津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(514)寛永七年・日帳(九月六日~十日)

2021-03-12 11:27:17 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)六日~十日

         |                        
         |   六日  加来二郎兵衛
         |
鍋島使者山村某ハ |一、なへしま殿ゟ御使者、山村喜兵衛と申仁也、御小袖弐つ被遣候也、但、九日之御祝儀ニ被参候也、
重陽之祝儀ニ来ル |
寛永五年六年惣銀 |一、嘉永五年之御惣銀ノ 御袖判弐枚、同六年ノ 御袖判弐枚、中神與兵衛被請返ニ付、 御前へ被
ノ袖判ノ判を消ス |       〃
家老ノ判ヲ消サシ |  差上候処、 御判御けし被成、御出候を、則、中神與兵衛ニ相渡申候、御家老衆御判を御けし候
ム        |  様ニ可被仕通、申渡候事
諸方ヘノ書状覚  |一、三斎様へ被進 御書箱壱つ、
         |  (烏丸光賢室、三斎女)
         |一、御万様へ之御文箱壱つ、
         |   (康勝)
         |一、伊丹播磨様へ 御書箱壱つ、
         |一、松屋九郎兵衛所へ、飯田才兵衛ゟ之状壱通、内ニ 御書有之由也、
         |   (成政)
         |一、坂崎清左衛門所へ、飯田才兵衛ゟノ状壱通、御用ノ儀申遣由也、
         |一、竹村弥右衛門所ゟ、野村少左衛門と申仁ニ状壱通、是ハ小野九郎右衛門ニ渡候ヘハ埒明申也、
         |一、我等共ゟ、寺嶋主水所へ之状壱通、
         |  右之前、北崎弥三右衛門ニ相渡、明日可申上候也、

         |                        
         |   七日  奥村少兵衛
         |
         |一、田川ゟ、松茸三拾弐本参候、則、 御前へ上申候事、
         |  (直正)
         |一、寺本与之江口太兵衛・友田二郎兵衛与梶原久丞、両人八月十日ニ江戸へ被遣候、 三斎様へ
         |        (相模足柄郡)   八月廿二日ニ
三斎へ小田原ニテ |  御状被進候、小田原■にて懸 御目、御書を上ヶ、御返事取、下申由にて、江口太兵衛罷下候也、
状ヲ上グ     |  梶原久丞ハ江戸へ通り申候也、
初見ヲ願ウ男子ノ |一、御目見へ仕度と申上子共ノ覚
書付ヲ上グ    |
         |  歳九つ        十一      十五       十六       十九       十三
         |   田辺つちの介  寺井藤蔵  金津十二郎  沢村権十郎  金子久四郎  ふわ大介
         |  廿一       左兵衛子 廿  十二    十六    仁右衛門子八つ    吉兵衛子歳十一
         |   早川久大夫  加藤少太夫・権介  山田市ノ介  平野甚九郎  岡伝蔵
         |  右ノ分、書付上候也、
         |                             (林隠岐)
後藤又市郎伜へは |一、後藤又市郎せかれニ被遣候一帋、幷はつしノ目相尋候様ニと、おき所ゟ申越候弐付、尋遣候処、一
つしノ目ヲ尋ヌ  |  歩三拾粒はつし、金三十四両三分被下候由、書付参候事、  

         |                        
         |   八日  加来二郎兵衛
         |
         |       (長氏)
忠利平野長氏邸ニ |一、今朝ハ、平野九郎右衛門尉所へ被成 御成候事、
臨ム       |
         |  (築城郡)   繕
椎田茶屋修繕奉行 |一、椎田御ちや屋〇奉行ニ、岩崎角丞・福田甚大夫申付候也、
任命       |
絵画奉行任命   |一、ゑかき奉行ニ、寺川源太郎・鯛瀬九郎太郎、両人被仰付候、
         |一、金子文三郎かわりニ、弓削與二右衛門申付候事、
         |  (伊勢桑名郡)
         |一、桑名へ御使ニ被遣候御鉄炮衆、伊藤金左衛門与藤本少介・芦田與兵衛組二右衛門、
         |一、湯浅三大夫煩ニ而、九日之御礼ニ不罷出候由、加来兵衛方被申候也、
後藤又市郎母没ス |一、星野少介被申候ハ、辛川忠介頼被申候ハ、後藤又市郎母儀、被相果候、忠介為ニハおばにて御
伯母ノ服忌ニ欠礼 |  座候ニ付、いミ御座候、就夫、明九日ノ御礼ニ不罷出候間、此段申上くれ候へと、被申候也、
病気欠礼     |一、平野治ア左衛門煩にて、今度之御礼ニ不罷出候由、加藤左兵衛を以、被申聞候事、

         |                        
         |   九日  奥村少兵衛
         |
上リ弓ヲ天守道具 |一、森禎勇弓弐張、御奉行所に上り御座候を、皆川治アゟ、御掃除坊主ノ長円取弐参候間、相渡申
奉行へ渡ス    |  候也、
         |                                 (加藤)
御印帳根合ニ知行 |一、前かとゟノ御印帳六冊、有次第根合ノため、松丸就へ渡置候也、但、新兵衛ニ渡候也、
方奉行へ渡ス   |
         |十日    (池田忠雄)
池田忠雄ヘノ使者 |一、備前之宰相様へ、歩之御小性尾藤勘丞御使者ニ被遣候処、彼地にて、御道服壱つ拝領仕通申候被
小袖ヲ賞与サル  |  申候、今日被罷帰候事、      

         |                        
         |   十日  加来二郎兵衛
         |
祇園社神事能ニ臨 |一、今日は、祇園御神事之御能御座候、 殿様も自未明、祇園へ被成 御座候事、
ム        |

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(六)中島誅伐・(七)秀吉の野望・(八)キリシタン官兵衛

2021-03-12 06:17:47 | 小川研次氏論考

六、中島誅伐

小野精一著『大宇佐郡史論』から中島誅伐に関する記述を一部紹介しよう。

天正十三年(一五八五)十月二日、宿敵中島統次(むねよし)により時枝城を陥落され、芸州に逃れた鎮継は再び統次と戦うこととなる。
時は天正十七年(一五八九)三月一日である。
しかし、今回は黒田長政を将に三千騎という大軍と共に高家城(たけいじょう・宇佐市東高家字堀添)を目指した。
先鋒を任された鎮継は鬨を揚げて正門を攻めたが、突然、門が開き中島勢百四十騎が躍り出た。しかし、中島勢の敗色は明らかであった。
統次は最後の一戦に馬を陣頭に突撃しようとしたところに、恒吉縫殿助が抱きとめ「ひとまず豊後に落ち、大友家に頼み給え、殊に臼野の松尾民部は外戚なれば、彼に暫く身を隠し、重ねて本望を達せられよ」と諫められ、向野谷に逃げ落ちた。
外戚の松尾氏を頼ったが、黒田に内通され、黒田勢三百騎に囲まれた。統次はついに自刃する。

長政の次の標的は小倉(おぐら)城主渡邊統政(むねまさ)である。
しかし、統政は和睦を申し出た。その後、長政は時枝城に入り、人馬を休め、兵に酒などを振舞った。
それから間もなく、土岐忠秀、赤尾孫三郎など宇佐郡の国士らが長政の軍門に降った。最後は敷田の萩原親時だったが、同じく降った。
このように宇佐郡衆との政治的交渉を時枝城で行われていたことから、鎮継が明らかに群衆のリーダーであった。


七、秀吉の野望

天正十九年(一五九一)、秀吉は「日本国は既に悉く掌に入ぬ。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入て四百州の王になるへし」(黒) と近臣らに告げ、まず朝鮮へ軍を送り込むことにした。文禄の役である。
天正二十年 (一五九二)三月一日、朝鮮へ渡る軍の次第が定められた。
黒田甲斐守(長政)は三番隊で総数五千人の軍である。その陣備に「二の先 百二人 時枝平太夫」の段がある。また同じ備に「二百五十五人 後藤又兵衛」も並ぶ。平太夫鎮継は又兵衛と共に備頭に任じられていた。

もう一人、同じ備頭に「四十人 黒田安太夫」の名があるが、黒田吉右衛門(宮成公基)の第三子(号黒田蔵人)とされる。(『宇佐神宮史』史料篇 巻十四)
この安太夫は朝鮮にて武勇伝を残す。

「黒田安大夫は唐人の矢にあたり、股を馬の太腹に射付られるが、其矢をもぬかず、即当の敵に馳かかり、太刀を以てかぶとの鉢を日本人のさかやき(月代)のなりのごとく横さまに切はなしければ、敵は其まま馬より落て死にけり。名誉の利剣なりける。長政より其戦功を賞して馬を賜りける。此安大夫は豊前宇佐の城主宮成吉右衛門が嫡子なり。」(黒)

安太夫(蔵人)は、のちに黒田家に千石にて仕えるが、福島家、細川家と争奪戦の的となる。元和六年(一六二〇)に細川家に召抱えられることになる。(『綿考輯録』巻二十)

