先にもふれたが桃節山の「肥後見聞録」には、藤崎宮の秋の例大祭に関する記事が見える。
以前は加藤清正の朝鮮征伐に由来する「ぼした祭」と呼ばれていたことが、この記述で証明させている。
今年はコロナ禍の為、馬追いを含む神幸行列は取りやめとなった。祭好きの人たちは憤懣やるかたないことだろうと御察しする。
そんな慶応元年の熊本のお祭り事情を「肥後見聞録」から覗いてみよう。
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〇(慶応元年九月)十五日、晴
今日も安井(左平次)氏ニ滞留、今日ハ當所氏神八幡宮之祭禮也。其祭禮式ハ、清正公朝鮮より御凱陣之節御願解之御式其儘傳ハリ居候由、拙者共儀いまた熊本滞留之願も相濟不申、城下徘徊六ヶ敷候得共、珍敷祭禮ニ候間、極密を以一覧痛し候とて、左平次幷清藤政右衛門世話を以搦手之方番所無之間道より入込、二之勢溜ニ而三千石木下伊織屋敷之表長屋二階へ罷出一覧す。同道ハ安井左平次・同幸太郎・大岩又左衛門・同子供二人・清藤政右衛門、外ニ左平次門人抔四五輩也。晝飯後九時過罷出ル。
(細川慶順)(顕光院)(鳳台院)
八幡宮今朝御旅所江行幸有之。夕方御歸り也。拙者共罷出候而少し間合ありて御當君ノ御母堂幷御兄婦君當時御寡居也。御二方二之勢溜之内御上壇へ被為入、暫ありて御二弟
(細川護久) (細川護美)
澄之助君二十七歳・良之助君二十四歳両公子も被為入、夫より少し間合ありて 神輿之御通り也。御行列ハ先ツ榊、次二御太刀、次二猿田彦命。三躰神輿之御案内之由。鉾之先ニ鼻高面を懸たる也。それより神馬、白赤黒之三疋駆ヶ廻ル。此馬三疋は則八幡宮三躰之神馬ニ而、御出之節神主 神輿を背ニ負ふ真似して馬ニ乗せ奉る。御歸之節も同断。勢溜ニハ拝禮之人充満して立錐之地もなき様見えしが、其中を縦横ニ駆ケ廻ル。依而年々怪我人も有之由、樓上より見候ニも誠ニ恐しく危く見えたり。此馬ニハ仲間両口ニて神主躰之者數人且數十人、跡より参り、いつれも青竹之さゝらの如きものを以遂立るニ、その囃子ニハ、ボゞシタ/\と申也。此ハ御凱陣之御式故其始ハホロボシタといへしをいつしか言誤りしと也と大岩又左衛門語れり。又茶碗ボゞ/\とも申せり。此ハ大勢群衆之中をかけ廻る儀故ケガナイといふ事を表したる也といへり。此ハ三疋共君侯之御馬を出され候事之由、それより鉾三本計通りて然後 神輿御三躰 景行天皇御親子 御三神之由、其跡ニ勅使光永蔵人、此勅使は始メ清正公之時京都より下り直ニ當地ニ被居、五百石を賜ハり居候由、従四位下なりと又左衛門より承ル。扨右十二人之神主ハいづれも馬上ニ而かけ廻り候譯ニ候得共、左候得は是非落馬抔致し怪我も有之候ニ付、其馬ハ十二疋共飾馬にして馬計跡より引出し又三 神馬之通かけ廻ル也。此馬ハ當藩大名中より出し候由、乍爾右十二疋之馬をかけ候節ハ年々怪我人のみならす、死人をも有之二付、昨年より之被仰出之由ニ而只引通り候のみ也。尤馬遂之者懸聲ハ三 神馬同様ニ而馬甚荒だち居候、右馬ハ都合十五疋共二三十日以前より極荒たち候様畜ひ立置候事之由。それより清正公之行列なりとて晩頭一人馬上、其次ニ百騎之武者、いつれも甲冑なり。此者いつれも作り武者にて、晩頭ハ當藩中小姓組之者、百騎ハ當藩之足軽之由、其跡ニ長柄百筋、いつれも當藩長柄之者之由、陣笠法被也。其跡へ物頭上下着用馬上也。此分ハ實之物頭也。其跡ニ街中より鉾或ハ冑之類一丁ニ一本ツゝ行列を揃而持行く。それより少し間合ありて祭禮珍敷奉行物頭馬上ニ而上下着用、足軽十人計召連通ル。
(吉田松花堂)
何様珍敷祭禮なり。右濟而新町へ廻り醫師吉田順齋方へ一統立寄ル。同人ハ安井氏召抱之醫師之由、同家ニ而酒肴心配致し、五つ時頃安井方へ歸ル。
(了)