熊本府中の北の出入り口を「出町口」という。県道303号線(旧・国道3号線)の熊本大学教育学部付属小学校の前あたりになる。
ここは家老職などを勤めた沢村家(11,000石)の屋敷跡である。道を挟んだ東側は同じく家老の有吉家(18,000石)の家司の葛西家(1,000石)の屋敷があった。
高禄の家臣の屋敷が多く集まり、ここが府中の北の守りであったことが良くわかる。
空堀が堀り巡らされていたというが、近年是も埋め立てられてしまったらしい。
ご厚誼いただいているS様のブログ「徒然なか話」に詳しく紹介されている。貴重な歴史的遺跡がだんだん失われていくのが残念である。
当然ながら厳重な警備が敷かれていたものと思われるが、桃節山の「西遊日記・肥後見聞録」には、薩摩藩の急使が急ぎ帰国するに際しての、この御門でのいざこざが記載されている。
桃節山は島根の人だが、その日誌に書き留めたほどだから、ちょっとした騒ぎで会ったのだろう。時代の緊迫感が窺える。
労を惜しまずご紹介してみよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
當七月(慶応元年)頃薩藩人壹人馬上ニ而急御用之早駆なりとて出町口御番所を通抜ヶ候由、出町口ハ熊本城北之入口ニ而至而要地ニ御座候。其節番人よりだんだん聲を懸候得共、其節薩人より抜身ニ而馬子を脅かし、薩州之早駆なりとて急ニ推通るへしと申付置候ニ付、番所へ届候手數も無之、推て通り候、依而番人出懸候得共、其間合ニ餘程行過候趣、遂ニ追付、先ツ馬子を引留、如何なる譯ニ而御法を破り候歟と二つ計棒を以打候處、急所ニ當り候歟其儘相倒れ候得共、命ニハ懸らさりし趣。番人申候ハ、御自分御儀御主用ニ而御通行ニ候得は、私儀ハ作法相調へ不申候而はお通し不申と段々及論談、それとも是非御通り被成候儀に候ハヽ御自分ハ御通り被成候が御主用、私は御通し不申が主用、いつれか一方□主用を失ひ候儀ならハ據無之刃傷ニ及可申とて刀ニ手を懸候處へ、次之番所よりも加勢ニ参り、既ニ斬り合可申之處、薩人大ニ恐入、段々及断候ニ付、然らハ出町口番所へ迄御歸り可被成とて、遂ニ引戻し、何も作法通り取扱候而遠し候由、然處此者兼而激烈之風有之、萬一事を害し候様之儀出来も難計とて、外御番所へ處替ニ相成候由ニ御座候。爾し右様不筋之儀ありてハ一寸も跡へ引不申と申様之場ハ肥後之士風ニ御座候得共、又事を好まぬ處ハ前條會津藩士之申候如く、夏ハ日向を通り冬ハ日陰を通り候場にも可有之歟と被存候。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
駆け付けた「次の番所」とは新堀橋口のことであろうが、1キロ一寸の距離がある。騒ぎを聞きつけ駆け付けたのだろうか。
事が収まり、新堀橋口番所の役人は案内をしたであろうが、この薩摩人面倒を起こさないためにも二の丸には入らず新町へ下って行ったものと思われる。
まずは何事も起こらず執着至極・・・・