津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水前寺界隈を歩く

2020-09-16 17:56:46 | 熊本

 所用で出かけ、小ぶりの雨の中、久しぶりに水前寺界隈を歩いてみた。
玄宅寺前から水前寺成趣園参道(観光客の姿・皆無)に入り、表通り前の水路に沿って電車通りの方へ向かう。
かって水前寺公園の中には湧水を利用した25mプールがあり、直径1.5mほどの排水路があり、小学校高学年のころは格好の遊び場であった。
今はその場所を伺わせる、公園からの水が加勢川に流れ込んでいる。
そのやや上流にある橋の上流側に「鵜渡堰」の跡を示す石碑があり、下流側にその説明坂が在った。

        
                             
ここに示すような堰があったとは全然知らなかった。橋の名前は「鵜渡橋」である。

それから20m(?)ほど下流側に宮園橋があり、その奥で何やら工事が始まっていた。かってカマボコドームの「水前寺体育館」跡地の公園の片隅である。
裏手は水前寺能楽堂にあたるが、この工事現場は「ジェーンズ邸」の復元工事の現場であった。

                                                 
                      宮園橋越しにみる工事現場

復元場所については、当地での復元に反対の意見もあったが、観光施設として水前寺公園域に集合させようという市の思惑に押し切られたようだ。
地震でバラバラに倒壊した「ジェーンズ邸」の復元、ご苦労な仕事になると思われるが完成を待ちたい。

        

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■清田家系図を補強する

2020-09-16 13:31:10 | 歴史

 先に「エピローグ・清田家系図」を書いた。エピローグとしたように、清田家についてはほぼ結論が出たのではないかと考えている。
そんな中、寿閑(鎮乗)の実母を「大伴宗麟女」と記載してきたが、このことについてコメントをいただいた。
寿閑は志賀親度の男子であり、清田家の養子となった。志賀親度の室が以下にご教示いただいた奈多夫人の娘である。

「大友宗麟公の娘ではなく、服部右京亮と奈多夫人夫婦の娘です。
大友宗麟公が、親戚にあたる服部右京亮から美貌の妻(八幡奈多宮の奈多鑑基の娘=奈多夫人)を奪って傍に置き、1553年に大友宗麟公の命令によって服部右京亮は殺害され、それにより未亡人となった奈多夫人は大友宗麟公の継室となりました。奈多夫人には服部右京亮との間に娘が1人いて、その娘が大友宗麟公の養女になり、その娘が志賀家に嫁いだ訳です。」

 つまり、寿閑には大友宗麟のDNAは繋がっていないことになる。

 服部右京亮という人物について、私は知識を持ちえないが、ウイキペディアで奈多夫人を改め調べてみるとまさにご指摘の通りである。大伴宗麟という人物の異常な行動が見て取れる。

 

コメント (2)
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■細川小倉藩(348 )寛永五年・日帳(十二月十八日~廿日)

2020-09-16 06:39:20 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年十二月)十八日~廿日
 
         |       八 
         |     十四日 加来二郎兵衛
         |      〃
         |
川流レノ雌鴨ヲ上 |一、続亀介ゟ、真鴨女鳥壱つ、香田太兵衛と申ものニ持せ、被差上候、此鴨夕ア川をなかれ候を、我
グ  台所へ上グ |  等ものとり上申候間、持せ上候由也、則二郎右衛門手前にて、ひかへニ付させ、御台所へ上申候
         |  事、
         |                                    (室積、周防熊毛郡)
         |一、御船頭井上十右衛門舟ニ而、江戸ゟノ御飛脚二人乗下候処、日和悪敷由ニて、むろすミゟ上り、
         |  罷下候、はや御飛脚着仕哉と申候而、十右衛門登城仕候事、
宇佐護摩堂建立ニ |一、宇佐ゟ護摩堂建立ニ付、 殿様御祈祷之ため、二夜三日ノ護摩執行」仕之由にて、御札守参候、使
ツキ忠利ノタメ護 |                     
摩ヲ執行シ札守ヲ |  者上蔵坊持参被申候、便次第江戸へ差■可申由、返事候而、差返す候事、
上グ       |

         |        
         |     十九日 石本三介
         |      
         |一、大坂詰御小早御船頭野間惣兵衛舟ニ而、江戸ゟノ御飛脚御書、惣兵衛寺嶋主水手前ゟ請取、罷下
日和悪シク加子書 |                        〃〃〃
状ヲ陸路持下ル  |               (麻郷、周防熊毛郡)
         |  候処ニ、日和あしく候而、おごうゟ御加子両人與作・茂作くがを持候而罷下候、但、御書は御家
         |  老衆斗へ被成遣候也、則御家老衆へ相届申候事、
八十丁立ノ日おそ |一、八拾丁立ノ御矢蔵の茂助登城にて、申候は、八拾丁立の日おそひ損申候を持参仕候、何方二成共
ひ        |  相渡申度候間、被仰付候而可被下之由申候、大村久兵衛方へ渡置候へ之由申候而、則茂助久兵衛
         |  所へ持参仕候事、
宇佐永勝院祈祷札 |一、宇佐永勝院ゟ御祈祷之御札、使僧二て被差上候事、
ヲ上グ      |
         |一、御家老衆ゟ、上方へ御用在之由にて、御船頭河村喜左衛門御上せ候事、

         |        
         |     廿日 安東九兵衛
         |
         |                (政時)
三斎江戸ヘノ飛脚 |一、頼母殿・右馬助殿ゟ使、中津貴田権内・高橋兵左衛門尉ゟ、右御両人まて奉書参候間、懸御目候
便ヲ求ム     |  とて、状持せ被遣候、奉書之様子は、 三斎様ゟ江戸へ御用之儀御座候間、此方ゟ便宜候ハヽ、
         |         旨ニ付、
         |  中津様へ可申上■、御書なと御ことつて可被成候間、可得其意との儀二て候、則頼母殿・右馬助
         |                                         なとニ
公儀石船ノ用   |  殿への返事は、御奉行所ゟ今程御飛脚にて言上儀は無御座候、公儀ゟ当り申候石舟之儀〇御家老
         |  衆ゟ言上被成候ハヽ、近日江戸への使も可有御座候哉、何も御年寄衆へ其段被仰候而、御飛脚な
         |  と被遣被下候ハヽ、日限之儀、中津へ被仰進候而可然存候由、返事申候事、
         |一、御小早ノ御船頭松村久兵衛、大坂ゟ、寺嶋主水京衆小野九右衛門・佐藤少三郎ゟ参候書状持候
         |  而、夜前着仕候由にて、今朝登城仕候事、
有馬豐氏使者   |一、有馬玄蕃殿ゟ之御使者北村與三右衛門内衆拾弐人にて参候、今日早天ニ被罷帰候事、
本丸ニテ談合   |一、式ア少殿ゟ御使、御本丸にて御談合事候て、唯今登城仕候間、御両人ともニ後本丸へ御上り候へ
         |  之由にて、則罷上り申候事、

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