津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■季節の花・二題

2020-06-06 17:33:36 | 徒然

季節の花二題、
朝顔に似たこの花は「夕顔」、かんぴょうの材料になるでかい実・とうがん(冬瓜)を付ける植物です。
防衛施設局の前の植え込みは、高さ2mほどのつつじが植えこまれていますが、毎年これに巻き付いて沢山の花を付けます。
その季節がやってきました。最初は随分紫の濃い朝顔だなと思ってましたら、冬瓜の花ですよと教えられました。
しかし昨年も冬瓜の実は見ていません。今年は確認してみましょう。

 夕顔

 

もう一つは、ノウゼンカズラ、夏の盛りに暑さも日照りもものともせず濃いオレンジの花を咲かせます。
花園に住んでいたころ、義父から小さな苗木をもらい受け、ヤマモモの木の脇に植えました。
つる性の植物ですから、大きくなってヤマモモに巻き付き高いところで、沢山の見事な花を付けました。
ヤマモモの枝にまきつき、締め上げて枝が枯れたことが有ります。
ヤマモモという木は雌雄二本の木を近くに植えないと実がならないと聞きましたが、全く実がならず、毎年沢山の枝を切り落として処分するのに困る程巨木になりました。
脂分が多く、火をつけるとバチバチと音を立てて威勢良く燃えます。裏庭で良く燃やしたものですが、ご近所には迷惑をかけたなと思っています。そろそろ40年ほど前のことで、このノウゼンカズラの花を見ると、当時のことが思い出されます。

                        ノウゼンカズラ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ガラシャの子殺し・・?

2020-06-06 09:02:56 | 歴史

 昨晩は何気なく、近藤マサ編著「細川ガラシャ夫人」と安廷苑著の「細川ガラシャ」の二冊を拾い読みした。

 近藤は明治二年生まれ、ガラシャが最期を遂げた大坂玉造の細川屋敷の近所で生を受けたそうで、ガラシャに対する思い入は半端ない。
津田塾大学で学んだという才媛である。

この著は当然本人の記事もあるが、ガラシャに関する他人の著や論評、新聞記事などがまとめられている。
その内容は雑多な記事が混合していて、間違いも随分多い。間違いは間違いと承知して掲載されているのかもしれない。
そしてガラシャがその最後に当り我が子を刺殺したという話(言経卿記)が相変わらず散見される。

 安廷苑の著はイエズス会資料を駆使して上梓された優れた論考である。
しかし近藤の著同様、烏丸光賢夫人細川萬の生母をガラシャとするなどの錯誤もある。
それはご丁寧に年表の中にも表れている。同著p182~にある「Ⅲガラシャ没後の細川家」には、一分の史料に見える「ガラシャの子殺し」にふれて是を否定する中で、細川家史料(霜女覚書)にはそのような記事は見つけられず「不自然ではないか」としている。
そして「当時三歳だった、ガラシャの三女の萬も、大坂の屋敷でガラシャと一緒に亡くなってはいない。」とする。

安廷苑はここで大きなミスを犯した。萬の生母はガラシャではなく、明智の老臣・明智次右衛門(光忠)女・小ややである。
 そしてふと「萬」は当時はたしてどこにいたのだろうかと疑問が生じた。
ガラシャは側室やその子等とともに、玉造の屋敷内で起居を共にしていたのだろうか。
そして「萬」には「夭折」した同母兄(千丸)いたことが細川系図に記されていることを思い出した。
(但し系図には慶長三年に夭折したとはあるが・・・)

「言経卿記」が伝える、「ムスコ十二才、同イモト六才」という二人は、ガラシャの子ではない可能性も考えられないか?
例えばそれは実際の話であり、家臣の子であったとは考えられないか、そうであれば霜女の覚書にも登場はしないだろう。