四月に長政は総数十五万八八○○人の軍勢と共に渡海した。


八、キリシタン官兵衛

文禄二年(一五九三)、一番隊隊長のキリシタン大名小西行長の招きにより、イエズス会士の司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが朝鮮に渡った。
天正十五年(一五八七)に秀吉による伴天連追放令が発令されており、非常に危険だが、行長の強い要望に応えた。朝鮮半島に上陸した最初の西洋人宣教師となる。
セスペデスの書簡に「聖人暦の聖フアンの日」とあり、一五九三年十二月二十七日に対馬から朝鮮に渡ったと考えられる。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』朴哲)

セスペデスは大阪教会で細川忠興の正室玉子と会った唯一の司祭であり、洗礼を指導した霊的指導者であった。慶長五年(一六〇〇)に豊前国に入封した忠興の元でガラシャのミサを挙行した。

さて、セスペデスは行長の熊川倭城(こもかい)に日本人修道士レオ・コファンと滞在していたが、官兵衛と長政の強い要請により機張城(くちゃん)に向かった。十五日間の滞在の際に彼らや家臣らに説教したり、告白を受けたりし、また家臣らに洗礼を施した。
敬虔なキリシタン官兵衛は後日、再び修道士を呼んだ程であった。

イエズス会ローマ文書館に所存されている未発表史料であるセスペデスの書簡の一部を長文になるが、キリシタン官兵衛を知る貴重な記録なので紹介する。
文禄三年(一五九四)の夏と推定される。熊川倭城にて書かれた日本準管区長ペドロ・ゴメス宛の書簡である。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』)

「私は高麗国の主たる国境付近の一つを担っている黒田官兵衛殿シモンとその息子の甲斐守(長政)のことを知りました。私は熊川倭城にいたので、この者たちは付き人を私のもとに送りました。彼らは自分たちの城塞に来てほしいと強く願い、船を寄こしました。ですから、私と修道士はこの者たちの城塞に行き、十五日間そこに留まりました。私と修道士は黒田官兵衛殿シモンの邸宅にいました。息子は別の邸宅にいました。この者たちは毎日一、二回公教要理の説教を聞きたいと願いました。キリスト教徒の者もいれば、異教徒の者もいましたが、有力な武将や従者たちも彼らとともにいました。黒田官兵衛殿シモンとその息子、そのほかにもその場にいたキリスト教徒たちが私に告白し、すべての者たちが大いに救われました。そして、まだ異教徒であった武将や従者たちも、すべての者が洗礼を授かりました。したがって、現在ではこの地の指導者たちとその家族はすべてがキリスト教徒です。関白殿に抱いていた恐怖心と畏敬の念からではありませんが、私がこの地にいることを隠しておくことが良いことだと思われました。信頼のおける人々のおかげで、私の存在は関白殿に知られることはなく、この地で多くの人々に洗礼を授けることができました。
その姿勢は素晴らしいものでした。黒田官兵衛殿シモンは主への奉仕を喜びとともに行い、救済への強い願いとともに神のご加護を求めるために毎日いくらかの時間を費やす姿をすべての者たちに見せました。信仰に関する書物を読み、祈ることを決めた黒田官兵衛殿シモンはそれを堅く守り、従者たちにも同じことを命じました。祈りの時間に黒田官兵衛殿シモンの邪魔をする様な者は一人もいませんでした。時々、黒田官兵衛殿シモンは書物を外に持って行きました。書物を持って出かけることは、このようなことを決断したときを思い出すためだと黒田官兵衛殿シモンは言いました。数週間が過ぎ、黒田官兵衛殿シモンは再びその修道士を呼び出しました。黒田官兵衛殿シモンはこの修道士をもう数日間自分のところに滞在させ、修道士の説教を聞いたり、個人の良心に対する懐疑心や神に感謝を述べる行為について修道士に尋ねたりするためでした。(中略)
私たちが布教活動を行わないなら、日本に留まることができると官兵衛殿が何度も言いました。」

一五九四年は日本は中国側と和平交渉に画策している時である。休戦期にセスペデスは積極的に活動していた。
文禄三年(一五九四)の『黒田家譜』に「朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、悉く日本に帰りしが、長政は機張の城を守り居給へば、当春は猶帰国し給わず。大明と和議調いて後、敵も皆退散せしかは、軍はなくて異国に逗留し給う。」とあり、官兵衛父子は機張城に滞在していた。

書簡の内容から敬虔なキリシタン官兵衛を見ることができる。
時枝平太夫鎮継はこの官兵衛の姿を見ていたが、宇佐宮弥勒寺の僧官家である鎮継は容易に受け入れることはできなかったとみられる。

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