津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日の一気読書

2020-09-24 19:49:45 | 書籍・読書

                 

 今日は午前中から雨がパラ/\していたので、雨模様を見ながら散歩に出ようと思っていたが、本棚から内田百閒の「贋作・吾輩は猫である」を読みだしたら乗ってしまって、散歩をさぼってしまった。
もっとも午後は午前よりも強い雨になっていたが・・・
1906年に水がめに落ちた猫が、かめから這い上がると1943年にタイムスリップしていた。私が生まれた翌年のことである。
相変わらずの変な名前の登場人物がい並び、漱石先生同様なんとも愉快な進行ぶりである。
どうも読んでいると、百閒先生やら漱石先生の区別がつかないまま三時間余で読了した。

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■細川小倉藩(356)寛永六年・日帳(一月十一日~十五日)

2020-09-24 10:45:46 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)十一日~十五日 

         |       
         |     十一日  安東九兵衛 
         |
松平直政忠昌ヘノ |一、高田角左衛門・山田加左衛門、両人上方ゟ御下り被成候とて、今朝登城被仕候、山田加左衛門尉
使者帰着ス    |      (直政)                                   (忠昌)
小袖ヲ給与サル  |  ハ越前松平出羽様へ御使ニ被遣候而、出羽様ゟ御小袖弐つ被下候、同伊予様ゟ御小袖弐つ被為拝
         |  領候由、被申候事、
         |  (志摩答志郡)
九鬼守隆へ飛脚  |一、伊勢ノ鳥羽へ参御鉄炮衆両人、寺本八左衛門与下野甚七・千手新左衛門与城津喜左衛門、両人登     
         |  城仕候間、岡田茂兵衛・中村太兵衛・重田吉左衛門へ参、箱取可申由申候て、遣申候事、
江戸へ石舟廿三艘 |一、今日江戸へ御石舟廿三艘出船、〆而七艘ハ舟作事出来次第出船被仰付由、御年寄衆ゟ被仰上候、
出帆ス  七艘ハ |                   一人ハ
作事出来次第   |  飛脚弐人、内壱人ハ井関久馬与森角丞、山川惣右衛門与大富久太夫也、
         |一、江戸へ御飛脚両人のせ上り申御小早ノ御船頭中津留弥吉、大坂ヘノ状渡申候、修理ゟ寺嶋へ言伝
         |  候銀子も、右之弥吉ニ渡候事、

         |       
         |     十二日  加来二郎兵衛 
         |
江戸ヘノ石舟三十 |一、江戸へ之御石舟三十艘ノ内、御手舟廿三艘ハ昨日出船之筈ニ候へ共、日和悪敷ニ付、今朝出船仕
艘内御手舟廿三艘 |  候、御年寄衆・我々両人も川口へ罷出、見届、出シ申候事、
今朝出帆スルヲ川 |
口ニ未届ク    |
知行所行ノ願   |一、神西長五郎親知行所へ参度申候、可有御越由申候事、

         |       
         |     十三日  石本三介 
         |
         |一、横田権佐方ゟ、使者候て被申候ハ、先日からす五つ六つ打せ、坂井忠三郎ニ渡可申通、被仰付候
烏打六羽     |  間、からす六つ打せ、忠三郎ニ渡申候、昨日忠三郎ゟ被申候ハ、弐つ三つ打せ被渡候へと被申
土用明ク     |  候、如何可有哉と被申候、返事ニ、もはや土用も明申候、右ニ六つ御渡候ヘハ能候間、御打せ有
         |  間敷由申、返候事、
彦山座主ヨリ年賀 |一、彦山座主殿ゟ年頭ノ御使僧御札目録持参被申候、御本丸へ持参候て、御番衆へ御渡候へと、申渡
ノ使僧御札目録ヲ |  候事、 
持参ス      |  
彦山政所坊年賀  |一、彦山政所坊年頭之御札御持来候、則御本丸へ御持参候而、当御番之衆に可有御渡之由、申渡候
         |  事、
町舟出来     |一、白井兵助・吉田縫殿助登城にて被申候は、七艘ノ町舟今日限ニ出来可申由、被申候事、 

         |       
         |     十四日  安東九兵衛 
         |
町舟一艘ハ十端帆 |一、町舟七艘之内壱艘十端帆ニかへ申候ニ付、人数壱人増候、又右ニ六十一人と江戸へ書遣申候、六
七艘六十三人ノ扶 |  十二人ニ而候を書遣候ニ付、以上人数弐人増候ゆへ、都合六十三人之御ふちかた可被相渡と、申
持        |  遣候事、

         |       
         |     十五日  加来次郎兵衛 
         |
町舟ノ出帆ヲ川口 |一、式ア殿ゟ、使者を以被仰越候ハ、町舟七艘、今日七つ時ニ出船仕申候、
ニ見届ケム    |

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■細川小倉藩(356)寛永六年・日帳(一月十一日~十五日)

