追放になる者もいたが、信仰を固守する為に故意に仏教徒に転宗する者もいた。
長崎や天草の多くのキリシタンは農業や漁業に従事し、その地に定住していった。そして潜伏キリシタンとなった。
慶長五年(1600)、豊前国に入った細川忠興は妻ガラシャの御霊救済のためにキリスト教の公布を許した。
慶長十年(1610)のイエズス会の記録によれば、小倉の町の人口六千数百人に対し三分の一の二千人以上のキリシタンがいたとされる。
「豊前の城小倉には、十人のイエズス会員がいた。長岡(細川忠興)もその子内記殿(忠利)も、いたく同情を寄せていた。
そこには、二千人の受洗があった。」(『日本切支丹宗門史』レオン・パジェス)
しかし、慶長十九年(1614)の禁教令による小倉の町の棄教・転宗者は四分の一の五三四人だけである。
藩領全体では二〇四七人であるが、(『大分県史近世篇II』)その四倍の八千人近くの信者がいたと考えるのが妥当であろう。
小倉藩領(規矩郡、田川郡、京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡、豊後速見郡、豊後国東郡)の内三桁の転宗者がいたのは規矩郡(小倉含)
五六一人、田川郡百二十人、下毛郡百二十六人、豊後速見郡九三四人である。
さて、豊前小倉藩ではこれだけ多くのキリシタンがいたが、長崎と違いその痕跡は皆無に等しいのである。
原因は藩特有のキリシタン政策にあった。
金山(かなやま)
慶長三年(1598)、徳川家康はスペイン船で来日したフランシスコ会の宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスに銀鉱採掘の技術を要請している。
『切支丹迫害史中の人物事跡』姉崎正治)
灰吹法よりも効率のよい水銀を使用したアマルガム法の導入を考えたのだ。
また、慶長十四年(1609)に、スペインのフィリピン総督に「銀精錬に堪能な鉱夫五十人を招聘したい」と要請した。(『奥羽切支丹史』菅野義之助)
天下人となった家康は鉱山開発を国の最重要産業とし、鉱山政策の要である山法を全国に流布した。
それは「山例五十三条」(さんれいごじゅうさんじょう)からなる。その中から数条を紹介する。(『友子の一考察(二)』武田久義)
第二条 山師金堀師を野武士と号すべし鉱山従事者に武士の階級を与えている。
第三条 山師金堀師山法師の儀は国々関所見石一と通りして可相通事
鉱山従事者は決められた鉱石の見本を見せることにより全国の関所を通ることができる。このことにより山から山へ移動することができた。
・第十二条 山金紫金川金何方に有之候とも勝手次第堀採儀不苦事金脈のあるところは、どこででも行って採掘ができる。
・第十七条 山師金堀師人を殺し山内に駆け込みとも留置仔細を改め何事も山師金堀師の筋明白立候はば留置相働かせ可申事
但し主人親殺しの科人は一切隠置申間敷其の科後日顕れ隠れ難く候は場早速縄をかけ差出可申事
つまり主人や親を殺す以外の殺人も筋が通っていれば不問にするということ。
・第十九条 一山は一国たるべし他の指揮に及ばず一山一国の治外法権を認める。
・第三十八条 山師金堀師行暮候はば其の所にて一宿致させべき事
生き暮れた鉱山従事者には一宿一飯を与える。
この様な緩和政策を取った江戸幕府の意図は鉱山開発での人材確保のためである。
禁教令後に多くのキリシタンが鉱山へ流れ込んだ。特に奥羽地方である。
「秋田藩内の諸鉱山は山法を理由に公政不入の地として、そのアジールを主張し、一旦鉱山に入ったものは親殺し、主殺し以外は刑事訴追を拒否する
特権を主張し、藩も鉱山政策上その主張を認めていたから、鉱山は切支丹にとっては最も安全な隠れ場所となった。」(『奥羽切支丹史』)
伊達政宗の仙台藩領の下嵐江(おろせ)銀山(岩手県奥州市胆沢区)では六十人のキリシタンがイエズス会のポルトガル宣教師ディエゴ・デ・カルバリョ
(日本名長崎五郎右衛門)と共に潜伏していた。(『日本切支丹宗門史』)
ガルバリョは「鉱業に知識があり、鉱山の実質的効果的な作業に関し、労働者を指導していた」(『蝦夷切支丹史』ゲルハルド・フーベル)
「元和二年(1616)の頃、採鉱を
開始した金山で、その産出の豊富なことからたちまち鉱夫が集まり、元和六年(1620)、カルバリョ神父の往訪した際は、その数八万に上るといわれた。
