大分県宇佐市下時枝に「時枝城」があり、その城主が時枝平太夫( 鎮継)である。
鎮継と名乗るから大友氏ゆかりの名前かと思うと、反大友の急先鋒ともいうべき人物である。
細川氏を勉強する私からすると、黒田蔵人という人物が頭に浮かぶ。平太夫の二男だとされる。
平太夫は黒田氏に仕えたが、息蔵人は細川家に仕えた。細川家の猛烈な誘いが効を奏した。
蔵人の妻は黒田如水を有岡城から助け出した、加藤重徳の長女である。しかし蔵人は再婚している。継室は細川忠興によって誅伐された長岡肥後の室であった女性である。
今般、小倉葡萄酒研究会の小川研次氏から、30数頁にわたる論考をお贈りいただいた。
小川氏には過去にもいくつかの論考をお贈りいただいているが、今回も御許しを得て10~15回ほどに分けてご紹介申し上げる。
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時枝平太夫(ときえだへいだゆう)
小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
一、宇佐郡衆
弘治三年(一五五七)四月三日、西国の名門大内氏を継いだ大内義長は毛利元就軍に包囲され、長門の長福院(現・功山寺)にて自死した。義長は豊後国主大友義鎮(よししげ・宗麟)の実弟であった。
同日、大友氏は豊前国の宇佐郡衆に「御両家」の忠節を賞している。「御両家」は大内家、大友家を指す。書状には郡衆旗頭の佐田隆居(たかおき)を筆頭に十五名の名が並んでいる。その一人に「時枝亀徳」(かめのり)の名があるが、「鎮継」(しげつぐ)である。(「佐田文書」『熊本県史料』)
これは、前年の弘治二年(一五五六)、大友氏に降った宇佐郡衆の忠節を確認すると共に、毛利氏への備えでもある。群衆の「宇佐郡三十六士」にも「時枝平太夫鎮継」の名もある。(『大宇佐郡史論』)
ところが、翌年の弘治四年(一五五八)の「大友氏発給宇佐郡衆宛文書」から忽然と「鎮継」の名が消える。代わりに「時枝隆令」(たかよし)の名が上がる。(『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』)
また、同年十二月一日の「吉岡長増奉書案文」に「時枝兵部少輔」の名があるが、隆令のことである。(「到津文書」『大分県史料』(24))
このことは「鎮継」から「隆令」に代が変わったことを意味する。
さて、時枝家だが、時枝左馬助惟光(これみつ)を祖とし、山城国八幡の慶安寺の子であったが、宇佐の弥勒寺の寺務役として、宇佐郡時枝村に住し、平太夫鎮継に至る。(『大宇佐郡史論』)(「両豊記」『大分郷土史料集成、戦記篇』)
当時、宇佐宮と弥勒寺は同地にあった。
「寺務社務両人事、車左右輪の如し、神事法会以相対候」(「小山田文書」『大分県史料』第一部(7)) つまり、社官家と僧官家は一枚岩だったのである。
天文十一年(一五四二)に宇佐宮大宮司補任となった宮成公建の次子「隆令」が時枝家を相続したのである。時枝系図では「宗安―鎮継―隆令」となっている。(「時枝重明系図」『宇佐神宮史』)
隆令が相続したのは、上述のように弘治四年(一五五八)と推定され、鎮継の年齢は十代であっただろう。
宇佐宮大宮司家と弥勒寺は反大友氏であった。それは宇佐宮大宮司家(含弥勒寺)と大友氏の寺社奉行であった奈田八幡大宮司の奈田鑑基(なだあきもと)との確執である。永禄四年(一五六一)七月、宇佐宮大宮司の到津公澄の館を焼討ちや謀殺するなど、宇佐宮への政治的介入を強めていた。娘を大友義鎮に嫁がせ(奈田夫人)、息子は田原家に養子に出すなど(田原親賢・ちかかた)、大友家で権勢を強め、更に宇佐宮へ圧力をかけた。社官衆の反発は必至であった。
