津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 34(原文40分)

2020-06-23 15:44:24 | 史料

40         出シ石ニて被打可申と斗申候由申候 是も
          権兵衛語申候事
         一上使衆伊豆殿・左門殿・十蔵殿ハ今度之
          大将分ニて御座候 其外之衆ハ御寄衆をわ
          け請取御横目ニ御付候 肥後様ヘハばゝ三郎右衛門との
          なべしま殿ヘハ榊原飛騨殿 黒田右衛門佐殿
          寺沢兵庫殿御両人ヘハ林丹波殿 立花殿
          玄蕃殿・松倉殿三人ヘハ牧野傳蔵殿御付候
          松平甚三郎殿ハ手を御おいしニ付何方へも
          無御座候事
         一昨日之御請ニ石谷十蔵殿御働ゟさき
                 由の間違いか
          伊藤十丞城へ申上候 左様にてハ無御
          座候 十丞ゟ先に石谷十蔵殿手勢百斗
                  
          しまつさきニ立御候而御手負候由申候 御
          手もうす手ニて御座候由申候 中/\御はた
          らき見事ニ御座候由申候 松山権兵衛其ばニ
          居申ニ付語申候 十丞も殊外見事ニ御座候由候事
         一薩广殿御人数ハ天草を請取山をかり申也

 

                   
                         
          

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■宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑 

2020-06-23 08:30:08 | 歴史

  以下の写真は、小倉葡萄酒研究会の小川研次氏からお送りいただいたものである。
宇佐郡大字山の貴船神社(現・宇佐市大字山376番地)にあるという、阿部弥一右衛門関係の墳墓群である。
弥一右衛門の墓碑(右)の横にやや小さい墓碑があるが、これは同じく細川忠利に殉死した右田因幡の墓碑であるという。
細川家が肥後54万石の太守となり、豊前を離れたのは寛永9年の暮れである。
そして、天草島原の乱という大危機を乗り越えた忠利であったが、寛永18年2月病に倒れ幽冥を異にした。
阿部一族の非業な最期は、熊本に於いてはその墓地さえ定かではない。(御船の東禅寺のお墓は最近否定されている)
熊本に在る事9年余、阿部氏にとって父祖の地豊前にこのように一族とともに祀られて安住の場所を得たということであろう。
右田因幡については、弥一右衛門との関係は伺い知れないが、隣同士に配されている所を見ると、なにかしら近しい関係も考えられる。
このたび小川氏のご厚意により墓碑の存在を知った処だが、このような写真の提供を給わりここに改めて御礼申し上げる。

             

               右・ 阿部弥一右衛門の墓碑
                   左・ 右田因幡統安のものと伝わる墓碑「咄宗誉浄休信士」 


                                   
 
             阿部弥一右衛門墓碑銘                       阿部氏関係墓群               

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■細川小倉藩(271)寛永五年・日帳(三月廿二日)

2020-06-23 06:44:16 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正三月)廿ニ日 

         |
         |    廿二日
         |
         |          (栗)
         |一、中西善介、相番粟野二右衛門当分相煩申候ニ付、めしかわり無之、何共めいわく仕由被申ニ付、
         |  二右衛門快気仕迄、中川四左衛門申付候事、
鮒鮨大坂ゟ下ル  |一、大坂ゟ、鮒之鮨三桶下候、御台所へ相渡、切手取、御船頭宇高久右衛門ニ相渡候事、但、此中下
         |  申ふなノすし也、
         |大坂を十三日ニ出船申候、
大坂ヨリノ積荷  |一、御船頭宮崎孫左衛門、大坂ゟ積下候物数
物数       |  一、御銀子二箱下申候、
         |     (延俊)
         |  一、木下右衛門様ゟ之 御状一つ、
         |                  (秀成)
         |  一、菊野伊織・生嶋平三郎所へ、生嶋玄蕃ゟ之状一つ、
         |    (長岡孝之)
         |  一、休斎様へ、山田将監ゟ之状一つ、杉本左介持参被仕候、
 奥ノ納戸役人  |  一、奥ノ御納戸衆へ、京ノ三人ゟノ状一つ、
 口ノ納戸役人  |  一、口ノ御納戸衆へ、右三人ゟノ状壱つ、
         |  一、坂崎左・永良兵、京ノ三人ゟノ状一つ、
         |  一、続平右・熊九郎兵へ、右ノ三人ゟノ状壱つ、
         |           (小野) (佐藤秀成)  
         |  一、大塚長庵へ、九右衛門・少三郎ゟノ状壱つ、
         |  一、式ア殿内井上弥二右衛門所へ、山田将監ゟノ状壱つ、
         |  一、言上状壱つ、寺尾左介・牧丞大夫ノ壱つ被上候事、
         |  右、何もそれ/\へ渡申候事、
釜風呂鋳造ノ奉行 |一、高並昨左衛門、かまぶろ被成御鋳せ奉行申付候事、
松屋九郎兵衛   |一、松や九郎兵衛京ノ宿ゟ、九郎兵衛ニちいさき箱壱つ、むしろつゝミニして下在之を、式ア殿御覧
         |  候つる、然所、式ア殿ゟ忠兵衛と申仁を使ニ而、被仰聞候ハ、さきほとの九郎兵衛所へ参候箱、
         |  此方ゟ届可申候間、忠兵衛ニ可相渡由ニ付、渡遣申候事、
         |

 

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