津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■頑張れ「正代関」

2020-09-26 18:07:31 | 熊本

 今日の正代関の朝の山戦、強かったですね~。もう風格は大関そのものですヨ。
明日千秋楽も勝って有終の美を飾ってほしいとただただ願うばかりです。
出身地の宇土市では、大賑わいでしょう。そんな中に身を置きたい気持ちですね~。

皆様もぜひ正代関に応援をお送りください。もう無信心者の神頼みの気持ちです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(358)寛永六年・日帳(一月十八日~廿日)

2020-09-26 14:18:25 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)十八日~廿日                 

         |       
         |     十八日  石本三介
         | 

朴西堂切手ノ写書 |一、朴西堂ゟ之切手写・書状共文箱壱つ、豊岡甚丞へ相渡候事、
状        |
路地ノ石     |一、橋本勘左衛門積下候御石二つ、御路地之善吉ニ相渡ス、又前かと三つ下候内壱つ渡ス、弐つハ下
         |  候時渡ス、
大鮒ヲ獲ラシメ長 |一、西田吉内をよひ、わき/\ニ而大鮒共をとり候て、長池ニ入置候へと申付候事、
池ニ入ル     |
         | (長沢顕長室、沼田清延女)   (松井興長室、三斎女)
伊与こほヲ振舞ニ |一、いよ殿ゟ被申候ハ、御こほ様をふる廻仕候間、ふなを百斗御取せ候て可被下由、則吉内ニ申付
鮒ヲ求ム     |  候事、
有間七左衛門鶴打 |一、有間七左衛門登城仕申候ハ、靏もとり自分ニ罷成候、自然参候ハヽ、打可申候哉と申候、打候へ
ノ可否ヲ伺ウ   |  と申渡候、 御印を取候へと申候処ニ、去冬ゟ被下置候 御印御座候由、申候事、
北前ヨリ材木ヲ買 |一、香山弥清兵衛北前ゟ御材木弐艘かい調、運賃舟ニ而積廻候由候、御材木奉行へ被相渡候へと、申
         |    〃
調ウ       |  渡候事、
         |  (武次)
江戸ヨリ飛脚   |一、牧丞大夫与高橋少右衛門尉、正月朔日に江戸ゟ御書持下候事、
         |                          両人   正月六日に
         |一、明石源左衛門尉与西五郎助・竹内吉兵衛与嶋田與兵衛、江戸ゟ御書持、右同時参候事、
         |一、右三人之御飛脚、大坂ゟ小早御船頭河村喜左衛門尉舟ニのせ、下り申候事、
倉場某僧ノ詫言ニ |一、西沢文右衛門尉与倉場九兵衛儀、出家衆御詫にて、籠ゟ出申候ニ付、文右衛門尉被申候は、如先々
ヨリ出牢ス    |   (与ニヵ)
         |  □□入申にて可在之候哉、扶持を放可申哉と、被申候ニ付、 御前相済上は別条有之間敷と、両
         |  人ハ相心得申候へとも、急度左様ニ被相尋候儀候条、御年寄衆へ相談仕、得 御諚候而、何の道
         |  ニも、重而可申由申候而、右之通御年寄衆談合申候処ニ、       
         |     十九日  石本三介
         |     〃〃〃  〃〃〃〃

ソノマゝ組ニ入ル |一 其まゝ組ニ入置くるしかるましきとの儀ニ付、其通仕極候事
         |〃

         |       
         |     十九日  石本三助
         |

鉄炮足軽成敗サル |一、国友半右衛門くミノ御鉄炮衆今日成敗被成候由、承及候由、渡辺加太夫・原孫助両人登城にて申
         |    (以下細書)
         |  候、「両人被申子細ハ、御鉄炮衆ノ子加大夫召置候処ニ、とか人のせかれにて候間、返し被申
取替ノ米ノ処置  |  候へと、半右エ門被申候由申候、然、取かへノ米かし申ニ付、彼者御せいはい被成ニ付、米之儀

         |  ハ御奉行衆ゟ被仰付可被下候哉、如何可有御座と被申候間、先半右衛門へ被申候へ、其上にて可
         |  承と、返事申候事」
         |一、梅田和泉申候は、明日は御具足の餅ならし申候間、御本丸へ御上り候て、御祝候へ之由被申候、
         |  其外、思召よられ候衆御同道候而可然候由申候、相心得候由返事候事、

         |       
         |     廿日  安東九兵衛
         |

年賀延引     |一、宇野七右衛門登城被仕候、早々可罷出候へとも、御用しけく御座候、其上大雪ふり申候ゆへ、延
由布院惣庄屋年賀 |  引仕由候、由布院御惣庄やも三人罷出候事、又はやミ郡森永孫兵衛せかれも罷出候、せかれノ名
         |  ハ作兵衛と申候也、
本丸ニテ具足ノ餅 |一、御本丸ニ而御具足ノ餅ならし申御祝ニ、御奉行衆両人、其外松丸諸奉行とも罷上り候て申候事、
ナラシノ祝儀   |                                       〃〃
公事ノ鉄炮足軽成 |一、国友半右衛門尉・黒部吉兵衛、両人登城にて被申候は、公事仕候御鉄炮衆昨日両人成敗仕候、左
敗サル      |  様ニ候ヘハ、右之妻子とも如何可仕候や、いなせ申候ハヽ、御門ノ切手なとハ被下間敷候哉、と
ソノ妻子ノ処分ヲ |  の被申様にて候、他国ニも不参候ハヽ、各御分別次第、如何様ニも可被仰付ノ由、返事申候事、
問ハル      |  但、右之様子御家老衆へ可被仰之由、申渡候事、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後の湯屋事情

2020-09-26 06:17:34 | 熊本

 慶応元年の松江人・桃節山の「西遊日記・肥後見聞録」から引用する。幕末期の熊本の風呂屋事情である。

「浴之儀當所ニ而は風呂屋澤山有之。多分手前ニ而は風呂を立不申、いつれも風呂屋へ参り候由ニ付、案内させ旅宿(壷井町下三丁目建町ともいふ綿屋助四郎方)より少し東之方松ノ湯と號する風呂屋へ三人共罷越ス。如何にも結構なる風呂屋也。先ハ江戸之風呂屋之風ニ似たり。爾し都會に非さる故、江戸之湯よりハ少し小構なれとも、萬事美なる事ハ江戸ニ勝れり。湯屋は日本一也なとゝ自負せり。如何ニも左もあるへきか。尤右松ノ湯ハ熊本中ニ而之美なる分之由承ル。」

自らの日記だから取り立てて過大に記してはいないだろし、この時期熊本城下においては、風呂屋が充実していることが伺える貴重な記述である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする