津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■汲み湯

2020-06-08 08:34:56 | 歴史

 寛永五年二月十日から廿四日にかけての「日帳」をみると、忠利は長門国俵山(現俵山温泉)へ人を遣わして湯を汲ませ持ち帰らせている。
これは初めてのことではなく過去においても元和九年・覚書(九月廿日)でも見受けられる。
又、この俵山は当時から知られた温泉場であったらしく、細川家臣たちが病気療養のために出かけたりもしている。

1、寛永五年・日帳(二月十日)

         |  俵山、長門大津郡)
俵山へ汲湯    |一、田原山へくミニ遣、湯参候を、林隠岐ニ渡申候事、

2、寛永五年・日帳(二月十六日)

         |  (俵山、長門大津郡)
俵山ヘノ汲湯ニ湯 |一、田原山ゟくミよせ申たる湯無之由、治ア被申ニ付而、又御鉄炮衆申付、汲ニ遣候、田原山湯別当
別当ヘノ礼物   |                (毛利秀元)
         |  所へ為礼物、樽弐つ持せ遣申候、宰相殿御内三好藤右衛門所迄、冣前申遣、藤右衛門ゟ田原山
         |  へ被申入、くミ取よせ候へ共、左様ニ候ヘハ、湯ニ念入不申由、使ニ参候御鉄炮衆申ニ付、右之
         |  為礼物、くミニ遣申候事、

3、寛永五年・日帳(二月廿四日)

         | (長門、大津郡)                  今日廿四日着申候事、
俵山ヨリノ汲湯  |一、中国俵山ゟ、湯弐斗五升入ノ樽六つ二詰、取よせ申候
         |                     〃〃〃〃〃
         |

(1)の記事によると、長門国の俵山から汲んで持ち帰ったものを林隠岐に渡したとある。
   林隠岐について「於豊前小倉御侍帳」に於いては「留守居組二百石」とある。忠利の側近であろう。

(2)の記事は、お湯が亡くなったので又俵山まで鉄炮衆を派遣し汲みに行くよう命じている。
   長門国主・毛利秀元の家来・三好藤右衛門を通じ、俵山の湯別当に申し入れを仕、滞りなく汲めるように手配している。

(3)2月16日に出発した一行が、2月24日には帰参している。小倉から俵山までは直線距離では50㌔ほどの距離であり8日で往復している。
   2斗5升とは「1斗=18リットル」で換算すると45リットル、これが6個で総量270リットル、中型バスタブ一杯分(満杯)といったところか?
   多分俵山から川を下り長門へ出、舟で小倉城下の船溜まりへと運んだのであろう。片道100㌔ほどの行程か。

 後年忠利は江戸にあっても幕府に申し入れて、温泉療養に出かけることが頻繁にあった。
 この時期はさかんに鷹狩りなどに出かけて健康ぶりが伺えるが、温泉の効用を求める何かの症状があったのかもしれない。
 サルの頭の丸焼き等、少々おぞましいものを薬として取ったりしている。この温泉水は飲用ではなかろうか。
 入浴であればこのような量ではすぐさまなくなってしまう。殿様の生活の一端が伺える興味ある記事である。

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■細川小倉藩(256)寛永五年・日帳(二月廿四日) 

