津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(355)寛永六年・日帳(一月八日~十日)

2020-09-23 15:06:32 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)八日~十日 

         |       
         |     八日  安東九兵衛 
         |
         |   (吉重)            (伊方村ヵ)(慈ヵ)
慈光寺使僧年賀ニ |一、沢村大学殿ゟ御使、田川いげたの寺光院御礼ノため罷出候由、御使にて候、則御本丸へ登城被仕
登城ス      |  候而、当御番之衆二相■被申、引付ニ付被申候へ之由返事候事、
         |            〃
松井興長知行所ノ |一、式ア少殿ゟ御使、式ア少殿御知行之内ニ居申候出家衆、今朝御礼ニ参候由ニ而、礼銭銘々持参
僧等年賀ニ礼銭ヲ |  候、則御本丸へ被参候而、引付ニ被付候へ之由、申渡候事、
上グ       |
         | (長岡孝之)
長岡孝之忠利ヘノ |一、休斎様ゟ、片岡加左衛門御使ニ登城被仕候、江戸便御座候ハヽ御知せ候へ、 忠利様へ御状被進
書状ヲ託サントス |  度之由ニ付、則明日御飛脚参申候間、御状ことつて可被成之由、御返事申上候事、
         |                                  
宇佐ノ上蔵坊年貢 |一、宇佐の上蔵坊、御嘉例之御札幷弐〇疋持参、則後本丸御番衆へ被相渡候へと、申渡候也、
宇佐ノ宮成縫殿年 |一、宇佐宮成縫殿、御礼ニ罷出、後本丸へ罷上り、御帳ニ付申たる由被申、松ノ御丸へ被参、被申候
賀ニ登城シ嘉例ノ |  ハ、御嘉例のことく心経会の御馬可被遣通、被申候事、
心経会料ノ馬ヲ乞 |
ウ        |
         |           (宇佐郡、祐専)
光尚ノ祈祷札ヲ永 |一、御六様御祈祷之御札、永勝院ゟ使僧にて被差上候、便次第江戸へ可上者也、後本丸へ参、御引付
勝院ヨリ上グ   |  ニも付申由被申候事、
宇佐ノ江嶋宮内家 |一、宇佐江嶋宮内、御家老中へ御礼ニ参候由にて、松ノ御丸へ登城被仕事、
老等へ年賀ニ松丸 |
ニ登城ス     |
         |一、神西長五郎・竹内八兵衛、両人登城ニ而被申候ハ、今迄之御役儀、不破平大夫ニ引渡相済申由、
         |  被申候事、

         |       
         |     九日  加来次郎兵衛 
         |
宇佐心経会ニ料馬 |一、頼母殿ゟ、使者ニ而被仰聞候ハ、うさ心経会御神叓ニ馬を遣候様ニと被仰触候、併、旧冬繁昌仕
ヲ上グベシ    |  候、此以上ハ有間敷哉と、真乗坊ニ御尋被成候ヘハ、如此真乗坊ゟ書付給候由にて御上候、則写
         |  置候、
宇佐ノ真乗坊書状 |   宇佐宮心経会就 御神叓、御馬被進候由被仰下候、御手前御繁昌之けかれ■無之候、年内御や
案有吉英貴宛   |   しきにて廿七八日之比、ふミ合ノけかれ卅日にて御座候間、御馬出候儀ハ罷成間敷候と存候、
         |   以上
         |     正月九日                         真乗坊
         |     頼母様
         |        
         |   (元五)
薬師坊病ニツキ年 |一、志水伯耆守殿ゟ御使にて被仰聞候ハ、中津広津村薬師坊主長悦相煩候而、年頭之御礼ニ不罷出候
賀欠礼届  礼銭 |  間、右之趣可然様ニ、御奉行所へ被仰達候而可被下之由にて、礼銭持せ、使指越候由にて、伯耆
         |  殿使礼銭持参仕候、則御本丸へ参候而、引付ニ被付候由申渡、遣候事、
木忠年賀欠礼届  |一、金津助二郎登城にて被申候ハ、鯛瀬九郎太母十二月廿七日ニ病死仕ニ付、年頭之御礼ニ不罷上
         |  由、被申候事