言経はこの情報をガラシャの死の翌日に入手している。情報は錯そうしていたろうし、間違った情報として伝えられたのかもしれない。
男子が敵の手に落ちればその子にどのような運命をたどるのか、計り知れないものがある。
ガラシャが手を下したとは到底考えられないが、いろいろな妄想が頭を駆け巡る。

 この本を読んだことは非常にまずかった。昼間32.4度まで気温があがった昨日の晩は、蒸し暑く寝苦しいものだった。
何やかや考えていてすっかり目がさえ、今朝ほどはすっかり睡眠不足である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(254)寛永五年・日帳(二月十九~廿ニ日) 

2020-06-06 06:32:16 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)十九~廿二日 

         |
         |    十九日
         |
雨天ニヨリ鹿狩中 |一、今日は貫山ニ而鹿狩可被成筈候処、天気悪敷ニ付而、不被成御座候事、
止        |
         |   (忠総当時豊後日田藩
石川忠総へ囚人護 |一、石川主殿殿へ、式ア殿・頼母殿ゟ囚人ひかせ被遣候、とまり/\番之儀、又賄之儀、草臥候は道
送ノ手配     |  中次第之儀、書状遣候事、
小々性扶持方ノ借 |一、深沢百介、御ふち方の借状、御奉行所ニ持せ被越候を、万事御小々姓衆知行之さわけしれ不申ニ
状        |  付而、此中留置候を、豊岡甚丞ニ渡申候事、
小々性ヘノ貸米ノ |一、御小々姓衆ニ、惣別外様衆並之御かし米かし申間敷旨、被 仰出付、則其段甚丞ニ申渡候事、
性源       |
         |   (敦行亀助重政の息・300石
百姓下馬咎ニヨリ |一、続平右衛門百姓下馬とかめ仕、去年ゟ籠者被 仰付候を、今日得 御諚候処ニ、続平右衛門ニ被
入牢   知行主 |  下候、如何様ニも平右衛門次第ニ可仕旨、 御意ニ付、則平右衛門ニ相渡候事、
へ渡ス      |
         |    (景広)                               石見乗栄・当時、弐千五百石 大阪鑓下高名
村上景広死跡ノ家 |一、村上八郎左衛門家ニ、清田七介当分うつり可申候、七介今迄居申候家ハ被為入候由、被成 御
         |  意、則七介ニ申渡候事、
         |
矢山ノ狩ニ猪勢子 |一、矢山入草を、有馬刑ア奉ニ而狩候処ニ、猪壱つせこおち仕候を、猟師打申由にて、小崎與次兵衛
落スルヲ猟師打留 |  ・平井五郎兵衛ゟ持せ被越候、則申上候、左候て、松ノ御丸ニ而とかせ申候事、
ム  松丸ニテ解 |
体セシム     |
         |

         |
         |    廿日
         |
         |    (興相)【青龍寺以来】6,000石
         |一、明朝牧左馬允所へ被成御成候ニ、修理も御相伴之旨、被 仰出候事、
落黒鴨      |一、平井五郎兵衛所ゟ、くろかも壱つ持せ被越候、永野宙兵衛きわニ、死候て居申候を、子とも見付
         |           (友好松井二平次定高四男、当時忠利児小姓500石、後・沢村大学養子となる
見付持参之者へ与 |  申由也、右之鴨、松井宇右衛門取次にて、 御前へ上被申候処ニ、よく上申候、則見付候者ニ被
ウ        |  下候間、いやうりを仕、たへ可申旨、被 仰出、則持来候ものニもとし申候事、
         |一、千手新左衛門・林弥五左衛門、貫山ゟ被罷帰候、弥明後日御狩ニ可被成 御座由、被 仰出通被
         |  申候事
         |  

