津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■豊前街道・熊本府中の出入り口「出町口」

2020-09-08 10:34:02 | 地図散歩

 熊本府中の北の出入り口を「出町口」という。県道303号線(旧・国道3号線)の熊本大学教育学部付属小学校の前あたりになる。
ここは家老職などを勤めた沢村家(11,000石)の屋敷跡である。道を挟んだ東側は同じく家老の有吉家(18,000石)の家司の葛西家(1,000石)の屋敷があった。
高禄の家臣の屋敷が多く集まり、ここが府中の北の守りであったことが良くわかる。

空堀が堀り巡らされていたというが、近年是も埋め立てられてしまったらしい。
ご厚誼いただいているS様のブログ「徒然なか話」に詳しく紹介されている。貴重な歴史的遺跡がだんだん失われていくのが残念である。

当然ながら厳重な警備が敷かれていたものと思われるが、桃節山の「西遊日記・肥後見聞録」には、薩摩藩の急使が急ぎ帰国するに際しての、この御門でのいざこざが記載されている。
桃節山は島根の人だが、その日誌に書き留めたほどだから、ちょっとした騒ぎで会ったのだろう。時代の緊迫感が窺える。
労を惜しまずご紹介してみよう。

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 當七月(慶応元年)頃薩藩人壹人馬上ニ而急御用之早駆なりとて出町口御番所を通抜ヶ候由、出町口ハ熊本城北之入口ニ而至而要地ニ御座候。其節番人よりだんだん聲を懸候得共、其節薩人より抜身ニ而馬子を脅かし、薩州之早駆なりとて急ニ推通るへしと申付置候ニ付、番所へ届候手數も無之、推て通り候、依而番人出懸候得共、其間合ニ餘程行過候趣、遂ニ追付、先ツ馬子を引留、如何なる譯ニ而御法を破り候歟と二つ計棒を以打候處、急所ニ當り候歟其儘相倒れ候得共、命ニハ懸らさりし趣。番人申候ハ、御自分御儀御主用ニ而御通行ニ候得は、私儀ハ作法相調へ不申候而はお通し不申と段々及論談、それとも是非御通り被成候儀に候ハヽ御自分ハ御通り被成候が御主用、私は御通し不申が主用、いつれか一方□主用を失ひ候儀ならハ據無之刃傷ニ及可申とて刀ニ手を懸候處へ、次之番所よりも加勢ニ参り、既ニ斬り合可申之處、薩人大ニ恐入、段々及断候ニ付、然らハ出町口番所へ迄御歸り可被成とて、遂ニ引戻し、何も作法通り取扱候而遠し候由、然處此者兼而激烈之風有之、萬一事を害し候様之儀出来も難計とて、外御番所へ處替ニ相成候由ニ御座候。爾し右様不筋之儀ありてハ一寸も跡へ引不申と申様之場ハ肥後之士風ニ御座候得共、又事を好まぬ處ハ前條會津藩士之申候如く、夏ハ日向を通り冬ハ日陰を通り候場にも可有之歟と被存候。

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駆け付けた「次の番所」とは新堀橋口のことであろうが、1キロ一寸の距離がある。騒ぎを聞きつけ駆け付けたのだろうか。
事が収まり、新堀橋口番所の役人は案内をしたであろうが、この薩摩人面倒を起こさないためにも二の丸には入らず新町へ下って行ったものと思われる。
まずは何事も起こらず執着至極・・・・ 

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■細川小倉藩(341 )寛永五年・日帳(九月廿六~廿七日)