         |       
         |     十日  安東九兵衛 
         |
         |  (塩飽屋)
小倉町水夫ノ賃飯 |一、しわくや伝次・大こくや長左衛門登城仕候而、当町水夫之儀申候ハ、請人も無御座、賃飯米も不
米ニツキ申分   |  究候間、色々水夫共申由申候間、此方ゟ申候ハ、当町ニ居申、何かと色々申候ヲ、右両人取上ヶ
ソノ対策     |  何角申候ハヽ、壱人も不出置候へ、浦々ゟやとい上せ可申候由申候処ニ、又両人申候ハ、賃飯    
         |  米も追而定可申候、人数も御座候間、御事かけ不申様ニ仕置可申由候て、請相罷下り候事、

 

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■熊本の茶道事情

2020-09-23 07:19:05 | 徒然

 「西遊日記・肥後見聞録」の著者・桃節山は松江の人である。藩命を受けて熊本城下に入っている。
松江候が「親藩並外様」ともいうべき細川家に対し、特別の親しみを以て節山を派遣し、藩政や学校、武備などに大いなる興味を以て見聞せしめている。
又、熊本をベースとして、阿蘇や長崎に足を延ばしている。
節山のこの見聞録から、、地元ではうかがい知れない当時の熊本の事情が見て取れることは貴重である。


 松江は松平不昧公によって育まれた茶道の文化が現在も受け継がれている。
流派を超え、所作などにとらわれず、御茶に親しむ風習が町中に色濃く残されている。

そんな松江人・桃節山がみた熊本の茶道事情は、「肥後古流」という茶道が熊本の地に活着しないどころか、衰退の状況にある現状を知らせているように思える。

「細川家は三齋公御流儀之茶法も有之ニ付、茶事ハ盛ニ行ハれ候事と奉存罷在候處、更ニ左ハ見へ不申、茶を點する法を知候者無之、勿論御家中ニ茶室之ある處ハ一度も見當り不申、又薄茶ニ出合候事も無之。依而藩士共ハ相尋候處、相答候ハ、成程家流之茶法と申もの有之趣ニ承り候得共、家中ニ心得居候者先ハ無之、茶道方ニハ承知仕候容子ニ御座候。兼て承り居候ニ三齋公之御小性或時茶事を學ひ度包含候得ハ、公之仰ニ、其方之如き婦女子之様なる手ニ而茶を立るものニハ無之と御教訓有之由、右ハ武士たる者ハ手之見苦敷なる迄ニ武事相勵ミ、餘り剛毅氣ニ早り粗暴ニなる位之處を茶事ニ而聊氣を柔け、又坐作進退之法をも少しハ心得候様との御主意ニ而、此意ハ毎々御側之者へお物語も有之候趣申傳居候。左候得は今之大平ニなまけ切たる者茶事を學候ハ、三齋公之御主意ニもとり候儀故、茶法ハ只茶道方ニ存し候のみにて、家中には心得候もの無之候(以下略)」

 私も10数年「肥後古流」の茶道を稽古した。
利休流そのままの点前だと茶道研究家の磯野風船子氏が指摘されたように、茶道草創期の形が、何ら変えられることなく今日にタイムスリップしている。

私は細川家中のサムライたちが、茶道を通じて歓談する様などを想像してきたが、まったくそれは否定されてしまった。
まさに熊本の茶道は、一部特権階級の優越感の中でのみ存在していた。

明治の御一新以降細川家のしばりから離れて、三家家元(古市・古田・小堀)の努力と、有志の方々により伝えられてきた。
古田家は門を閉じられた。古市流を継承した武田家と小堀家二家が遺されている。

茶道に限らず将来が案じられる熊本古来の文化芸術が多く見受けられる。
松江のように古い文化を当たり前のように感じ存在する、そんな熊本になってほしいと熱望する。

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