津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■海老原さんの「泰勝寺」

2020-09-02 17:34:19 | 徒然

         

 最近ヤフオクで手に入れた、「泰勝寺<ガラシャ夫人の墓と仰松奄>海老原喜之助」と名付けられた絵葉書である。
新品に近い品物だが、表には<熊本日日新聞社選定新熊本25景のうち>とある。
海老原氏は熊本には馴染みふかい方だが、1970年没であるがそれ以前の品物だろうか。
そうだとすると50年前のものであり、このように状態が良いものは大変珍しいだろう。

<熊本日日新聞社選定新熊本25景のうち>とあるから、いつごろのものか、ほかの24景がどのようなものなのか、ググってみたが良くわからない。
熊日さんの「新聞博物館」にでも行かずばなるまいか?

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■人の歩き方・馬の歩き方

2020-09-02 11:05:39 | 徒然

 先日何気なくTVのスイッチを入れたら、末次慎吾選手が子供たちに走り方を教えていた。
10秒03という記録は17年も前の話だ。彼は「なんば走り」と表現する独特の走法で当時話題になった。(実際はなんばではない)
日頃の成績が芳しくないこのチームが、スタートや走り方、バトンの渡し方等を教えられ、子供たちの目が輝いて見える。
後日の大会では10数チームの出場の中で2位という記録を出し、歓びと共に子供たちの自信につながったろうし、コーチングのすばらしさを痛感させられた。もっとも「なんば走り」ではなかったが。

 「なんば」とは右手と右足が同時に動くというものだが、馬で言うと右(左)の前足・後ろ足が同時に動く「側対歩」というやつだ。飛脚は「なんば」で走っていたとかウイキペディアは紹介している。
「側対歩」は日本古来の馬の乗り方で、右前足・右後足を同時に動かすから、上下動が少なく、現在でも「流鏑馬」は「側対歩」で走っているそうだ。
現在では一般的な馬の「斜対歩」だと的は定まらないし、またずれがひどいと弓道教士の知人から聞いたこともある。
そして日本における騎馬戦では、馬を体当たりさせたり、相手の鐙を蹴上げて転倒させたり、これも「側対歩」だからできたと聞いた。
現在は馬のほとんどが外国種だから、「側対歩」の習得は大変だろう。


 もうずいぶん「流鏑馬」も見たことがないが、機会を得て「側対歩」で走っているか確認したいものだ。

 

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■細川小倉藩(336 )寛永五年・日帳(九月十六日)

2020-09-02 06:43:24 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)十六日


         |          
         |   十六日
         |
忠利北ノ丸ニアリ |一、今日は未明ゟ、北之御丸へ被成 御座候事、                  (灘)
中津ノ重太夫等捨 |一、寛永三年三月ニ、中津堀川長三郎舟、御米百六十石つミ、江戸へ大廻仕候処ニ、遠江なたにて大
リ米借米上納請状 |      (舵)  
案   船配当ニ |  風ニ相、かちををらし候、右之御米之内、六十石余すたり申候、舟も配当ニ成可申儀ニて御座候
ナルヲ赦ス    |  処ニ、被成御赦免、舟を被下候、其上江戸にて、飯米として、五石弐升四九合七夕四才かし被下
         |                                  〃
         |  候、内弐石四斗ハ伊豆ノかふらゟ江戸迄御米仕廻申間、船頭・加子八人飯米として免シ被下候、
         |  弥忝奉存候、然上ハ、〆而弐石六斗弐升九合七夕四才、今月中ニ元分にて急度上納可仕候、若滞        
         |  申候ハヽ、請人かミや太郎右衛門ゟ上納可仕所、如件
         |                               中津
         |    寛永五年八月八日                    重太夫
         |                               
         |                                惣 八
         |                               
         |                                八左衛門
         |                               
         |                                喜右衛門
         |            白井 兵介殿          右ノ請人かミや
         |            鏡善右衛門殿              太郎右衛門
         |    浅山修理殿
         |    田中兵庫殿
借米上納セシ故請 |  右のことく、請状をさせ置候へ共、御米無滞上納仕候間、請状戻申候、中津之堀川仁兵衛と申も
状を返ス     |  の米上納仕候間、請状をも甚兵衛ニ戻申候也、
         |
請状請取     |      右之請状、我等慥ニ請取申候、          中津堀川
         |                                甚兵衛(花押)
         |               (天)
松井興長ノ天守ニ |一、式ア少殿御茶つほ壱つ、御殿守ゟ差下候、御門口へ三助参理候事、返事、
置キシ茶壷ヲ返ス |
         |              (破)
灘小早ノ金物ノ奉 |一、御灘小早かな物奉行ニ不波角丞与吉川十兵衛ヲ申付事、
行        |
         |一、松本彦進・椋梨半兵衛登城ニ而、被申候ハ、御買物被 仰付候処、万事之御買物持せ申もの無御
         |  座候間、左様之もの被成御付被下候様ニと、被申候間、御長柄衆壱人先付遣申候、左候て、不入
         |  物ニ候ハヽ、もとし可被申通、申渡候事、
         |                                                                                                  (之房)  (小河之直)小河信章女婿
黒田家老井上之房 |一、式ア少殿・頼母殿ゟ、以両氏被仰越候ハ、明日筑前へ井上周防・小川内蔵丞所へ文箱を持せ遣
小河之直へ文箱持 |  候間、御鉄炮衆之内、慥成仁を両人被仰付、晩程、式ア所迄被下候様ニと、被仰越候、得其意存
参        |  候、則申付進之由、返事申候事、
築城郡ノ棕櫚ノ移 |一、築城郡へ、しゆろ掘せニ遣候御鉄炮衆牧丞太夫与村上久次罷帰候而、申候ハ、上林甚介申候も、
植        |  しゅろほり仕廻申候、舟ニつミ被申候へと、御船頭衆へ申候へ共、未つミ不申候、就夫、甚介も
運漕       |  与ともニ未逗留仕候、つミ仕廻次第可帰通、申越候由申候、甚介与ノ外ニ、跡ゟ被遣候御鉄炮
         |  衆、小頭とも廿人罷帰候、
知行所へ免定ニ赴 |一、永良長兵衛・遠坂越後・竹内吉兵衛・佐分利作左衛門知行所へ免定ニ参度由ニて、御暇被申上処
クヲ許サル    |  ニ、参候へと被 仰出、明日知行/\へ被参候事、

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