2020-09-24 08:28:53 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)十一日~十五日 

         |       
         |     十一日  安東九兵衛 
         |
松平直政忠昌ヘノ |一、高田角左衛門・山田加左衛門、両人上方ゟ御下り被成候とて、今朝登城被仕候、山田加左衛門尉
使者帰着ス    |      (直政)                                   (忠昌)
小袖ヲ給与サル  |  ハ越前松平出羽様へ御使ニ被遣候而、出羽様ゟ御小袖弐つ被下候、同伊予様ゟ御小袖弐つ被為拝
         |  領候由、被申候事、
         |  (志摩答志郡)
九鬼守隆へ飛脚  |一、伊勢ノ鳥羽へ参御鉄炮衆両人、寺本八左衛門与下野甚七・千手新左衛門与城津喜左衛門、両人登     
         |  城仕候間、岡田茂兵衛・中村太兵衛・重田吉左衛門へ参、箱取可申由申候て、遣申候事、
江戸へ石舟廿三艘 |一、今日江戸へ御石舟廿三艘出船、〆而七艘ハ舟作事出来次第出船被仰付由、御年寄衆ゟ被仰上候、
出帆ス  七艘ハ |                   一人ハ
作事出来次第   |  飛脚弐人、内壱人ハ井関久馬与森角丞、山川惣右衛門与大富久太夫也、
         |一、江戸へ御飛脚両人のせ上り申御小早ノ御船頭中津留弥吉、大坂ヘノ状渡申候、修理ゟ寺嶋へ言伝
         |  候銀子も、右之弥吉ニ渡候事、

         |       
         |     十二日  加来二郎兵衛 
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江戸ヘノ石舟三十 |一、江戸へ之御石舟三十艘ノ内、御手舟廿三艘ハ昨日出船之筈ニ候へ共、日和悪敷ニ付、今朝出船仕
艘内御手舟廿三艘 |  候、御年寄衆・我々両人も川口へ罷出、見届、出シ申候事、
今朝出帆スルヲ川 |
口ニ未届ク    |
知行所行ノ願   |一、神西長五郎親知行所へ参度申候、可有御越由申候事、

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         |     十三日  石本三介 
         |
         |一、横田権佐方ゟ、使者候て被申候ハ、先日からす五つ六つ打せ、坂井忠三郎ニ渡可申通、被仰付候
烏打六羽     |  間、からす六つ打せ、忠三郎ニ渡申候、昨日忠三郎ゟ被申候ハ、弐つ三つ打せ被渡候へと被申
土用明ク     |  候、如何可有哉と被申候、返事ニ、もはや土用も明申候、右ニ六つ御渡候ヘハ能候間、御打せ有
         |  間敷由申、返候事、
彦山座主ヨリ年賀 |一、彦山座主殿ゟ年頭ノ御使僧御札目録持参被申候、御本丸へ持参候て、御番衆へ御渡候へと、申渡
ノ使僧御札目録ヲ |  候事、 
持参ス      |  
彦山政所坊年賀  |一、彦山政所坊年頭之御札御持来候、則御本丸へ御持参候而、当御番之衆に可有御渡之由、申渡候
         |  事、
町舟出来     |一、白井兵助・吉田縫殿助登城にて被申候は、七艘ノ町舟今日限ニ出来可申由、被申候事、 

         |       
         |     十四日  安東九兵衛 
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町舟一艘ハ十端帆 |一、町舟七艘之内壱艘十端帆ニかへ申候ニ付、人数壱人増候、又右ニ六十一人と江戸へ書遣申候、六
七艘六十三人ノ扶 |  十二人ニ而候を書遣候ニ付、以上人数弐人増候ゆへ、都合六十三人之御ふちかた可被相渡と、申
持        |  遣候事、

         |       
         |     十五日  加来次郎兵衛 
         |
町舟ノ出帆ヲ川口 |一、式ア殿ゟ、使者を以被仰越候ハ、町舟七艘、今日七つ時ニ出船仕申候、又川口迄罷出可見届候間、
ニ見届ケム    |  我々両人も参候様ニと被仰候、畏存由御返事申候事、
         |                                        (規矩郡)
貫山ニテ犬ヲ猪ニ |一、門司源兵衛登城にて被申候は、御犬とりかひニ貫山へ参候而、猪弐つ取申候、壱つは母原村百生
取飼ウ      |  中、心宛ニ罷出候者ニ遣候、今壱つ如何可仕やと被申候間、今程御台所ニも不入物ニ候間、何獲物猪二頭ノ処分 |  も同道候而参候衆寄相候て、御わけあるへく候由、申渡候事、

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■栗田か粟田か・・?

2020-09-24 06:46:44 | 徒然

「細川小倉藩」をご紹介する中で、記事の中に「栗田」氏が登場する機会が度々あった。
刊本を見ながら、「栗田」とタイピングしてきたが、ある時栗田の栗の字の上に間違いを示す「粟」の字が乗せられていた。
私が栗田とタイピングしたもののほとんどは粟田氏であったようだ。(訂正しなければならないがこれは大変??)
最近わざわざ読書やPC専用のメガねをあつらえたが、栗と粟の見分けが効かなかった。
もっとも細川の侍帳には「栗田氏」も「粟田氏」も存在しないのだが・・・

 ところで宇喜多秀家の赤子を家臣が守って宇佐に逃げ込み、後に細川家に仕えたという話がある。
「浮田氏」を名乗られたというが、これではバレバレだから徳川三百年「栗田氏」を名乗られたという。
明治に至り「浮田氏」に戻された。
「宇喜多家史談会」というものがあり、会報が発行されているが、その熊本の浮田氏についての情報が有って会報を入手したのだが、地震以来行方知れずの状態である。

 磯田道史氏が、偶然どこかの飲み屋で「浮田氏」に出会い驚かれたということを、何かに書いておられた。
これが何にかかれていたのか、脳細胞が音を立てて破壊されていく爺様は思い出すことが出来ないでいる。

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