鉱山は松前の城下から一日ほどの距離にあるが(中略)鉱夫のなかには相当多数の切支丹信者があり」(『奥羽切支丹史』)とあり、蝦夷の千軒岳金山を指している。
最北の地で多くのキリシタンが働いていたが、幕府の穿鑿が厳しくなり、遂に寛永十六年(1639)に松前藩は百六人の信徒を斬首したのである。
「十六世紀の末葉には日本の中部及び北部に多くの鉱山が発見され、多数の鉱夫たちが入りこんだが、そのなかに切支丹たちもあり、彼らは自分達だ
けで組を拵えていた」(『蝦夷切支丹史』)
このように「金山」にはコンフラリア(信徒組織)が組織されていて他国間でも情報交換がなされていた。特に弾圧が厳しいなか、宣教師を鉱山から鉱山
へ移動させる際に渡り鉱夫のグループを編成して、鉱夫に扮した宣教師(カルバリョ)を一員として安全に移動させている。(『徳川時代の金堀友子に関する考察』村串仁三郎)
元和九年(1624)、カルバリョらは仙台の廣瀬川で殉教するのだが、その一人に「野口二右衛門 豊前ノ者」とある。
また、盛岡藩領で「豊前ノ者 野口三右衛門が斬首され」とあり、二人は兄弟のようである。(『日本切支丹宗門史』)
正に遠く北国まで信仰を捨てずに生きていた流浪のキリシタン鉱夫の姿である。
呼野金山(よぶのかなやま)
初代小倉藩主細川忠興は金山開発に乗り出した。そして、この治外法権的な山法を利用した。
まず最初に着手したのは呼野金山(北九州市小倉南区大字呼野)である。
しかし、忠興の藩主時代である慶長・元和年間(1600~20)の鉱山開発に関する記録が細川家資料には少ないのである。
『企救郡誌』に伝承なる記録
を見ることができる。
[呼野金山]
「呼野村にあり。細川家の時、この處より金を出せり。是を呼野金と云う」
『綿考輯録』巻九に忠興は「豊前の呼野金」とし伊達政宗に「金具などに使われよ」と贈ったとあり、ここからの引用だろう。
[黄金山]
「後陽成天皇御宇慶長年中細川越中守忠興朝臣、この山を堀穿(せんくつ)し、黄金を鋳出し給いしとて、今に黄金穴数多處にもあり」
[古海家系図] 現代語訳
「輿三右衛門利久 善右衛門の二男慶長二丁酉八月十六日夜、木船(貴船)大明神が夢に現れて、豊前国の呼野というところに行って住むべし。
そうすれば必ず栄えると告げられた。それで、同年十一月、呼野に行き、住むことにしたが、十二月下旬、異人が来て、この地は黄金が出てくると言う。
そして、その人と一緒に山野を巡見しているうちに、横ずりというところに着き、これこそ最上の地と言う。見てみると黄金が泉の如く出てきた。
この時の藩主細川三斎(忠興)公に申し上げた。金山奉行厚木金太夫(春木?)と他の役人ら多くが入山し、金山はついに繁盛した。
輿右衛門には数町の田地を拝領され原という苗字をいただき、百姓頭となった。
明暦元年(1655)八月十二日に没する。享年八十三歳。戒名月桂宗心信士小倉小姓町の寳典寺に眠る」
興味深い話であるが、後年、創作された感もぬぐえない。
しかし、重要なキーワードが入っている。「異人」は鉱山技術を持つ外国人である。つまり鉱山技術を知る宣教師の可能性はある。
「呼野に金鉱脈有るを聞くやこの道の練達家を使いて、その実否を探らしめ、大いに見る所あるを覚り、直に開鉱し、呼野付近の小森、市丸、木下の
各を鉱業区域と予定し、盛大に採掘を溜めしるに、果たして好結果を得て日ごとに採取の金量少なからず。すなわち呼野金の名、近国に聞ゆ」
(「小倉藩政時状記」内山圓治 『福岡県史資料第五輯』より)
時代はずっと下り、安政五年(1858)、小笠原家が呼野金山に着手する。
その時の状況を記録している今井貞吉の『歴島記』(『企救郡史』)の中に「安政六年四月四日晴 (中略)呼野という驛(宿場)あり。
驛西路傍ら左に金抗あり。右に銅抗あり。金抗は唐人三家と云う」、「呼野には地名として当時、唐人の居宅であった「唐人小屋址」が残る」とあり、
外国人がいたとある。
町割には上町、下町、横町、裏町、魚町、寺町、遊所町があったという。
イエズス会『一六一四年度日本年報』によると、幕府による禁教令発令の折、江戸にいた忠興は国の家老らにキリシタンの棄教、転宗を成すように書
簡を送っている。
多くの信徒が先述のように転んだが、「屈しなかった者に関しては、さしあたって知らぬふりがなされた。」とある。
これがレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』には「抵抗した人々の事は秘密にされた。」となり、隠蔽工作を思わせる。
忠興が藩内キリシタンを呼野金山に送り込んだならば、この時しかない。
忠利(ただとし)
元和七年(1621)正月七日に家督相続した細川忠利は六月二十三日に小倉城へ入る。
忠興から継承した金山開発事業を最優先した。元和九年(1623)からの『御用覚書之帳』(『福岡県史』)や寛永元年(一六二四)からの細川家『日帳』(『福岡県史』)に
「金山」に関する記録が多く見られる。
元和九年(1623)五月二日「呼野へ遣たき炭之事、」と金山用の炭の手配を指示している。(『御覚書之帳』) 製錬には多くの炭を要する。
また、三日には「かなつきしよゑん、与州くわ、つるのはし、ゆり鉢」などの金堀道具を渡したとある。
灰吹には牡蠣の灰も使用したようで「かきはい一斗、呼野へ遣候、」(十三日)とある。
また、採石を持ち上げり引いたりする「万力」の購入を家臣に命じているが、「いかにも隠し候」と秘密裡に進めている。(四月九日)(『永青文庫研究創刊号』)
幕府に金山開発を知られることを避けたのか。
また、翌年の寛永元年(1623)八月十五日に大阪より万力の事を依頼している。(『日帳』)
特筆すべきは元和九年(1623)五月十五日に「田川郡にて、石炭四百荷余堀出し候間、」とあり、既に石炭採掘を行なっていたのだ。
しかし、翌年の寛永元年(1624)には採鉱量が減少しており、他国の銀山の好況を知った堀子衆(鉱夫)は出国願いを依願している。
また「他国の山悪時は、何時も御国へ」と他国で思わしくなかった時の帰国許可まで与えている。(八月二十日『日帳』)
さらに十月二十一日は「御金山共何も御かね出不申候故、堀子なともちり申候、取分採銅所の御金山少も出不申候につき、」このままでは堀子らは
離散してしまうと報告している。
そして翌日には忠利は「仕様無之候」であるから、離散する者らには「知らざるふりに」と言い渡している。
堀子らには寛容だったが、忠利は「山法」に従ったのである。
多くのキリシタン鉱夫が他国へ移動したと考えられる。
御金山(呼野)を越えて「採銅所の御金山」に言及している。
この呼野金山と採銅所を繋ぐ要所が金辺峠(きべとうげ)である。秋月街道の難所の一つである。
茶屋跡の隣に古めかしい石段があり、その不規則な段を注意深く登って行くと、小さな観音堂がある。
祀られているのは金辺観音と呼ばれ、細川時代に採掘した金で作ったという伝承がある。
寛永九年(1632)、細川家熊本へ転封の時、金辺観音も移動することなった。
「この観音様が夜な夜な忠利の枕元に立って金辺に帰りたいと訴える。一方、金辺峠の茶屋佐七の夢にも出てきて熊本へ迎いに来てくれという。
ここで忠利は金製観音を返すわけにはいかず、木製観音像を作り、入魂して金辺に送り、その守りを佐七に託したという」(『郷土史誌かわら第二集』)
「金」が「木」となったということだが、寛永五年(1628)の『細川日帳』に「木部とうけ」と見られることや彦山入峰経路図には木部宿と表記されて
いたことから、(『秋月街道』福岡県教育委員会)おそらく「金辺」は後年の当字だろう。
推考だが、「金」は「キリスト教」で「木」は仏教の意で、かつて金山キリシタンが祈りを捧げていた「マリア」観音だったかも知れない。
寛永四年(1627)の『幕府隠密探索書』(『百舌原金山の持つ秘密性の考察』岡崎悠多楼著 「郷土史誌かわら第二集」)によれば、「この(呼野)金山はここ六年前の春より
出来申す候由、盛りに取れ申す候時には、人の五、六千人も居た」が、現在は殆どいないとの報告をしている。
また「採銅所と申す金山も」あり、「南採銅所と申す町は、この金山より半里程南」へ、「家は七、八十軒程」見え、堀子は「三百程居る」となっている。
「伊方」「五徳」「鏡山」の金山を掘ってはいるが、かつては少なく、今では少しも出ないので堀子は全くいないとある。
これらの報告は隠密によるが、どの程度信憑性があるだろうか。細川家から忖度されている可能性は十分にある。言わんや江戸時代である。
確かに一旦は減少したが、寛永五年(1628)五月二十二日の『日帳』には「御金山より、金之くさり(鉱石)にほりあたり候て、」とあり、継続していたのだ。