         |
         |    廿一日
         |
忠利牧興相邸ニ臨 |一、今朝牧左馬允御申被仕候、修理も御相伴ニ被 召連候事、
ム        |
上巳ノ節供ニ不参 |一、宇野七右衛門子喜太郎、今程相煩居申候間、三月節供之御礼ニ罷出儀、成間敷通被申候事、
届        |
松屋某牛ノ玉拝領 |一、松屋九郎兵衛、今朝牛の玉を拝領仕由、被申候事、
         |   (衝友)
谷衝友使者ヲ引見 |一、谷右兵衛殿ゟ御使者被参候、則今晩被成 御対面、御小袖弐つ被遣候、
ス        |
         |                           (規矩郡)
貫山へ猪ヲ追寄ス |一、明日貫山被成御狩候ニ付、方々ゟ猪をおいよせ申候処ニ、矢山にてせこかへり仕候猪を壱つ、猟
猟師勢子返リノ猪 |  師打申由にて、平井五郎兵衛・小崎與次兵衛ゟ申越、持せ被越候、則金子・中神ニ渡申候事、
ヲ打ツ      |
猪ヲ明寰ニ与ウ  |一、右之猪、明寰ニ可遣旨、林隠岐を以被 仰出、則持せ遣候事、
         |

         |
         |    廿ニ日
         |
         |一、江戸ゟ御長柄之衆善左衛門尉罷下候、江戸を去廿二日に立、大坂へ今月九日ニ着仕、大坂を同
         |  十日ニ出船仕候、御鉄炮衆壱人、明石源左衛門与ノ樋田新吉、是も下り申候事、
         |                         
走来ル者ノ人返シ |一、石川淡路・天野刑ア左衛門・石川二郎右衛門所へ走もの、被成御戻儀ニ付、式ア殿・頼母殿状持
         |  せ遣御鉄炮衆戻申候、返事御両人持せ遣候事、
         |            御                            (津民、下毛郡)
         |一、石川主殿殿へ走来ものひかせ候て、式ア殿・頼母殿ゟ被遣候を、津氏ニ而、御惣庄や平右衛門ニ
         |  相渡、御鉄炮衆ハ罷戻申候、此段式ア殿へ御返事申候由、申候事、
         |                 (猪)
忠利貫山ニ猪狩ス |一、今日貫山猪狩ニ被成 御座候、狩四つとれ申候内、ふたつハ 殿様被遊候由風聞候、実正は、晩
         |  程御帰城之刻聞定候て、書付可申候事、
         |

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「ゟ」という文字

2020-06-06 06:10:15 | 徒然

 この「ゟ」という文字、「より」と打ち込めば今では簡単に変換されるが、その機能の歴史は浅いようだ。
史談会にお呼びした講師の方が、古文の文字を解説しながらこの「ゟ」文字に至ったとき、「便利な時代になった、この文字が変換できるようになった」といわれたことを鮮明に思い出す。
」の組合わせ文字だから、「より」と平仮名で書く気持ちで書けばよいのだろうが、なかなか形を作るのが難しい。
又、昔の人は筆順などにこだわらず自由に書いていたところも見受けられる。
宇土藩二代藩主・行考の室・源立院(忠興養女・三)の書跡をみると、第一角は立線から入っている。
そして本来の第一角であろう横一文字が、最後になっている。そして見事な書跡になっている。

                     
この文字の左横に「源立院」とあるから、「源立院より」ということになる。従兄弟である加来宇左衛門にあてた書状の末尾である。

活字化された書跡などでは、古体・異体・略体文字が原文の状態での文字形で印刷されているが、IMEの世界では望むべきもない。変体カナ文字も同様である。
また「異」を表す「己の下に大」とかも、「異」で表示するのがなんとなく嫌で、■表示し「注」を付けている。
一番困るのが地方(方言)文字で「締」を表す「扌偏にメ」があり、これはにも登場しない。やるせない文字ではある。
                    CCI20160308.jpg
しかし思うに、古文書をITで読もうという時代が近づいているなか、こういった活字も整備されるのではないかという密かなる思いがある。
爺さまの元気なうちに、これらの事の成就を願うばかりである。



                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする