津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御侍帳・家紋から考える(18)

2020-06-26 17:31:33 | 家紋

                                                 久しぶりに「御侍帳・家紋つき」を取り上げます。

             

■片山寛助の名前は「片山傳四郎家(南東16‐15)」の6代目寛助(傳九郎)である。 家紋は「五つ鐶に左巴紋」
■片山九郎兵衛は「片山一千家(東南17‐21)の7代目か。100石の外、御役料100石ともある。
 家紋は「    」
■片岡吉之丞は、「片岡宗善家(南東16-14)」の7代目、「御知行被召上候・文化五年十二月十九日」という記事が残る。 家紋は「糸輪」もしくは「細輪」である。
■片山文寿は代々の医家である「片山三哲家(南東56-9 医)」の7代目、「外様御医師触役」を勤めた「本道」の医師である。家紋は「井筒」
■神谷十兵衛は「神谷矢也家(南東19-2)」の6代目である。
家紋は「    」今一つは「下り藤紋」
■神足(こうたり)格介は青龍寺以来の「神足勘十郎家(南東18-6)」の5代目である。
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔とされ、その家紋は「丸に隅立て井桁紋」であるが、肥後神足氏は嫡家をおもんばかって、「石持隅切り平角、切り抜き丸に隅立て井桁」としている。今一つは「石持隅立て角、切り抜き丸に入れ子菱」である。 
■神足又兵衛は同じく青龍寺以来の神足家本家筋である「神足少五郎家(南東18-5)」の6代目左源次(又兵衛)である。
家紋は同上。
■神山忠兵衛は「神山 譲家(南東17-4)」の8代目・又彦(忠兵衛)で菊池郡代、野津原・鶴崎郡代などを勤めた。
家紋は「隅切り平角に桔梗」?

■鎌田軍助は「鎌田 泰家(南東18-8)」の6代目で1,100石取の大身である。
家紋は「抜梃子釘抜」今一つは大変珍しく家紋名はよく判らない。
■鎌田勇は「鎌田源次郎家(南東18-10)」の6代目で、御番方・遠藤関内組 百五十石。
家紋は「三つ輪違いに串」?
■鎌田左一兵衛は「鎌田平十郎家(南東18-9)」の6代目、左一兵衛(新兵衛)で御側御取次 百五十石外百五十石御足。
家紋は「隅立て子持ち角」
■河方宇太夫は「河方九平家(南東19-11)」の8代目・安大夫(宇助)だと思われる。(宇ー安の誤植か?)五百石
 文化六年二月~文化十年十月 用人を勤めているが、その祖は従五位下・松下民部少輔述久であり、三代目半四郎から河方を名乗る。
家紋は「丸に松皮菱」
■河喜多 

                        妙見龍王城預
    ガラシャ夫人殉死         飯河豊前誅伐仕手・討死          
 河北石見---+---藤平(石見)--- +--五郎左衛門 ---+--助兵衛 ・・・・・・・・・・・・・・・・ →(列蔵家)
      |         |        | 
      |         |        +--勘左衛門 ・・・・・・・・・・・・・・→(助三郎家)
      |         |        |
      |         |        +--角左衛門   ・・・・・・・・・・・・・・→(一二家)
      |         |
      |         +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(和学家)
      |         (父)石見相果候砌出生仕候  熊本城源之進櫓に名を遺す 
      |  細川休無忠隆家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出                               
      +--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ →(治部右衛門家)

河喜多九太夫は【青龍寺以来】「河喜多治部右衛門家(南東18-12」の7代目・九大夫か、御鉄炮廿挺頭六百五十石、
 寛政五年正月(三拾挺頭)~寛政十年八月(依願免)鉄炮五十挺頭
 家紋は「丸に中柏」及び「一文字紋」である。
河喜多郡兵衛は同じく【青龍寺以来】「河喜多列蔵家(南東18-13)」の 11代・浅右衛門(郡兵衛)御側御鉄炮十五挺頭・御中老支配 二百石
 家紋は「丸に中柏」は一族の共通紋、今一つは「丸に花形釜敷紋」か?。
河喜多一太夫は【青龍寺以来】「河喜多助三郎家(南東18-14)」6代目・一大夫(藤平)二百石当時百五十石
家紋は「丸に中柏紋」
■河喜多角太夫は【青龍寺以来】「河喜多和学家(南東18-16)」の7代目である。2代・源之進(角太夫)が熊本城に「源之進櫓」の名を遺した。
家紋は「丸に中柏紋」もう一つあって「轡紋」(キリシタン由来か?)
■河喜多角左衛門は【青龍寺以来】「河喜多一二家 (南東18-15)」の5代・式九郎(角左衛門)又は 6代・角助(角左衛門)いずれか断定しがたい。
家紋は「丸に中柏紋」
■河部仙吾は「河部章十郎家(南東17-8)」の 4代目・仙吾で百五十石・内五拾石御足高 学校方御奉行所触・時習館訓導(文政三年・士席以上名録)、いわゆる「河部仙吾事件」の被害者である。
被害者ではあるが事件により時習館訓導を罷免された。
家紋については不詳
■川添傳之允は「河添猛家(南東17-7)」の 5代目・傳之允 御備頭御留守居大頭組御小姓頭支配御奉行触物頭列・薮組
 百五十石内五十石御足高 剣術居合師役并組付師役
家紋については不詳
■河田平吉は「河田和気太家(南東16-17)」の養子で5代・平吉(南可愛)
家紋は「丸に違い鷹の羽」
        

 

