日帳(寛永六年一月)朔日~五日
| (ママ)
| 朔日
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| (宗由)
年賀登城ノ家臣等 |一、三淵藤十郎殿■■御当番ニ而、御礼衆之分不残着到被成御付候ニ付、御物書衆八人申付、さし上
ノ着到ヲ付ク | 候、但、御惣庄屋・町人之分ハ、御番衆ノ内衆ニ御付させ候也、
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| (ママ)
| 二日
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|一、山村三丞、在郷ゟ罷出候事、
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| 三日 加来次郎兵衛
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江戸へ廻漕ノ白黒 |一、今度江戸へ積廻候白黒之石、古庄次左衛門尉ニ奉行申付、ゑらせ申候事、
ノ石ヲ選ラシム |
|一、其外江戸へ之御物積渡奉行、右同人也、
| (深野)
国東郡借米取立ノ |一、国東郡御借米奉行衆取立ノ目録持参、則二郎右衛門被請取候、不残上納相済候由也、但、今少懸
目録 懸銀懸米 | 銀・懸米ノ内不納在之由候也、
不納アリ |
|一、寺本八左衛門、大坂ゟ被罷下候事、
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| 四日 石本三介
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江戸廻漕ノ船ノ荷 |一、御船頭河村弥右衛門登城にて被申候ハ、今度江戸へ廻候御荷舟にしり木ハ何方ゟ請取可申由被申
尻木 | (破)
| 候間、不波平大夫へ被参、御請取被申候へと申渡事、
| (大橋村、京都郡) (高来村、同郡)
庄屋年賀ニ登城ス |一、大橋の惣右衛門・高木村ノ新八、両人年賀之御礼ニ罷出候由申候、御本丸へ上り、引付ニ付被申
引付ニ記ス | 候へと申事、
江戸ヨリ早打来ル |一、江戸ゟ早打ニ而、十二月十九日・同廿日両通之 御書、井門亀右衛門与横田三郎兵衛・寺本八左
| 衛門与河上加右衛門両人ニて持下也、
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| 五日 安東九兵衛
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安国寺祈祷札持参 |一、安国寺祈祷札之御礼持参被仕候、従 三斎様、何も小倉ノ出家衆、来八日ニ御礼可被成御請旨、
三斎八日ニ小倉ノ | 被 仰下候間、明日何も中津へ参上仕由、被仰候事、
僧等ノ年賀ヲ受ク |
釘本半左衛門七年 |一、釘本半左衛門尉被申候ハ、七年已来知行所へ不参候間、当月中ニ参候而、見廻申度由被申候、五
已来知行所ニ行カ | (河喜多正直)
ズ 見廻ニ行クヲ | 郎左衛門ニ被仰候て、御越可然由申候事、
願ウ |
清水社少納言年頭 |一、清水少納言年頭之御札持参候、御本丸へ御持参候て、林隠岐ニ御渡候へと、玄徳ヲ相そへ遣わ候事、
ノ祈祷札持参 | 安国寺ノ札も右同前也、右少納言も中津へ御礼ニ明日御出候由也、
安国寺同前 |
江戸へ早打 |一、明日江戸へ早打ニ被遣御鉄炮衆山川惣右衛門与大畠久太夫・井関久米久馬助与森角丞、右両人明
| 日江戸へ参也、
| (有吉英貴)(三淵重政)
松林院住持等中津 |一、松林院・春光院・永正寺登城ニ而被申候ハ、中津へ御礼ニ可出由にて、中津御奉行衆、頼母殿・右馬
| (牧興相) (参ヵ)
奉行ノ参賀ノ差図 | 殿・左馬殿へ之状拝見見申候処、参わけ共、不参儀共、文躰私共合点ニ乗不申候間、御尋申度由被
ニ疑義ヲ申ス | 申候、式ア殿へ御出候而、御談合可然由申渡候事、但、此方存候ハ、何も中津へ御越候て、御奉
| 行衆ニ御尋候而、いか様共、中津御奉行衆次第ニ可被成由申候事、
安岐浦継舟ノ番ノ |一、服部新太郎被申候ハ、原田伝三郎・服部武右衛門、三人迄ニ而あき浦次舟ノ御番相戁申候、右ハ
交替人数 | 湯浅三太夫四人にて弐人宛廿日かわりに相詰候へ共、三太夫儀江戸御供ニ被 召連候間、かわり
| を一人御加候而可被下由被申候、国東郡ニ別ニ加可申衆無之候間、御年寄衆と相談仕見可申す由、
| 申渡候、先其内ハ壱人宛可被相詰由、申渡候事、
| (財津)
|一、銀子五枚惣兵衛を以、惣左衛門尉方へ相渡申候、式ア少殿御指図也、