先日何気なくTVのスイッチを入れたら、末次慎吾選手が子供たちに走り方を教えていた。
10秒03という記録は17年も前の話だ。彼は「なんば走り」と表現する独特の走法で当時話題になった。(実際はなんばではない)
日頃の成績が芳しくないこのチームが、スタートや走り方、バトンの渡し方等を教えられ、子供たちの目が輝いて見える。
後日の大会では10数チームの出場の中で2位という記録を出し、歓びと共に子供たちの自信につながったろうし、コーチングのすばらしさを痛感させられた。もっとも「なんば走り」ではなかったが。
「なんば」とは右手と右足が同時に動くというものだが、馬で言うと右(左)の前足・後ろ足が同時に動く「側対歩」というやつだ。飛脚は「なんば」で走っていたとかウイキペディアは紹介している。
「側対歩」は日本古来の馬の乗り方で、右前足・右後足を同時に動かすから、上下動が少なく、現在でも「流鏑馬」は「側対歩」で走っているそうだ。
現在では一般的な馬の「斜対歩」だと的は定まらないし、またずれがひどいと弓道教士の知人から聞いたこともある。
そして日本における騎馬戦では、馬を体当たりさせたり、相手の鐙を蹴上げて転倒させたり、これも「側対歩」だからできたと聞いた。
現在は馬のほとんどが外国種だから、「側対歩」の習得は大変だろう。
もうずいぶん「流鏑馬」も見たことがないが、機会を得て「側対歩」で走っているか確認したいものだ。
日帳(寛永五年九月)十六日
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| 十六日
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忠利北ノ丸ニアリ |一、今日は未明ゟ、北之御丸へ被成 御座候事、 (灘)
中津ノ重太夫等捨 |一、寛永三年三月ニ、中津堀川長三郎舟、御米百六十石つミ、江戸へ大廻仕候処ニ、遠江なたにて大
リ米借米上納請状 | (舵)
案 船配当ニ | 風ニ相、かちををらし候、右之御米之内、六十石余すたり申候、舟も配当ニ成可申儀ニて御座候
ナルヲ赦ス | 処ニ、被成御赦免、舟を被下候、其上江戸にて、飯米として、五石弐升四九合七夕四才かし被下
| 〃
| 候、内弐石四斗ハ伊豆ノかふらゟ江戸迄御米仕廻申間、船頭・加子八人飯米として免シ被下候、
| 弥忝奉存候、然上ハ、〆而弐石六斗弐升九合七夕四才、今月中ニ元分にて急度上納可仕候、若滞
| 申候ハヽ、請人かミや太郎右衛門ゟ上納可仕所、如件
| 中津
| 寛永五年八月八日 重太夫
| 同
| 惣 八
| 同
| 八左衛門
| 同
| 喜右衛門
| 白井 兵介殿 右ノ請人かミや
| 鏡善右衛門殿 太郎右衛門
| 浅山修理殿
| 田中兵庫殿
借米上納セシ故請 | 右のことく、請状をさせ置候へ共、御米無滞上納仕候間、請状戻申候、中津之堀川仁兵衛と申も
状を返ス | の米上納仕候間、請状をも甚兵衛ニ戻申候也、
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請状請取 | 右之請状、我等慥ニ請取申候、 中津堀川
| 甚兵衛(花押)
| (天)
松井興長ノ天守ニ |一、式ア少殿御茶つほ壱つ、御殿守ゟ差下候、御門口へ三助参理候事、返事、
置キシ茶壷ヲ返ス |
| (破)
灘小早ノ金物ノ奉 |一、御灘小早かな物奉行ニ不波角丞与吉川十兵衛ヲ申付事、
行 |
|一、松本彦進・椋梨半兵衛登城ニ而、被申候ハ、御買物被 仰付候処、万事之御買物持せ申もの無御
| 座候間、左様之もの被成御付被下候様ニと、被申候間、御長柄衆壱人先付遣申候、左候て、不入
| 物ニ候ハヽ、もとし可被申通、申渡候事、
| (之房) (小河之直)小河信章女婿
黒田家老井上之房 |一、式ア少殿・頼母殿ゟ、以両氏被仰越候ハ、明日筑前へ井上周防・小川内蔵丞所へ文箱を持せ遣
小河之直へ文箱持 | 候間、御鉄炮衆之内、慥成仁を両人被仰付、晩程、式ア所迄被下候様ニと、被仰越候、得其意存
参 | 候、則申付進之由、返事申候事、
築城郡ノ棕櫚ノ移 |一、築城郡へ、しゆろ掘せニ遣候御鉄炮衆牧丞太夫与村上久次罷帰候而、申候ハ、上林甚介申候も、
植 | しゅろほり仕廻申候、舟ニつミ被申候へと、御船頭衆へ申候へ共、未つミ不申候、就夫、甚介も
運漕 | 与ともニ未逗留仕候、つミ仕廻次第可帰通、申越候由申候、甚介与ノ外ニ、跡ゟ被遣候御鉄炮
| 衆、小頭とも廿人罷帰候、
知行所へ免定ニ赴 |一、永良長兵衛・遠坂越後・竹内吉兵衛・佐分利作左衛門知行所へ免定ニ参度由ニて、御暇被申上処
クヲ許サル | ニ、参候へと被 仰出、明日知行/\へ被参候事、