木山往還の正確な位置を確認しようと思っていたが、現代の地図ではなかなか理解できない部分があったが、先にご紹介いただいた 今昔マップon the web 熊本市 のおかげで、ほぼ正確な位置を知ることができる。
今昔マップに使われている一番古い地図は1900年で「明治33年」だから、この地図に従い木山往還をたどると、一部は開発された土地の中に消えているものがあり、一方私が理解していた古い道が実はこの当時存在しなかったりと、眼からうろこのたとえの通りである。
木山往還を輪行でたどられた方のサイトなども見えるが、これが100%正しいかというと些か疑問にも感じる。
「豊前街道‐薩摩街道」や「日向往還」などは、薩摩街道・豊前街道旧街道地図・肥後日向往還旧街道地図といった、ルートを示す素晴らしいサイトがある。
これに倣ってルート図を何とか作ってみたいと考えているのだが、79爺様にはとても手が出ない。
人様のお知恵を借りてでも作り上げたいものだと一念発起している。
日帳(寛永七年八月)十九日~廿一日
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| 十九日 加来二郎兵衛
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|一、今日、江戸へ被遣御飛脚二人、内一人ハ国友半右衛門与竹嶋角丞、一人ハ竹内吉兵衛与牧野角左
| 衛門也、但、中ノ遣銀遣、 御書相渡候覚、
| 一、三斎様へ之御文箱一つ、一、町三右衛門・松野織アへ被遣 御文箱壱つ、一、戸田左門様へ被進御
| 文箱壱つ、
| (忠広)
森忠広室歿スニツ |一、森右近様御上様御遠行ニ付、美作様へ御状被進候、御内慶安へ御状相渡、慶安所へ候ても、内へ
キ弔状 | はいるましき由被 仰候、御使者ハ歩之御小性永屋二郎介ニ御文箱壱つ幷慶安へ被遣御状壱つ相
ソノ渡方 | (森忠政)
| 渡候、作州様はや江戸へ被成御下候ハヽ、慶安ニ渡、江戸へ可下と被申候ハヽ、一段能候、慶安
| も御供にて、江戸へ被参候ハヽ、御年寄衆へ渡可申候、但、江戸へ可相届候御状、此方之御使者
| ニ江戸持下候へとさへ不申候ハヽ、可渡置候、さもなく候ハヽ、江戸へ持下ルにて可有之と、
| (飯田)
| 才兵衛被申候也、
| (青脱ヵ)
佐田青山ノ松茸 |一、佐田山ゟ、松茸百五十本持来候、休心を以上ル、
惣奉行日ノ印 |一、江戸へ之御飛脚、中之遣銀を相渡候処ニ、松ノ丸衆朝上り不仕ゆへ、我々日ノ印を仕、遣候、但、
| 松ノ丸衆ハ急ノ目録仕立ニ付、朝上りハ不仕由、被申候也、
| (更紗)
長崎ヨリ唐木綿等 |一、長崎ゟ、飛脚罷上候、唐もめん二包持上候、 一、天河もめん嶋二たん、 一、白キかあさもめ
来ル | ん一たん 一、うろこ木綿十たん也、
|一、江戸ゟ御荒仕子罷下候ニ、江戸御留守居衆ゟノ状持下申候、御裏様衆も下り申由也、
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| 廿日 奥村少兵衛
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忠利責馬 |一、今日は、北之御丸ゟ、御馬場へ御馬せめニ被成御出候事、
鉄炮足軽某道中ノ |一、井門亀右衛門与岩成勘兵衛と申者、此比、江戸ゟ罷下候ニ付、 御前へ被 召出、道中之様子被
状報告ニ忠利ヘノ | 成御尋候処、御請能申上候ニ付而、歩之御小性ニ被 召加候、左候而、今度江戸御供可仕旨、被
応答宜キニツキ歩 | 仰出候事、
小性ニ引上ゲラル |
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| (ママ)
| 廿一日
| (有吉英貴)(三淵重政)
長崎へ書状 |一、小谷忠二郎与作右衛門・新左衛門、永崎へ遣、我々状一つ、式ア殿ゟノ文箱壱つ、頼母殿・右馬
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| 助殿ゟノ御状弐つ渡、遣申候事、
|一、杉新右衛門尉、今日江戸ゟ被罷下候事、
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竹西堂船頭ニ賞与 |一、圭長老・竹西堂を、南喜右衛門舟ニ而、被成御上候ニ付、竹西堂ゟ、喜右衛門ニかたひら壱つ被
| 下候由申候事、
忠利松井興長邸ニ |一、式ア殿へ御こほ殿御身廻ニ被成御座、直ニ御鷹野ニ被成御出候事、
こほヲ見舞ウ |
鷹狩ス |