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■「熊本大水害」67年前の今日

2020-06-26 14:50:33 | 熊本

 昭和28年6月26日、私は小学六年生・10歳でしたがまさに命を拾った運命の日でした。
数日続いた雨は急激に白川の水位を押し上げ、御昼過ぎには緊急下校の措置が取られました。
私は、出水校区から越境入学、1時間以上かけて帰宅してしばらくすると床下に水が入り始め、思わぬスピードで水位が上がり避難できなくなりました。
白川のあちこちの堤防が決壊、熊本市の6割強が被害を受けました。
我家は床上6尺鴨居の上まで水位が上がり、水没状態で財産のほとんどを失いました。
命あっての物種と云いますが、母は19年夫や舅姑の三人の葬式を出し、終戦を迎え、ホッとしているときにこの仕打ちですから、相当のショックを受けたようです。
我家の前の二三軒の家は流失しました。翌日水が引いた跡には、清らかな湧水がコンコンとわきだしているのを見て、涙したことを思い出します。
まさに町の名前の「出水」を思い知らされました。

学校では多くの同窓生が亡くなり又未だに行方不明者がいます。
その年の9月大江小学校の校庭の「おおえのき(大榎)=大江の木」の下で慰霊祭が行われましたが、数年前台風の被害であの巨木が倒壊してしまいました。
学校に電話を入れお聞きしたことが有りますが、今では慰霊祭のようなものも行われてはいないようです。
今日は先程から、熊本日々新聞社の「熊日写真ライブラリー」で当時の写真を眺めて居りました。
改めて幼い命をなくした同窓の人達を偲び我家の仏壇に手を合わせました。

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■細川小倉藩(274)寛永五年・日帳(三月廿八~廿九日)

2020-06-26 06:53:35 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正三月)廿八~廿九日 

         |
         |    廿八日
         |
         |    大里
、規矩郡
忠利大里ニ赴キ花 |一、今日ハ内裏表へ、花幷御路地石為被成 御覧被成御座候事、
幷路地石ヲ見分  |
         |       有ア(ゆうべ)  (重政)
逸レシ巣隼ヲ探索 |一、御巣隼一居〇それ候て、続亀介うへごミニかゝり居申候を、御中小性衆十人斗たつねさせ可申
セシム      |    (三淵之直)
         |  旨、左膳殿事ニ而被 仰出候ニ付、申ふれ、今朝未明ゟ出し見せ申候処、又からす弐つより候
         |  て、うミノ方ニつきをとし申候、其後うミ方へ舟を廻申候へ共、一切見え不申由候、いよ/\た
         |  つね可被申由、申渡候事、
         |一、深野二郎右衛門快気仕由ニ而、登城被仕候事、
         |一、山崎伝左衛門も快気仕、登城仕候事、
         |      (米田是季)
逸レ巣隼ヲ居上グ |一、右之御鷹長岡監物殿やしきニ而、すへ上ヶ申候事、
         |                                       (可政)
長塩源太郎切米  |一、長塩源太郎御切米之儀、江戸ゟ 御印無御座候て、御切米不相渡由、申来ニ付、加々山主馬方へ
         |                                   (松野親英)(町)
         |  も切かミを以相尋申候処、登城候て、直ニ被申候ハ、江戸御上洛之前之夜、織ア・三右衛門被
         |  得 御意候ヘハ、源太郎儀ハ仕着せニ而、御台所食、又小性小者ノ為給分、拾五石宛可被遣旨、
         |  織ア・三右衛門ニ被 仰渡を、慥聞申由、被申候事、
         |
鉄炮足軽百人召抱 |一、上林甚介、■今度百人抱申候御鉄炮衆百人ノ内、林甚右衛門と申もの■ノ北方ニ而すへ上候由ニ
逸鷹ヲ居上グ   |  
鷹匠預リノ鶴   |  而、はいたか一居すへ来候、則横沼権八をよひ、見せ申候処ニ、上野太郎兵衛預ノ御鷹ノ由申候、
         |  則様子申上げ候事、よくすへ上申由、被 仰出候事、九郎兵衛を以申上候処、右之 御意ニ候事、
         |

         |
         |    廿九日
         |
忠利谷助兵衛邸ニ |一、今朝ハ谷助兵衛所へ被成 御成候事、
臨ム       |
大坂ヨリ音信ノ覚 |一、大坂ゟ田辺長介罷下候事ニ、持下物之覚
         |            〃
         |     (直時)
         |  一、嶋田越前様ゟノ御返書 一通、
         |     (秀成)
         |  一、生嶋玄番所ゟ言上状 一通、
         |    みぼく
茶師上林味卜書状 |一、上林味卜所ゟ、 三斎様へ差上ノ文箱、持せ差上ヶ申候事、
門番駕舁ノ女房ヲ |一、中嶋御門番ノ女房・御乗物かき助五郎女房、江戸へ被遣ニ付、闕所ノ内ニ女房ノ道具有之分ハ遣
江戸へ遣ス    |  申候、今一人煩女房ハ残シ置申候事、
闕所ノ女ノ道具ヲ |
与ウ       |
筑前ノ人質    |一、八木吉右衛門尉子を筑前へ人質ニ取参候時、境目へ参候物共ノ書物、式ア少輔殿被懸 御目候
         |  処、二郎左衛門・三右衛門・久右衛門ヲ呼寄せ可申旨、被 仰出候付、五郎右衛門・半左衛門・
         |  清兵衛ニ被 仰渡候、つれニ参候事
         |一、岩崎太郎兵衛・堀平左衛門・荒木兵四郎・田中忠介、四人明日江戸へ被遣ニ付、 御前へ被 召
出府ニ付貸米無利 |  出、四人共ニ当御借米利無之ニ被借遣との 御意、奉道倫、其上皮道服壱つ宛被遣候、内忠介斗
子  皮道服賜与 |  とろめん也、
サル 兜羅綿   |

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