三、キリシタン忠利
何故、忠利はキリシタンを擁護するのだろうか。
母ガラシャは生前、大阪教会にてセスペデス神父と会っている。生涯唯一の宣
教師との出会いだった。
天正15年(1587)、神父の指導により洗礼を授かったガラシャは、同年に豊臣秀
吉の伴天連追放令により平戸に追放されたセスペデスへ手紙を送っている。
その一部を抜粋する。
「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニ
マ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し
、創造主であるデウス(神)に委ねることを最良の道とし、マリアは密かに洗礼
を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆
ど健康です。」(『イエズス会日本年報(下)』)
この時は夫忠興は玉子が洗礼を受けたことも知らなかった。
さて、「三歳になる第二子」は誰を指しているのだろうか。
第二子は興秋だが、五歳であり、第三子の忠利は二歳である。原文の手紙を読
むことは不可能だが、ルイス・フロイスによる編集、また各国へ訳されている
ことから誤訳もあり得る。年齢から判断すれば、忠利に近い。
この洗礼は愛息子の死を覚悟した母ガラシャがその魂をデウス(神)に委ねるこ
とにしたのである。洗礼は信徒も行うこともでき、ガラシャに洗礼を授けた清
原マリアが再び、その子にも施したのである。この時、使用したのは「ばうち
いすもの水」(洗礼の水)であり、「ぜすきりしとくるすよりながしたまへる血
」(イエス・キリストが十字架より流す血)とされていた。(『伴天連記』)
そして、奇跡的に助かったのである。忠利はこのことを母から当然聞かされて
いたことだろう。
1595年にガラシャは大胆な行動を起こす。
「1595年10月21日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1595年度、年報」より
一部を紹介する。
「彼女はキリシタンの諸徳の道においては、いつも驚くばかりの進歩を見せて
おり、己が邸にはキリシタンの婦人以外の婦人はほとんどおいていない。彼女
はまた、夫の越中(忠興)殿に隠して二人の小さな息子に洗礼を授け、」(『十六
・七世紀イエズス会日本報告集』)
この「二人の小さな息子」は興秋(12)と忠利(10)と考えられる。長男忠隆はす
でに15歳である。さて、二人の息子はキリシタンとしての自覚はある年齢であ
るが、父忠興には隠しているために、母との約束で一切封印したのであろう。
さらに、1597年に2人の娘が洗礼を受けたことが判明してる。
「本年、またデウス(神)の慈悲に気にいることとなったことは、国主越中殿(忠
興)夫人ガラシアの二人の娘がキリシタンとなって喜んだことである
。」(「1597年ゴーメス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
「二人の娘」は長女お長と多羅(たら)である。多羅が先に受洗していたが、こ
の年にお長が「二人(ガラシャと多羅)のこの上ない喜びのうちに洗礼を授かっ
た。」
お長の夫は前野景定であったが、文禄四年(1595)の秀次事件に連座し、秀吉か
ら切腹させられていた。また、多羅は臼杵藩主稲葉一通に嫁ぐことになる。現
在の天皇家に繋がる。
しかし、三年後にガラシャは大阪玉造の屋敷で生涯を閉じた。子供らは最後ま
でキリシタンとしての母の姿を思い浮かべたことであろう。そして、彼らは「
キリシタン」であることを生涯、口にすることはなかった。
「私の魂は聖なる信仰の同じ流れの中にあり、それが報いられないのは遺憾で
ある。」(「1611年度日本年報」)
忠利の言葉である。