天正七年(一五七九)四月三十日、宇佐宮は奈田鑑基の非道を「所行希代之悪逆也」として大友氏に訴えた。「弥勒寺寺務時枝屋敷分并四十町」も押領されとあるが、大宮司家と共に時枝隆令は宇佐宮境内の弥勒寺領内に居住していた。(「小山田文書」『大分県史料』第一部(7))
一方、鎮継は糸口村の時枝城(宇佐市下時枝)にいた。
このような状況から、危機感を持つ宇佐宮は、幼少の頃から武勇の才を持つ鎮継に将来の武将として期待をし、僧官家であった時枝家は「隆令」に相続させ、武人として生きることを決意させたのではなかろうか。
やがて反大友氏の首領となった鎮継は毛利氏と通じ、親大友氏の赤尾氏や中島氏へ攻撃をかけることになる。
天正六年(一五七八)、大友宗麟は日向国で薩摩国主島津義久と対峙する。世に言う耳川の戦いである。しかし、総大将田原親賢の統率力の無さで敗北を喫することになる。
この戦をきっかけに大友氏は勢力を落としていくことになる。
筑前の秋月種実(たねざね)、筑紫広門(つくしひろかど)、原田親種(ちかたね)らは、肥前の龍造寺隆信と組み反大友氏の狼煙を上げた。また、時枝鎮継は土井城主佐野親重とともに、親大友氏の赤尾氏を滅したのちに、中島統次(むねつぐ)を攻めることにした。時は天正七年(一五七九)九月二十日である。この時、統次の実兄吉直が討たれたが、互いの損傷から引き分けとなり、和解となった。しかし、翌年に鎮継は和解を反古し、中島城を攻めた。この時は大友氏の援護の可能性から引き返したのである。(『大宇佐郡史論』)
この背景には、国東の田原本家の田原親宏(ちかひろ)・親貫(ちかつら、娘婿)父子が大友氏に反旗を翻したことに起因すると考えられる。急逝した父の遺志を継いだ親貫は天正七年(一五七九)十二月、国東水軍を率いて府内を目指したが、荒天のために引き返している。
やがて、鞍懸城(くらかけじょう・豊後高田)に籠り、大友宗麟嫡子の義統(よしむね)に反意を公然とした。また、南部衆の田北紹鉄(じょうてつ)も親貫と通じ、熊牟礼城(速見郡庄内)に籠城してしまった。この二人の反旗は大友氏への最大の危機となった。この時に鎮継は宿敵中島氏に仕掛けたのだ。
義統の指示には動かなかった大友氏重臣らは、父宗麟(義鎮)が前線に出陣することで従うことになった。天正八年(一五八〇)四月、まず田北の熊牟礼城が落とされ、十月九日、大友軍の総攻撃により鞍懸城はついに陥落した。(『九州のキリシタン大名』)
敗走した親貫は宇佐郡の善光寺村に身を寄せていたが、時枝氏から殺されたと伝わる。反大友氏の親貫を殺すだろうか。典拠は『大友家文書録』であることから、創作の感が拭えない。むしろ、鞍懸城での自刃説の方が妥当と考える。(『大分県史料』33 第二部補遣5)
天正八年(一五八〇)七月九日、「時枝鎮継、䦰(くじ)を下し、向後ハ香春表」に到着するようにと萩原鎮次に催促している。(「萩原文書」『宇佐神宮史』)
同年七月十五日、大友義統は宇佐郡に長嶺與一郎入道を出陣するために、佐田鎮綱(しげつな)の協力を要請している。鎮綱は隆居の嫡子である。
この年の宇佐郡は敵味方共に一触即発の緊迫状態にあった。
天正十年(一五八二)十二月二十四日、鎮継は豊前善光寺(宇佐市下時枝)に燈料として田畠一町を寄進する。「願主時枝武蔵守仲原鎮継」は「天下泰平」「武運長久」「息災延命」など祈願をし、親大友氏の宇佐郡衆の駆逐を誓う。(『大宇佐郡史論』)
天正十二年(一五八四)正月五日、宇佐宮大宮司の宮成公基が嫡子松千代丸に大宮司の職を譲った。実は、この公基は時枝家を相続した「隆令」の男子であった。(「宮成文書」) 宇佐宮も武装化していたが、還俗して武将となり、鎮継と共に戦う決意表明でもあったのだろう。のちに黒田家に属し、宮成吉右衛門(黒田吉右衛門政本)と称する。
翌年の天正十三年(一五八五)十月二日、時枝城は中島統次により陥落される。この時、鎮継は小早川隆景を頼りに芸州(安芸国)へ逃れた。(「両豊記」)
宇佐神宮境内の弥勒寺跡