細川重賢と堀平太左衛門主従による宝暦の改革の目玉の一つに「世減の規矩」が上げられる。
慶安三年以降の新知の知行が対象になり、大幅な減知が実行され、その高は12万石に及んだ。
この慶安三年という年は、細川綱利が弱冠六歳で家督をした年である。なぜ綱利が家督した年を基準としたのだろうか。
その理由を「慶安年間を以て治乱の境界」であることを、明記している。
これはどういう意味を持つのだろうか。つまりこれは、綱利代の側近に対する過剰な加増や、私生活による過大な支出から来る経済の悪化が原因であることは一目瞭然である。
蓑田勝彦氏の著「熊本藩の社会と文化」における「元禄の殿様=細川綱利について」で具体的な数字を挙げて実証されている。
筆頭家老松井興長の必死の諫言にも関わらず、綱利及び生母・清高院の浪費ぶりが数字でよく理解できる。
側近家臣の新知・加増が急増するとともに、いわゆる出頭人が政治に介入してくる。
蓑田氏は「寵臣」として、岩間・片山・木村の三氏を特に示している。
父・光尚代と比較すると、米で21,000石余、銀1,351貫余、銀換算で合計2,130貫に及んだとされる。
つまり「世減の規矩」はこのような不合理を是正しようとしたことが見て取れる。
改めてその数字を示しておこう。
慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
5,500石~4,500石 500石減
4,400石~3,400石 400石減
3,300石~2,200石 300石減
2,200石~1,200石 200石減
1,100石~ 600石 100石減
500石~ 150石 50石減
100石新知 御擬作 (地方知行なし)
旧知の家が対象外とされたのは「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」であり、細川家草創のころの家臣であり、歴然と新知の家臣と峻別している。
宝暦改革は大きな成果を上げている。これが綱利や父・宣紀時代の乱脈経済の否定の結果となっていりことが皮肉である。
重賢の若いころの貧乏ぶりは嘘だろうという位に有名だが、私は綱利、宣紀の子沢山も大きな影響を与えているように思っている。
女子の嫁入りの入用は、化粧料などもふくめ膨大であり、大きな負担を強いられた。