津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■再考小倉藩葡萄酒 (三)キリシタン忠利

2021-03-22 16:50:46 | 小川研次氏論考

        三、キリシタン忠利

        何故、忠利はキリシタンを擁護するのだろうか。
        母ガラシャは生前、大阪教会にてセスペデス神父と会っている。生涯唯一の宣
        教師との出会いだった。
        天正15年(1587)、神父の指導により洗礼を授かったガラシャは、同年に豊臣秀
        吉の伴天連追放令により平戸に追放されたセスペデスへ手紙を送っている。
        その一部を抜粋する。
        「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニ
        マ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し
        、創造主であるデウス(神)に委ねることを最良の道とし、マリアは密かに洗礼
        を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆
        ど健康です。」(『イエズス会日本年報(下)』)
        この時は夫忠興は玉子が洗礼を受けたことも知らなかった。
        さて、「三歳になる第二子」は誰を指しているのだろうか。
        第二子は興秋だが、五歳であり、第三子の忠利は二歳である。原文の手紙を読
        むことは不可能だが、ルイス・フロイスによる編集、また各国へ訳されている
        ことから誤訳もあり得る。年齢から判断すれば、忠利に近い。
        この洗礼は愛息子の死を覚悟した母ガラシャがその魂をデウス(神)に委ねるこ
        とにしたのである。洗礼は信徒も行うこともでき、ガラシャに洗礼を授けた清
        原マリアが再び、その子にも施したのである。この時、使用したのは「ばうち
        いすもの水」(洗礼の水)であり、「ぜすきりしとくるすよりながしたまへる血
        」(イエス・キリストが十字架より流す血)とされていた。(『伴天連記』)
        そして、奇跡的に助かったのである。忠利はこのことを母から当然聞かされて
        いたことだろう。
        1595年にガラシャは大胆な行動を起こす。
        「1595年10月21日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1595年度、年報」より
        一部を紹介する。
        「彼女はキリシタンの諸徳の道においては、いつも驚くばかりの進歩を見せて
        おり、己が邸にはキリシタンの婦人以外の婦人はほとんどおいていない。彼女
        はまた、夫の越中(忠興)殿に隠して二人の小さな息子に洗礼を授け、」(『十六
        ・七世紀イエズス会日本報告集』)

        この「二人の小さな息子」は興秋(12)と忠利(10)と考えられる。長男忠隆はす
        でに15歳である。さて、二人の息子はキリシタンとしての自覚はある年齢であ
        るが、父忠興には隠しているために、母との約束で一切封印したのであろう。
        さらに、1597年に2人の娘が洗礼を受けたことが判明してる。
        「本年、またデウス(神)の慈悲に気にいることとなったことは、国主越中殿(忠
        興)夫人ガラシアの二人の娘がキリシタンとなって喜んだことである
        。」(「1597年ゴーメス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
        「二人の娘」は長女お長と多羅(たら)である。多羅が先に受洗していたが、こ
        の年にお長が「二人(ガラシャと多羅)のこの上ない喜びのうちに洗礼を授かっ
        た。」
        お長の夫は前野景定であったが、文禄四年(1595)の秀次事件に連座し、秀吉か
        ら切腹させられていた。また、多羅は臼杵藩主稲葉一通に嫁ぐことになる。現
        在の天皇家に繋がる。
        しかし、三年後にガラシャは大阪玉造の屋敷で生涯を閉じた。子供らは最後ま
        でキリシタンとしての母の姿を思い浮かべたことであろう。そして、彼らは「
        キリシタン」であることを生涯、口にすることはなかった。
        「私の魂は聖なる信仰の同じ流れの中にあり、それが報いられないのは遺憾で
        ある。」(「1611年度日本年報」)
        忠利の言葉である。

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■細川小倉藩(524)寛永七年・日帳(十月十六日~十九日)

2021-03-22 10:00:36 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年十月)十六日~十九日