2020-06-08 06:28:50 | 細川小倉藩

                      (寛永五年二月)廿四日 

         |
         |    廿四日
         |
         |      (新潟、蒲原郡)
三斎ヘノ音信   |一、越後のにいかたのさけ弐尺、はこニ入テ御印、
新潟ノ鮭     |
茎漬       |一、くきつけのおけ壱つ、御封めニ御印有之、
         |一、御書箱壱つ、
         |       (様脱)
         |   右は 三斎へ為御音信被進候、生源寺市兵衛与ノ八谷新介、為御使被遣候、御中間の衆弐もたせ
         |   遣候事
         |一、長舟十右衛門・貴田権内方へ、松蔵之儀ニ付、奉行ゟ返状壱つ、右新介ニわたし申候事、
         | (長門、大津郡)             今日廿四日着申候事、
俵山ヨリノ汲湯  |一、中国俵山ゟ、湯弐斗五升入ノ樽六つ二詰、取よせ申候
         |                     〃〃〃〃〃
         |
         |   (烏丸光賢室、三斎女)                                                     御扈従与也「藤」三百石                                                    
烏丸万へ迎船   |一、御万様被成 御下向候時、御迎舟ニ小崎四郎左衛門をのせ可被遣候、各被得其意、内々御船用意
         |  可被仕通、白井兵介・鏡善右衛門所へ差帋遣候事、
         |   (忠尚)
諸方ヘノ書状   |一、大久保六右衛門殿へ御書壱通、
幕府勘定奉行大久 |一、六右衛門尉殿相衆へ御書壱通被進候、先様ニて太兵衛・清兵衛ニ申、可然と存候ハヽ、京都にて
保忠尚へ書状   |  当所仕、可進由ニて、被遣候事、
         |一、小田豊斎へ御書一通、箱ニ入、幷豊斎へ被遣候物ノちうもん一つ、
         |一、大久保六右衛門へ被進候 御書ノ写一通、
当所ナシノ書状  |一、右同人御相衆へ、御知る人も無御座故、当所なしの 御書被進候、先様ニてあて所を仕、可送ノ
         |  由御意之覚書一通、
         |   (秀成)
京都御物奉行へ  |一、佐藤少三郎・黒川甚左衛門・小野九右衛門所へ、飯田才兵衛・永良長兵衛ゟの状、文箱ニ入、内
         |  ニ御書在之由書付有之事、
         |   (盛方院、吉田浄元)    (松井興長)
吉田浄元へ    |一、■■せいはうゐん殿へ、式ア殿ゟ状一通、
         |                            (ゟ)
         |一、佐藤少三郎・小野九右衛門所へ、土佐新太郎・三宅勘三郎所へ之状一通、
         |   右八通、菅江市郎兵衛ニ、今日わたし申候也、
                                 |                                      (浅山)
忠利道徳邸ニ臨ム |一、中津ゟ御飛脚両人にて 御書、 三斎様ゟ被進之候、道徳所へ被成御成候所ニ、修理持参仕候、
         |  則 御返書出申候、我々ゟ中津御奉行衆へ之返事をも調、則御飛脚返申候事、
         |一、菅江市郎兵衛、今朝出船申付候事、
         |     (猪)
         |一、瀬崎伊右衛門、今朝京都ゟ帰着候事、
         |    (猪)       (延俊)
木下延俊ヨリ使者 |一、右伊右衛門、木下右衛門様ゟ拝領被仕候物ノ覚
拝領物ノ覚    |   一、御樽壱つ、 一、塩鯛五つ、一、米三俵、一、御小袖壱つ、
         |
         |  右衛門様御袋様ゟ
         |   一、御樽壱つ、 一、かも弐つ、
         |  右ノ分拝領被仕由也
京都ヨリノ音信  |一、奥の御納戸衆へ、京都ノ状弐通、南畝小兵衛弐相渡候事、
         |一、加藤新兵衛所へ、田中猪兵衛ゟ状一ゆい届候事、
         |一、石本三介所へ、小野九右衛門ゟ一状一包届候事、
         |一、同人へ、京ゟの状一つ相渡候事、
江戸大廻ノ船帰着 |一、江戸大廻之御船頭明石角兵衛、今朝罷戻候、船中・往来共に無事に御座候通被申候事、
江戸ヨリノ積荷  |  右ノ御船頭、江戸ゟつミまハり申候もの
         |   一、古くわ・古なた・すき・らうそく・古くぎ・古もうせん・わたくつ、
         |  右之分つミ来由、被申候事、
         |                          (国遠)
長崎ヨリ沙穀米  |一、長崎ゟさんごへい調来候、此地ゟ被遣御飛脚御戻申由、道倫被申候事、 
続敦行知行ノ百姓 |一、続平右衛門百姓之儀、一人ハ扶申度奉存通、内証にて被得 御諚候ヘハ、平右衛門二被下上ハ、
一名ハ助命    |  いかやうニ成共、仕度様ニ可仕旨、御意にて、存まゝニ相済申通被申候事、
         | 

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