津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「世減の規矩」慶安三年を区切りとしたこと

2020-09-20 17:34:58 | 歴史

 細川重賢と堀平太左衛門主従による宝暦の改革の目玉の一つに「世減の規矩」が上げられる。
慶安三年以降の新知の知行が対象になり、大幅な減知が実行され、その高は12万石に及んだ。
この慶安三年という年は、細川綱利が弱冠六歳で家督をした年である。なぜ綱利が家督した年を基準としたのだろうか。
その理由を「慶安年間を以て治乱の境界」であることを、明記している。
これはどういう意味を持つのだろうか。つまりこれは、綱利代の側近に対する過剰な加増や、私生活による過大な支出から来る経済の悪化が原因であることは一目瞭然である。
蓑田勝彦氏の著「熊本藩の社会と文化」における「元禄の殿様=細川綱利について」で具体的な数字を挙げて実証されている。
筆頭家老松井興長の必死の諫言にも関わらず、綱利及び生母・清高院の浪費ぶりが数字でよく理解できる。
側近家臣の新知・加増が急増するとともに、いわゆる出頭人が政治に介入してくる。
蓑田氏は「寵臣」として、岩間・片山・木村の三氏を特に示している。
父・光尚代と比較すると、米で21,000石余、銀1,351貫余、銀換算で合計2,130貫に及んだとされる。

つまり「世減の規矩」はこのような不合理を是正しようとしたことが見て取れる。
改めてその数字を示しておこう。

            慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
                 5,500石~4,500石  500石減
                 4,400石~3,400石  400石減
                 3,300石~2,200石  300石減
                 2,200石~1,200石  200石減
                 1,100石~  600石  100石減
                  500石~ 150石   50石減
                  100石新知       御擬作 (地方知行なし)

旧知の家が対象外とされたのは「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」であり、細川家草創のころの家臣であり、歴然と新知の家臣と峻別している。

宝暦改革は大きな成果を上げている。これが綱利や父・宣紀時代の乱脈経済の否定の結果となっていりことが皮肉である。

重賢の若いころの貧乏ぶりは嘘だろうという位に有名だが、私は綱利、宣紀の子沢山も大きな影響を与えているように思っている。
女子の嫁入りの入用は、化粧料などもふくめ膨大であり、大きな負担を強いられた。

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■非科学的隠居趣味

2020-09-20 11:41:31 | 徒然

 元・熊本大学法学部教授の森田誠一氏著「歴史滴録」に「歴史的興味と興味的歴史」という文章がある。この対語的表現については、先生の造語らしいが、
 (一)                                                                   (ニ)
「好事家的歴史知識の羅列を歴史と考える立場と、現在の認識に立って過去に問いかける歴史への興味」を対照的に表したものだ。
                 (ニ)                                 (一)
歴史を科学として捉えるためには、「個別的事象を通して普遍的法則を見出すこと」であり、クイズ番組の物知り的知識の羅列であってはいけないとされる。
「郷土を対象とする地域史研究の場合、日本歴史研究の中に位置づけられたその主体性の追求を怠れば、それは「お国自慢」の隠居趣味といわれても仕方ない」と誠に辛辣ではあるが当を得たものである。
渡辺京二氏はある著のなかに、「いわゆる郷土史家たちのみみっちい党派心がつねづね不愉快でならない」と書いておられるが、まさに科学的とは言えない自己主張にうんざりすることは大いにある。
しかしながら、これも一つの郷土愛であり、教えられることが有ることも事実である。
痛烈なご指摘だが、私は「隠居趣味」として謙虚に勉強して行こうと思う。

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■細川小倉藩(352)寛永五年・日帳(十二月廿七~晦日)

2020-09-20 07:56:02 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年十二月)廿七~晦日

         | 
         |     廿七日 加来次郎兵衛
         |
忠利船中ヨリ見シ |一、御上洛候時、船中ニ而被成御覧候路地之石弐つ、御路地之善吉ニ渡候也
路地ノ石     |

         | 
         |     廿八日 石本三介
         |                     
求菩提山中坊登城 |一、求菩提山中坊登城、毎年 御六様上り申候札之由にて、持参被申候事、
光尚へノ祈祷札ヲ |
上グ       |
釜屋ノ手間料一倍 |一、釜屋長兵衛手間料之儀、津川四郎右衛門殿福山源次ニ被仰渡候ハ、何も御家中一倍ニ被成遣候
ナルヲ五割トス  |  間、可被得其意通被仰渡候、御書付ニハ、五色直段上ヶ被遣候、鋳つぎノ直段ハ、如何仕共不被
鋳継ハ新釜ノ一倍 |  仰出候、惣別鋳つき物ハ、京もいなかもあらかま一はいノ由、被仰渡候、■■併、御為の儀候
ナルヲ五割トス  |  間、あらかまニ五わり入候て遣可然由、御申候由候、さ候ハヽ、其分ニ仕、被渡候へと、源次ニ
         |  申渡候事、

         | 
         |     廿九日 安東九兵衛
         |
三斎へ歳暮ノ使者 |一、松井宇右衛門、中津へ御歳暮之御使者ニ被遣、京被罷帰候、御小袖、其外御樽肴上申候処、宇
         |  右衛門 御前ニ被召出、一番ニ御さかつきを被下、御小袖一つ拝領、幷 御前ニ而御食被下、仕
         |  合残所も無御座候由被申候、さ候て此方ゟノ御進上之目録ニ 御印被成下候を、請取置申候事、
三斎正月演能ニ巧 |一、宇右衛門ニ、中津御奉行衆ゟ言伝之由にて、被申候ハ、来春、中津ニて御能被成候ニ付、山崎加
者ヲ雇ウ     |  平次・吉竹兵右衛門両人を御やとい可被成と、被成 御意候由申候事、
         |一、宇右衛門、今月廿七日ニ小倉を出、廿八日之朝、御歳暮之御祝儀上ヶ被申候由事、
         |   (教隆)      (幸信)
大久保忠隣子息等 |一、大久保右京様・同主膳様 公儀御前被 召直為御祝、御鉄炮衆ニ而御書被進之処、右御両人ゟ、
召直サレシ祝儀ノ |  御飛脚ニ一歩判壱つ被遣候、併、右之金子御やしきへ不被遣已前ニ、御飛脚ハこゝもと罷下候
状ヲ送ル     |       (松野親英)(小篠) (町)
         |  ニ付、あとゟ織ア・次太夫・三右衛門ゟ被差下候を、今日我々送状ニて、浅井五左衛門・宗田伝
         |  左衛門両人ニ渡候事、

         | 
         |     晦日 加来二郎兵衛
         |
         |         (ママ)               (伊与、長沢顕長室、沼田清延女)
京ヨリノ音信物  |一、京ゟくたり候しふミ帋つゝミ、大小共ニ三つ、いよとのへまいり候状を、大嶋喜右衛門ニ渡候也、
         |                       (織)
         |一、上方ゟくたり候こもつゝミの箱壱つ、菊野伊折殿へ参候を、大嶋喜右衛門へ渡候、御本丸の内ニ
         |  而御座候故ニ、喜右衛門ゟ可届之由ニ而、渡し候也、
         |     (米田是季)
         |一、上方ゟ、監物殿へ参候こも包壱つ、右之内おくぜき十左衛門取ニ御越候故、則渡申候事、


           今回をもって寛永五年分は完了しました。次回からは寛永六年分に入ります。

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