津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(278)寛永五年・日帳(四月九日~十日)

2020-06-30 14:11:19 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正四月)九日~十日 

         |
         |    九日         
         |                           (菊野)
         |一、阿部主殿ものニ、御飛脚一人付、石見へ可遣由、一昨日伊織助方ゟ被申越ニ付、御船ニて被遣候
         |  哉、又便船ニ而被遣候哉、如何可申付哉と、塩津三人を以、伊織方へ相尋候ヘハ、主殿もの次第
         |  ニ可仕候、いかよう共被 仰付無之由、被申ニ付、御小人壱人、主殿もの引合申候事、
龍王ノ石川里兵衛 |一、宇佐郡龍王ニ居候石川里兵衛ニ、今日ゟ十人ふち被遣候、則 御印出申候を、里兵衛ニ頂戴さ
ニ十人扶持ヲ給ス |  せ、豊岡甚丞へ 御印渡申候事、
入牢ノ弥へ投薬 |一、下毛郡ノ弥薬を、北村作雲薬を取ニ遣、則御籠へ持せ遣候事、
大工新兵衛子初見 |一、大工新兵衛子千徳、今日 御目見え仕候事、
中津ニテ演能ニツ |一、今度中津ニ而御能御座候ニ付、御折廿被進之候、此御奉行ニ、吉谷平太夫・速水長三郎両人申
キ折ヲ進上ス   |  付、加々山主馬方へ引渡申候事、
三斎ト継飛脚ノ往 |一、三斎様ゟ次飛脚にて、御書被進之候、則 御返書出申、次飛脚にて、持せ遣申候事、
返        |

         |
         |    十日         
         |
         |    (長元)
小笠原長元忠利ノ |一、小笠原備前殿、去年被仰請候 御袖判請届戻上可申との、備前殿請状ニ、我々裏判有之を、御袖
袖判ヲ請戻シ上ゲ |                    〃
御印ノ段     |  判請届戻上、則 御前ゟ被成御出シ候をうけ取、 御印之段ニ入置候也、 御袖判御やふり被成
忠利袖判ヲ破ル  |    〃
         |  候をも、同前ニ入置候也、
走リシ小者ノ取替 |一、岩男嘉入小者、去年江戸にて走申候、就夫、かの請人ニ御乗物かきノ内立申候、右小者取替米之
米ノ返弁済サズ  |  儀ニ付、去年江戸以来、嘉入ゟ御乗物かきの頭衆へ色々理申候へ共、于今埒明不申候間、竹原小
請人乗物舁へ弁済 |  太夫ニ如請状、急度可被申付通申渡候、御国之御法度之儀ニ候間、左様ニ無之候ヘハ、さたのか
ヲ命ズ 国ノ法度 |  きりにて候間、可申上通申渡候事、
         |一、門川阿心被罷下候事、
鍋島勝茂へ端午ノ |一、肥前へ端午之御帷持参仕、歩之御小性松岡九太夫也、
祝儀ノ帷子    |
在郷ヘノ賜暇願  |一、宇野五郎左衛門儀、十四五日ノ逗留ニ在郷へ参度由被申候、可被参由、申渡候事、
忠利ノ陣鎌ノ鞘小 |一、御陣かまの■さや壱つ、白井兵介所ゟ持せ差上、御小早之内を御掃除申付候処ニ、御小早之内ニ
早ニ遺留     |                                 さや
         |  御座候由にて、差上被申候、則皆川治ア丞を以差上申候、 殿様之御かまにて有之由、治ア被申
         |  候事、
         |

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■女優・鶴田真由のご先祖様

2020-06-30 07:35:31 | 歴史

 NHK「ファミリ― ヒストリー」の前宣伝で、女優・鶴田真由のご先祖様が「新選組」の隊員だったとのことで、昨日の本放送を拝見した。
父方は臼杵藩で遠見番を勤める侍だったらしい。藩の機密事項を知り殺されたというが詳細は不明だそうな。
二人の男子は出奔、別府へ出てのちには網元となり成功し、代が変わると旅館業で成功し地元の有力者となったらしい。

母方のご先祖様に桑名藩の公用人を勤めた森弥一右衛門(陳明=つらあき)が後に函館新選組に加わつたという。
公用人時代の京都での活躍を示す資料が一瞬画面に見えて、思わず「あっ」と声をあげてしまった。
高祖父・上田久兵衛が京都留守居時代、各藩の留守居や公用人が一堂に会して宴を張っている図である。

    

 一瞬のことで定かではないが、左の方に二人立っているどちらかが弥一右衛門である。(左の白羽織の人)
久兵衛はというと右のほうに裸で立っている肥満の男がそうである。これには驚いてしまった。
久兵衛は公武合体派の会津・桑名藩との接触は日常茶飯のことであったらしく、彼の伝記ともいえる宮地正人編の「幕末京都の政局と朝廷」をみると、弥一右衛門の名前が日記の記載や書簡のやり取りなど、人名索引に56回も登場している。
弥一右衛門は捕えられ投獄されると、藩主に罪が及ばぬよう一身に罪を受け処刑された。
嫡男は森姓を名乗るのを憚り「若槻」を名乗ったという。その子は三木太郎と名付けられているが、森の姓を想い「三木(森)太郎」としたのだという。
この人が吉村家の養子となりその孫が真由さんの母親である。父方・母方とも波乱万丈の幕末・明治期を過ごされている。
しかしそんな境遇に立ち向かい夫々が凛とした生き方をされ、真由さんに結実しているように思える。

 上記の絵のどちらの人物が弥一右衛門であったのかを確かめるため、再放送を見てみようと思っている。
幕末・明治の回天期、心ならずもともに罪を得て死んだ弥一右衛門や上田久兵衛の霊安かれと願うばかりである。

               

~ 
         
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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(43)

2020-06-30 06:24:26 | 史料

       

                                  

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