津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(361)寛永六年・日帳(二月朔日~五日)

2020-09-29 13:10:58 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年二月)朔日~五日                 

         |       
         |     朔日  石本三郎
         |

穢明       |一、正源寺市兵衛、今日穢明申候由候て、登城被仕候事、

         |       
         |     二日  安東九兵衛
         |

         |       築城・上毛郡ノ御横メ
郡横目村上理兵衛 |一、上野三太夫登城にて被申候は、拙者相奉行村上理兵衛正月六日ニ病死仕候由、被申候事、
病死       |
         |  (松井興長)     (山本)               (小笠原長元)
又者を役者ニ召置 |一、式ア少輔殿ゟ、源太夫御使にて被仰越候は、備前殿内藤兵衛せかれ福西喜三郎儀、 殿様へ御役
ク        |  者ニ被召置候、左候ヘハ、彼者切米拾五石可被遣旨、被仰出候由承候、然処ニ、切米を月引ニ
切米ノ渡方    |  〆可渡由、御切米奉行被申由にて、喜三郎迷惑仕候間、各へ申理、給候へと、備前殿ゟ被仰候、
         |  定而 御諚之ことく、少も相違有間敷候へ共、若成申儀候ハヽ可然由候、彼者奉公仕儀は、去々
         |                                〃
         |  年ゟ仕候由申候、左様ニ候ヘハ、拾五石ハ少も引申間敷被存候よし被仰候、此方ゟ申候は、去々
         |  年ゟ 御目見仕候へとも、御切米可被遣との日限より渡り申由御定法にて御座候間、御切米奉
         |                             〃
         |  行ゟ引可申と存候事、
         |                                        (村上景則)
母ノ見舞等ノ届  |一、椋梨半兵衛登城にて被申候は、田川郡ニ我等母居申候間、見廻参度候、それゟ中津河内所へ参儀
         |  も可有御座候間、左様ニ御心得候而可被下之由、申候事、
鯨突ハ備後ノ者  |一、今度鯨つき申りやうしハ備後之者ニて候、人数拾三人に而つき、門司ノ田ノ浦へ上り、庄や所ニ
         |  やと仕候由、高浜茂兵衛申候事、
         |一、門司勘左衛門相奉行田谷作兵衛と申候由ニて同道仕、登城仕候事、
田辺作右衛門ニ鶴 |一、田辺作右衛門尉ニ靏打候へ之由、申付候而、加藤新兵衛・金子喜左衛門手前ゟ 御印渡させ候事、
打ノ免許     |

         |       
         |     三日  加来二郎兵衛
         |

千手新左衛門へ鶴 |一、千手新左衛門ニ靏打可被由申渡、金子方ゟ 御印渡し被申候事、
打ノ免許     |
         |  (相定)          (同助次)
         |一、牧猪助登城にて被申候は、昨日親知行所ゟ罷帰候由、被申候事、

         |       
         |     四日  石本三介
         |

曽根源兵衛へ鶴打 |一、曽根源兵衛へ御郡夫遣、靏打申儀心かけ、打可申通申遣事、畏存候通、返事申越事、
ノ命       |
         |          (ママ)
鯨ノ奉行     |一、中津ゟ、くしら被召連御奉行ニ被参衆〇弥兵衛・〇弥次右衛門、両人やと東小倉鉄や喜兵衛所申
         |  付候也、

