久しぶりに「御侍帳・家紋つき」を取り上げます。
■片山寛助の名前は「片山傳四郎家(南東16‐15)」の6代目寛助(傳九郎)である。 家紋は「五つ鐶に左巴紋」
■片山九郎兵衛は「片山一千家(東南17‐21)の7代目か。100石の外、御役料100石ともある。
家紋は「 」
■片岡吉之丞は、「片岡宗善家(南東16-14)」の7代目、「御知行被召上候・文化五年十二月十九日」という記事が残る。 家紋は「糸輪」もしくは「細輪」である。
■片山文寿は代々の医家である「片山三哲家(南東56-9 医)」の7代目、「外様御医師触役」を勤めた「本道」の医師である。家紋は「井筒」
■神谷十兵衛は「神谷矢也家(南東19-2)」の6代目である。
家紋は「 」今一つは「下り藤紋」
■神足(こうたり)格介は青龍寺以来の「神足勘十郎家(南東18-6)」の5代目である。
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔とされ、その家紋は「丸に隅立て井桁紋」であるが、肥後神足氏は嫡家をおもんばかって、「石持隅切り平角、切り抜き丸に隅立て井桁」としている。今一つは「石持隅立て角、切り抜き丸に入れ子菱」である。
■神足又兵衛は同じく青龍寺以来の神足家本家筋である「神足少五郎家(南東18-5)」の6代目左源次(又兵衛)である。
家紋は同上。
■神山忠兵衛は「神山 譲家(南東17-4)」の8代目・又彦(忠兵衛)で菊池郡代、野津原・鶴崎郡代などを勤めた。
家紋は「隅切り平角に桔梗」?
■鎌田軍助は「鎌田 泰家(南東18-8)」の6代目で1,100石取の大身である。
家紋は「抜梃子釘抜」今一つは大変珍しく家紋名はよく判らない。
■鎌田勇は「鎌田源次郎家(南東18-10)」の6代目で、御番方・遠藤関内組 百五十石。
家紋は「三つ輪違いに串」?
■鎌田左一兵衛は「鎌田平十郎家(南東18-9)」の6代目、左一兵衛(新兵衛)で御側御取次 百五十石外百五十石御足。
家紋は「隅立て子持ち角」
■河方宇太夫は「河方九平家(南東19-11)」の8代目・安大夫(宇助)だと思われる。(宇ー安の誤植か?)五百石
文化六年二月~文化十年十月 用人を勤めているが、その祖は従五位下・松下民部少輔述久であり、三代目半四郎から河方を名乗る。
家紋は「丸に松皮菱」
■河喜多
妙見龍王城預
ガラシャ夫人殉死 飯河豊前誅伐仕手・討死
河北石見---+---藤平(石見)--- +--五郎左衛門 ---+--助兵衛 ・・・・・・・・・・・・・・・・ →(列蔵家)
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| | +--勘左衛門 ・・・・・・・・・・・・・・→(助三郎家)
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| | +--角左衛門 ・・・・・・・・・・・・・・→(一二家)
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| +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(和学家)
| (父)石見相果候砌出生仕候 熊本城源之進櫓に名を遺す
| 細川休無忠隆家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出
+--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ →(治部右衛門家)
■河喜多九太夫は【青龍寺以来】「河喜多治部右衛門家(南東18-12」の7代目・九大夫か、御鉄炮廿挺頭六百五十石、
寛政五年正月(三拾挺頭)~寛政十年八月(依願免)鉄炮五十挺頭
家紋は「丸に中柏」及び「一文字紋」である。
■河喜多郡兵衛は同じく【青龍寺以来】「河喜多列蔵家(南東18-13)」の 11代・浅右衛門(郡兵衛)御側御鉄炮十五挺頭・御中老支配 二百石
家紋は「丸に中柏」は一族の共通紋、今一つは「丸に花形釜敷紋」か?。
■河喜多一太夫は【青龍寺以来】「河喜多助三郎家(南東18-14)」6代目・一大夫(藤平)二百石当時百五十石
家紋は「丸に中柏紋」
■河喜多角太夫は【青龍寺以来】「河喜多和学家(南東18-16)」の7代目である。2代・源之進(角太夫)が熊本城に「源之進櫓」の名を遺した。
家紋は「丸に中柏紋」もう一つあって「轡紋」(キリシタン由来か?)
■河喜多角左衛門は【青龍寺以来】「河喜多一二家 (南東18-15)」の5代・式九郎(角左衛門)又は 6代・角助(角左衛門)いずれか断定しがたい。
家紋は「丸に中柏紋」
■河部仙吾は「河部章十郎家(南東17-8)」の 4代目・仙吾で百五十石・内五拾石御足高 学校方御奉行所触・時習館訓導(文政三年・士席以上名録)、いわゆる「河部仙吾事件」の被害者である。
被害者ではあるが事件により時習館訓導を罷免された。
家紋については不詳
■川添傳之允は「河添猛家(南東17-7)」の 5代目・傳之允 御備頭御留守居大頭組御小姓頭支配御奉行触物頭列・薮組
百五十石内五十石御足高 剣術居合師役并組付師役
家紋については不詳
■河田平吉は「河田和気太家(南東16-17)」の養子で5代・平吉(南可愛)
家紋は「丸に違い鷹の羽」