津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■夕方散歩

2021-03-21 17:21:57 | オークション

 今日は午前午後と雨模様、夕方4時ころから太陽も顔を出したので遅まきながらの散歩に出る。
桜はまだ8分先くらいだろうか。それでも雨に打たれて、随分花を散らしていた。
水たまりでは花筏状態である。雨のせいで花見で散策する人もまったくいない。
健軍自衛隊の正面の遊歩道沿いが桜の植樹1.2キロ、裏手はクスノキやとうかえでの植栽がなされているが、夫々風と雨のせいでこのような塩梅である。

  

   地面はすべて「桜散らし」模様です。

         

          裏手はクスノキの落ち葉で「絨毯」状態でした。

              

               毎年一番に咲く桜はもう葉桜になりかけです。

                   

                        蜜をすう小鳥

                        

                          道向こうの水路の上の桜

 

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■細川小倉藩(523)寛永七年・日帳(十月十三日~十四日)

2021-03-21 12:59:28 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年十月)十三日~十四日

         |        (ママ)                               
         |   十三日   
         |                          (ママ)
忠利書状幕府将棊 |一、今日、明石権太夫・町市丞被罷上候ニ、大坂にて、道各へ成被遣 御書相渡、遣申候、其外之状
指宛       |  共相渡申候事、
         |                  (矢野吉重)
矢野吉重ヘノ絵具 |一、京都衆へ、江戸へ被差下絵書三郎兵衛ニ渡被申絵具之差帋、上せ申候事、
ノ差紙      |
         |                                     被
筑前ヨリ走女   |一、昨日、筑前ゟ走来申女三人、式ア殿へ可被召置通、被仰候へ共、式ア殿ニハ不召置候、町ノかめ
         |  や所ニ召置候由、被仰聞候事、
         | (湘雲守沅)
         |一、沅西堂、中津へ御供にて被成御越候付、御鉄炮衆壱人・のり物かき六人・人足五人被仰付候様ニ
         |  と、宇右衛門被申候事、
         |一、吉田彦右衛門、今朝病死仕候、浦上瀬兵衛へ被申候也、
         |一、福西喜太郎、今日罷下由にて登城、則、 御目見へ仕由、申候事、

         |                               
         |   十四日  加来二郎兵衛  
         |
牽馬ノ造作銀   |一、蒲田半十郎、乗馬壱疋、江戸御供ニひかせ被申候間、造佐銀可渡旨、朝山斎切帋ニ而承候也、
         |         (可政)
         |一、中折帋三帖、加々山主馬殿ニかし申候、使ハ卜うん也、
         |              (田中氏次)        (惣右衛門)
         |一、明日、江戸へ被遣候ものハ、兵庫与藤原少兵衛・山川与和田久左衛門と申者也、
         |                             (浅山)
借米ノ切手ニ一人 |一、南喜右衛門・青木三郎右衛門、かり米之切手持参仕候間、修理一判にて遣申候、兵庫ハ御用ニ御
ノ判       |  広間へ被罷出ニ付而、右之仕合候、此段前かと兵庫とも談合仕置候ニ付而、判にて遣候也、
笠持草履取    |一、中津御供ノ御笠持弐人・御さうり取弐人不足仕候間、別人を被仰付可被下由、喜蔵申候事、
         |                                      (精)
宗像景延江戸ニテ |一、宗像清兵衛、江戸にて不届儀有之付、知行ノ内、被為押置候へ共、御郡之儀を情を出し候由、立
不届ノ儀アリ   |                                                                    (立政)
知行差押ヲ免ズ  |   御耳候ニ付、被返遣之旨、奉道家左近右衛門、
         |                                          (ママ) 
上田忠左衛門モ免 |一、上田忠左衛門も、前かと知行ノ内、被為押置候へ共、御馬やニよく詰、御奉公仕候通、被通 聞
サル       |  召候間、被返遣旨、左近右衛門を以、被 仰出候也、
         |一、治ア・おき所ゟ
         |  〃〃 〃〃〃〃            (元次)
小々性細引綯イノ |一、御小々性衆ノほそひきなわせ申奉行、芦田與兵衛与大川新左衛門申付候也、
奉行       |
江戸ヘノ物数覚  |一、明日、江戸へ被遣御鉄炮衆兵庫与藤原少兵衛・山川与和田久左衛門ニ渡ス物数ノ覚
         |   (松野親英)(町)
         |  一、織ア・三右衛門へ被遣 御文箱一つ、
         |    (松井興長)(松井康之室)
         |  一、佐渡殿ゟ、自徳院殿へ被遣御状一包、
         |    (主水)
         |  一、寺嶋へ、我々ゟノ状一つ、
         |              (宕)
愛宕ノ茶壷ヲ下ス |  一、京衆へ、御つほを愛岩ゟ取下置候へとノ状、大坂ゟ届候へと申付、遣、
         |
                〇コノ間、落丁アルカ
         |
         | 同日  (重嘉)
         |一、横山助進与久留市兵衛、御家中ゟ御やとい被成御小人、御郡にての賄奉行ニ遣、
         |   (長晟)
浅野長晟飛脚へ賞 |一、浅野但馬様へ被遣御飛脚罷下候、但馬様ゟ御返書持■下ル、御飛脚ニ、金壱歩弐つ被下候由申
与        |  候、但、御飛脚ハ御小人也、