         |       
         |     五日  安東九兵衛
         |

         | (長沢顕長室、沼田延清女)
伊与ノ上方ヘノ音 |一、いよとのゟ、上かたへ御上せ候こも包弐つ、役者衆乗上り申御船頭河野五太夫に渡、同いよとの
信        |  内五八所ゟ寺嶋主水内儀へ遣候文壱つ、同前ニ渡候事、
能役者残ラズ江戸 |一、江戸へ明日御役者衆不残上せ申候、併、山崎加平次ハ此中中津御能弐被 召寄、中津ニ而さん
へ上ス      |  /\煩付、明日不罷上由、十太夫登城ニ而被申候、煩快気次第ニ上せ可申候間、すいふん養生可
         |  被仕由申候事、
         |  
能役者道中遣銀駄 |一、西喜三郎江戸道中遣銀・たちん銀、何も御役者衆なミニ可被遣哉と、惣積方ゟ被申候、御役者ニ
賃銀       |  被 召置儀候間、何もなミニ可被相渡由、申渡候事、
役者並ヲ望ム   |一、中山金右衛門申候ハ、此已然は歩之御小性なミニ同中銀被下候、去年御役者衆なミニ被成被下
         |  候儀ニと、書物を以申上候処ニ、御役者衆同前ニ可被召加由、被 仰出候、然上ハ、何もなミニ
         |  遣銀旁被仰付可被下由、被申候、尤御役者衆ニハ被召加候へ共、遣銀・たちん銀ハ下ニ而渡候儀
         |  不相成候間、先如先例ニして可被参候、さ候ハヽ、其通を江戸御奉行衆へ書状可遣由、申渡候
         |  事、金右衛門申候ハ、左様ニ候ハヽ、御銀子を被借下候ハヽ、何もなミニ江戸へ参、又御状をそ
         |  へ被下候ハヽ、立 御耳、埒明か申由申候ニ付、豊岡甚丞・粟野伝介、両人ニも談合申候而、か
         |  し可被申由申候事、

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■小河氏はどうする・・「新・肥後細川藩侍帳」

2020-09-29 07:43:45 | 人物

 「新・肥後細川藩侍帳」を整備しようという中で、個人の名前が相当数出てくる。これとて数えたことはないが、掲載の理由は、各種侍帳に登場しているからである。
ただ単に細川家に仕えていたということになると、例えば「細川小倉藩」をご紹介する中では、いろんな方の名前が登場しているが、これは「侍帳」に記載がないから除外している。

 昨晩は東京大学史料編纂所編「日本史の森をゆく」に目を通していたら、山口和夫教授の「原城攻めに参陣した牢人たち」の一文が目に留まった。
そんな中に小河景保の名前があった。細川勢(松井氏)に加わり高名を挙げた。
父保重は母方の祖父・本願寺顕如上人に養育され、豊後佐伯城主・毛利高政の妹を娶ったという貴種である。
そののち、景保は忠利の紹介で森長継に1,500石で仕え、後には一時期細川家にも仕え、のち暇をこい讃岐金毘羅に隠居した。

 兄・保正は大阪の陣においては西方の組頭を勤めている。元和九年閏八月廿八日、徳川幕府は大坂牢人の採用を解禁した。
細川三齋は小河保正ほか二名を新規召し抱えを望み、息・忠利に申し出るが、忠利は「千貫」の借銀があると説明し暗に召し抱えが難しいことをにおわせている。
これに三斎はこれに強い不満を呈し、忠利は思いがけない父の強い言葉に狼狽しこの三人を召出している。
熊本にも入国しているが1,000石を与えられている。しかし後に離国して池田輝澄に仕えて3,000石を拝領した。

 明らかに細川家家臣であったことが種々資料で確認される。これを「新・肥後細川藩侍帳」に挙げるべきかどうかを思案している。
ほかにもよく似た事例があるが、どこかで一線を画さなければならない。

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■萩花忌

2020-09-29 06:14:49 | 人物

 日曜日めずらしく電話もかけずに娘がやってきた。
実は前日26日が彼女の誕生日だったが、私も奥方もすっかり忘れていた。
24日が同居していた母方の祖母の命日で、娘はその葬式の日に生まれた。
そんなことが有って、「ひいばあちゃん」の仏前にと供物を持ってきてくれた。

だとすると、高祖父・久兵衛の命日が明日ということになる。
久兵衛の辞世の句「秋風の便りに聞けば古里の萩が花妻いまさかり也」に因んで「萩花忌」とひそかに呼んでいる。
地震前のAPの近くでは萩の花を見かけたが、現在我が家の周辺では見ることができない。
花瓶に一輪さしてあげたいと思うが、これも最近ではかなわない。ただ/\高祖父の無念の思いに合掌するのみである。

                   

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