2020-09-08 06:45:46 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)廿六~廿七日
 
         | 
         |   廿六日
         |
初茸ヲ上グ    |一、はつたけ百七拾本参候、治ア丞を以、上申事、
         |  (成政)
江戸上方等ヘノ書 |一、森美作様へ之御文箱一つ、
状        |                 御飛脚
         |一、右御内三人へ御当被成、同 壱つ、市蔵、三介
         |  (正勝)稲葉正成・斎藤福(春日局)の嫡男 相模小田原藩主
         |一、稲葉丹後様へ御文箱一つ、
         |  (正成)稲葉正勝の父、下野真岡藩2万石藩主、実、9月17日に死去
         |一、同佐渡様へ 同一つ、 
         |一、御やしき御留守居衆へ被遣 御文箱一つ、
         |      松井康之室)證人として江戸在府中、沼田上野介光長女
         |一、式ア殿ゟ自徳院へ之状一つゆい、
         |             〃
         |一、我々ゟ御留守居衆へ之状一つゆい、
         |              〃
         |  右ハ御小人弥左衛門与九兵衛ニ渡遣、
         | (湘雲守沅)
         |一、沅西堂へ之御文箱一つ、
         |一、松坊へ之御返書一つ、是ハ大坂三人衆へ渡スヘキ由、申付候、              
         |一、我々ゟ、大坂へ之状一ゆい、
         |一、同 一ゆい、京衆へ遣、
         |               (主水)
         |一、波多中庵ゟかミ袋一つ、是ハ寺嶋ニ渡候へと申付候、
         |一、銀子壱包、矢野■甚五兵衛方へ、宿ゟ参候状共壱包ニ〆、是ハ木や理右衛門へ、届候へと申付候事、
請取       |   右之前、慥請取参候、以上                  野間惣兵衛(花押)
         |   (成政)                      (小野)   (佐藤秀成) 
折敷ノ見本    |一、坂崎清左衛門方ゟ、今日へ被上せ折敷之本、大坂ゟ寺嶋方へ、九右衛門・少三郎方へ被上せ候へと、

         |  御小早御船頭野間惣兵衛ニ渡也、
         |   (利宗)春日局兄、加藤清正臣、寛永六年旗本となる。
         |一、斎藤伊豆ノもの、三人乗上候、御船頭ハ石松作内也、
忠利田川へ出行ス |一、今日ハ 殿様田川へ被成御座候、朝 御前ハ春木金太夫所ゟ上ヶ申候事、
         |                           〃〃
とく物ノ油    |一、江戸へとく物の油廻可申と、誘申候処ニ、続亀介与神崎十兵衛登城仕、申候ハ、江戸ニとく物の
         |  油六拾九斤御座候由申ニ付、上せ不申候、升目ハ壱斗ノ上ほと可有之由也、
         |  (規矩郡)                                           宿
真魚鰹進上    |一、恒見浦之猟師、まなかつほ一つ取候由ニ而、持来候、則御鉄炮衆を付、送にて田川へ持せ、差上
         |  候事、

         | 
         |   廿七日
         |
鉄炮ノ雁ヲ上グ  |一、曽根村ノ源兵衛鴈一つ打、上候、則田川へ持せ、上申候事、
         |  (宇佐)          数百九十本、                         談
初茸ヲ干ス    |一、うさゟはつたけ一籠〇歩之衆ゟ、持せさし越候、是ハほして可置ニ、□合相究、ほさせ申候
         |  事、則池田伝右衛門ニ渡ス、
初茸採リ     |一、はつたけ取ニ参候御長柄衆之内、與七郎と申もの、かへし被申候、はつたけ多無之由、申来
         |  事、
田川滞在ノ忠利へ |一、田川郡ニ被成御座候間、浦々ゟ生たい二・三つ、なまこ十・拾五つゝ、其外何にても珎敷さかな
鮮魚進上ノ命   |  少つゝ、日々ニ持せ候へと、高原茂兵衛ニ申渡候事、
         |                                  (木瓜)
金具ノ用ニ呼野砂 |一、田中理左衛門・伊藤武左衛門奉ニ而、御金具ノ御用ニ、呼野砂金百目・もつこう判銀七拾目、右
金木瓜判銀ヲ平田 |  二色請取人寺内五兵衛・渡辺五左衛門両人御奉行ニ付、平田彦九郎ニふかせ申候也、
彦九郎ニ吹カシム |
         |                          (規矩)
         |一、田川ニ 殿様被成御座候処へ、日々生肴持せ遣候次夫、矩規・田川御郡奉行へ書状、九月廿七日
         |  ・同廿八日・同廿九日三つ調、高原茂兵衛ニ渡候事、

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