         |   十五日記事ナシ・脱カ?
         |
         |                                       
         |   十六日  加来二郎兵衛 
         |
         |      (佐分利)    (惣左衛門)
江戸ヨリノ書状ノ |一、江戸ゟ、兵太夫与森作右衛門・財津与岡久右衛門罷下候、江戸を九月廿五日に立、大坂ニ十月六
覚        |  日ニ着、持下状数覚 
         |  一、大文箱壱つ、 御留守居衆ゟ上ル、
         |             (浅山)(田中氏次)         
         |  一、文箱壱つ、同人ゟ修理・兵庫へ、
         |  一、文箱壱つ、三斎様御留守居衆ゟ、貴田半左衛門へ之壱つ、
         |         (松井興長)
         |  一、状壱からけ、式ア殿へ、
         |               (宗像)
江戸ノ掃除坊主交 |一、江戸ゟ御さうち坊主宗閑・宗古・了元・玄徳かわり候て、罷下候事、
替        |
         |  (細川光尚)(三淵宗由)
         |一、御六様ゟ、長岡藤十郎殿へ 御書被遣候也、
江戸ヨリ飛脚ノ行 |一、江戸ゟ、又、御飛脚罷下候、江戸を今月五日ノ晩ノ六つ時ニ出、大坂ニ十一日之朝たつノ上刻ニ
程        |                                   (佐分利)
         |  着仕由、申候事、持下候もの覚、下ル御鉄炮衆ハ 丞太夫与大富一兵衛・兵大夫与後藤勘介
         |  一、御内書一包、
         |  一、文箱壱つ、御留守居衆ゟ、
         |  一、壱包、同人ゟ我々へ之状、
         |
         |  一、稲葉民ア様御内衆へ、江戸稲葉様御留守居衆ゟノ状壱通、
         |  一、清田與三右衛門・神戸喜左衛門・町源右衛門ゟ、貴田半左衛門方へ之状壱通、
大坂借小早    |一、大坂かり小早之船頭茂左衛門、今日罷下候、則、返事遣候也、
         |    ( 便 )
         |一、右ノたゟニ、佐野嶋平兵衛所ゟ、糸川長左衛門方へ、切手ノ由にて、一包下候を、御船頭乃美十
         |  左衛門ニ言伝遣也、
休閑       |一、休閑様御乗上候御船頭三木清太夫、休閑様ゟ、金壱歩判壱つ拝領仕由、申候事、

         |                                       
         |   十七日  奥村少兵衛 
         |
船頭加増ノ書物  |一、御船頭衆御扶持ノ御加増被下候、御船頭衆ゟ被書上書物、白井兵介ニかし申候、写候而可差上由
         |  ニ付、右ノ分也、但、 御書判有之書物也、うつしともニ、追付上被申筈也、

         |                                       
         |   十八日  加来二郎兵衛
         |
江戸扶持方奉行  |一、横田権佐与栗田與兵衛、江戸ニ而之御ふちかた奉行ニ申付候、有田次兵衛と被申合候へと、申渡
         |  候事
         |
         |一、休閑様ゟ、御船頭三木清太夫ニ被下候者ノ書付、幷浅野但馬様へ被遣候御飛脚ニ、但馬様ゟ被下
         |  候者ノ書付、飯田才兵衛ニ渡申候也、

         |                                       
         |   十九日  奥村少郎兵衛 
         |
         | (ママ)
         |一

 

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■山本周五郎の作品に現れた「槇嶋玄蕃」

2021-03-22 06:33:41 | 書籍・読書

 最近は朝6時過ぎに起き、朝食を取りストックのブログの記事をUP、天気が良ければ朝散歩に出る。
帰ってきてから、ブログの記事のタイピング、これも二時間ほどあれば完了してしまう。
それ以外は全く閑で、身の置き所がないという感じである。
どうやら史談会の雑事をほとんどしなくなったことが原因しているようだ。
そこで勢い読書ということになる。さて何を読もうかと本棚をあさって、過日は新潮文庫の山本周五郎の「町奉行日記」を取り出したことであった。
                  町奉行日記 新潮文庫/山本周五郎(著者)

それぞれ面白く読んだが、その中の「土佐の国柱」に「槇嶋玄蕃」の名前を見つけて、少々驚いてしまった。

 ーあらすじー
 長曾我部氏に代り、土佐に入封した山内一豊は、領国の統治がうまく進まないまま死の病に伏せってしまった。
一豊は戦場を共に経めぐった老臣・高閑斧兵衛ただ一人に追腹を許した。しかしその追腹は三年後だとされ、土産を持ってこいという条件があった。
それは一豊が腐心して成しえなかった、土佐一国の平定がその条件だったのだ。

高閑斧兵衛は、家中をあざむき、山内家に反抗する地侍や槇嶋玄蕃などを巻き込み結託する形で、自らも討たれる武装蜂起を企てるという荒療治で、
一豊の積年の課題を解決した。

 以前も読んでいるから、読み進めていると筋書きは段々思い出していく。しかし「槇嶋玄蕃」の名前は憶えていなかった。
この事件については創作だろうが、槇嶋玄蕃を反山内で登場させたところを見ると、長曾我部氏と緊密な関係にあった事実があったのだろうか。
一豊の没年は慶長10年だが、事件は13年以前の事となる。事は以前に露見したが、槇嶋玄蕃はこの時この場にはいなかったという話になる。
槇嶋玄蕃(昭光・云庵)はその後西側について出陣したりしている。細川家に召出されるのは、慶長19年以降のことである。
私の槇嶋氏に対するこだわりは、わが家の初代が槇嶋氏等の肝煎によって細川家に仕官したからである。

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