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■再考小倉藩葡萄酒 (二)ガラシャの菩提

2021-03-21 06:43:06 | 小川研次氏論考

        二、ガラシャの菩提

        ガラシャの霊的指導者であったグレゴリオ・デ・セスペデス神父が没する1611
        年を最後に忠興はその姿勢を一変させる。江戸幕府の禁教令に従い、領内のキ
        リシタンに棄教・転宗を迫ることになる。
        「予の国には伴天連もキリシタンもいらない。伴天連グレゴリオ・デ・セスペ
        デスが生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるから、すべてを破壊せず
        にいるのだ」(「1611年度日本年報」ジョアン・ロドリゲス・ジランのイエズ
        ス会総長宛、1612年3月10日付、長崎発信)
        慶長十四年(1614)の『御国中伴天連門徒御改之一紙目録』(松井家文書)によれ
        ば、転宗者は藩内全体で2047人(奉公人105人、農民・町人1942人) である。(『
        大分県史近世篇II』) 
        これは、「小倉の市(まち)」だけでも三千人以上いたとされるから(「1605年日
        本の諸事」『イエズス会日本報告集』)、多くのキリシタンが転宗しなかったと
        みられる。
        1612年に教会も破却され、ガラシャの御霊への祈りの場が無くなったのである。
        細川家記『綿考輯録』に「伽羅舎様」(がらしゃさま)に関する記述がある。
        「豊前小倉の切支丹寺にて(ガラシャの)絵像に御書かせなされけるに、切支丹
        は死を潔くする事をたっとぶにより、火煙の内に焼させ給う半身を書きたりけ
        れば、この様にむさとしたる像を書くものがとて、宗門を改め浄土宗になされ
        、極楽寺へ御位牌を遣わされ候、」(巻十三)
        忠興が宣教師にガラシャの肖像画の作成依頼したが、火煙の中に描かれた姿に
        激怒したのである。結果、キリスト教の教会で祈っていたガラシャの位牌を浄
        土宗極楽寺(米町)へ移したという。ここで重要なことは玉子の洗礼名と小倉に
        教会が存在していたことが、日本側の史料に記録されていることである。
        現在の極楽寺は富野地区へ移転し、廃寺となり墓地を残すのみとなっている。
        残念ながら、玉子の法要の記録は皆無である。
        元和年間(1615~1624)に菩提寺秀林院が建立される。現在の北九州市立医療セ
        ンター辺りである。
        「豊前に秀林院御建立は元和年中と相見え、同十年の正月寺社御建立札の書付
        に秀林院も見え申す候、」(『綿考輯録』)とあり、元和七年(1621)より九年
        (1623)としている。
        つまり、忠利が忠興隠居後に中津から小倉に入った元和七年(1621)以降となる。
        それでは、教会破却後の1612年から1620年までの9年間は、どこで弔ってい
        たのだろうか。
        1611年末に忠興により小倉から追放された伊東マンショは、忠利のいる中津に
        向かった。そして、クリスマスの様子を伝えている。
        「当地の城には領主の長子(三男だが嫡子)で国の世継ぎである内記殿が居住し
        ていた。このことについてはこれまでなんども、どれほどの恩寵を被り、信仰
        を擁護してくださったか記した。その父君のように心変わりは決してせず、そ
        ればかりか、あのような酷い仕打ちは好まないと公然と言い、司祭及びキリシ
        タン達に、主(キリスト)の降誕を、内も外も凡ゆる装飾で荘厳に祝うことを許
        した。」(「1611年度日本年報」)
        忠利はマンショが長崎へ去る時に「自らの判断で、来たい時にはいつでもキリ
        シタンを訪ねられるよう許可し、将来についても大きな希望を与える」と伝え
        た。(同上) しかし、マンショは翌年、長崎で病没する。
        忠興の重臣であり豊前国のキリシタンの柱石加賀山隼人の妹(姉)ルイザがイエ
        ズス会日本副管区長に宛てた書簡に「忠興殿が私どもが我が家に匿っている伴
        天連様を長崎に送り返す様にお求めになりました。」(「1615,1616年度日本年
        報」)とあり、司祭が潜伏していたのである。
        また、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も豊前に入っていた。(1620年
        『日本切支丹宗門史』) ジュリアンは小倉で捕縛される1632年まで豊前国に潜
        伏していたのである。
        この様な状況下で、神父らは潜伏し、キリシタンへの奉仕を継続していたのだ。
        忠利は中津にて、母ガラシャへのミサを挙行していたと推考できる。

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