二、ガラシャの菩提
ガラシャの霊的指導者であったグレゴリオ・デ・セスペデス神父が没する1611
年を最後に忠興はその姿勢を一変させる。江戸幕府の禁教令に従い、領内のキ
リシタンに棄教・転宗を迫ることになる。
「予の国には伴天連もキリシタンもいらない。伴天連グレゴリオ・デ・セスペ
デスが生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるから、すべてを破壊せず
にいるのだ」(「1611年度日本年報」ジョアン・ロドリゲス・ジランのイエズ
ス会総長宛、1612年3月10日付、長崎発信)
慶長十四年(1614)の『御国中伴天連門徒御改之一紙目録』(松井家文書)によれ
ば、転宗者は藩内全体で2047人(奉公人105人、農民・町人1942人) である。(『
大分県史近世篇II』)
これは、「小倉の市(まち)」だけでも三千人以上いたとされるから(「1605年日
本の諸事」『イエズス会日本報告集』)、多くのキリシタンが転宗しなかったと
みられる。
1612年に教会も破却され、ガラシャの御霊への祈りの場が無くなったのである。
細川家記『綿考輯録』に「伽羅舎様」(がらしゃさま)に関する記述がある。
「豊前小倉の切支丹寺にて(ガラシャの)絵像に御書かせなされけるに、切支丹
は死を潔くする事をたっとぶにより、火煙の内に焼させ給う半身を書きたりけ
れば、この様にむさとしたる像を書くものがとて、宗門を改め浄土宗になされ
、極楽寺へ御位牌を遣わされ候、」(巻十三)
忠興が宣教師にガラシャの肖像画の作成依頼したが、火煙の中に描かれた姿に
激怒したのである。結果、キリスト教の教会で祈っていたガラシャの位牌を浄
土宗極楽寺(米町)へ移したという。ここで重要なことは玉子の洗礼名と小倉に
教会が存在していたことが、日本側の史料に記録されていることである。
現在の極楽寺は富野地区へ移転し、廃寺となり墓地を残すのみとなっている。
残念ながら、玉子の法要の記録は皆無である。
元和年間(1615~1624)に菩提寺秀林院が建立される。現在の北九州市立医療セ
ンター辺りである。
「豊前に秀林院御建立は元和年中と相見え、同十年の正月寺社御建立札の書付
に秀林院も見え申す候、」(『綿考輯録』)とあり、元和七年(1621)より九年
(1623)としている。
つまり、忠利が忠興隠居後に中津から小倉に入った元和七年(1621)以降となる。
それでは、教会破却後の1612年から1620年までの9年間は、どこで弔ってい
たのだろうか。
1611年末に忠興により小倉から追放された伊東マンショは、忠利のいる中津に
向かった。そして、クリスマスの様子を伝えている。
「当地の城には領主の長子(三男だが嫡子)で国の世継ぎである内記殿が居住し
ていた。このことについてはこれまでなんども、どれほどの恩寵を被り、信仰
を擁護してくださったか記した。その父君のように心変わりは決してせず、そ
ればかりか、あのような酷い仕打ちは好まないと公然と言い、司祭及びキリシ
タン達に、主(キリスト)の降誕を、内も外も凡ゆる装飾で荘厳に祝うことを許
した。」(「1611年度日本年報」)
忠利はマンショが長崎へ去る時に「自らの判断で、来たい時にはいつでもキリ
シタンを訪ねられるよう許可し、将来についても大きな希望を与える」と伝え
た。(同上) しかし、マンショは翌年、長崎で病没する。
忠興の重臣であり豊前国のキリシタンの柱石加賀山隼人の妹(姉)ルイザがイエ
ズス会日本副管区長に宛てた書簡に「忠興殿が私どもが我が家に匿っている伴
天連様を長崎に送り返す様にお求めになりました。」(「1615,1616年度日本年
報」)とあり、司祭が潜伏していたのである。
また、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も豊前に入っていた。(1620年
『日本切支丹宗門史』) ジュリアンは小倉で捕縛される1632年まで豊前国に潜
伏していたのである。
この様な状況下で、神父らは潜伏し、キリシタンへの奉仕を継続していたのだ。
忠利は中津にて、母ガラシャへのミサを挙行していたと推考できる。