寛永五年二月十日から廿四日にかけての「日帳」をみると、忠利は長門国俵山(現俵山温泉)へ人を遣わして湯を汲ませ持ち帰らせている。
これは初めてのことではなく過去においても元和九年・覚書(九月廿日)でも見受けられる。
又、この俵山は当時から知られた温泉場であったらしく、細川家臣たちが病気療養のために出かけたりもしている。
1、寛永五年・日帳(二月十日)
| (俵山、長門大津郡)
俵山へ汲湯 |一、田原山へくミニ遣、湯参候を、林隠岐ニ渡申候事、
2、寛永五年・日帳(二月十六日)
| (俵山、長門大津郡)
俵山ヘノ汲湯ニ湯 |一、田原山ゟくミよせ申たる湯無之由、治ア被申ニ付而、又御鉄炮衆申付、汲ニ遣候、田原山湯別当
別当ヘノ礼物 | (毛利秀元)
| 所へ為礼物、樽弐つ持せ遣申候、宰相殿御内三好藤右衛門所迄、冣前申遣、藤右衛門ゟ田原山
| へ被申入、くミ取よせ候へ共、左様ニ候ヘハ、湯ニ念入不申由、使ニ参候御鉄炮衆申ニ付、右之
| 為礼物、くミニ遣申候事、
3、寛永五年・日帳(二月廿四日)
| (長門、大津郡) 今日廿四日着申候事、
俵山ヨリノ汲湯 |一、中国俵山ゟ、湯弐斗五升入ノ樽六つ二詰、取よせ申候
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(1)の記事によると、長門国の俵山から汲んで持ち帰ったものを林隠岐に渡したとある。
林隠岐について「於豊前小倉御侍帳」に於いては「留守居組二百石」とある。忠利の側近であろう。
(2)の記事は、お湯が亡くなったので又俵山まで鉄炮衆を派遣し汲みに行くよう命じている。
長門国主・毛利秀元の家来・三好藤右衛門を通じ、俵山の湯別当に申し入れを仕、滞りなく汲めるように手配している。
(3)2月16日に出発した一行が、2月24日には帰参している。小倉から俵山までは直線距離では50㌔ほどの距離であり8日で往復している。
2斗5升とは「1斗=18リットル」で換算すると45リットル、これが6個で総量270リットル、中型バスタブ一杯分(満杯)といったところか?
多分俵山から川を下り長門へ出、舟で小倉城下の船溜まりへと運んだのであろう。片道100㌔ほどの行程か。
後年忠利は江戸にあっても幕府に申し入れて、温泉療養に出かけることが頻繁にあった。
この時期はさかんに鷹狩りなどに出かけて健康ぶりが伺えるが、温泉の効用を求める何かの症状があったのかもしれない。
サルの頭の丸焼き等、少々おぞましいものを薬として取ったりしている。この温泉水は飲用ではなかろうか。
入浴であればこのような量ではすぐさまなくなってしまう。殿様の生活の一端が伺える興味ある記事である。