津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(518)寛永七年・日帳(九月廿五日~廿六日)

2021-03-16 14:18:08 | オークション

     日帳(寛永七年九月)廿五日~廿六日

         |       (ママ)                        
         |   廿五日  
         |
京大坂へ音信覚  |一、小野九右衛門・佐藤少右衛門へ、御書箱壱つ、
         |一、右両人ニ、続権右衛門ゟ銀子有之状壱つ、
         |一、佐藤少右衛門へ、松井宇右衛門ゟ銀子有之状壱つ、
         |   (秀成)
         |一、生嶋玄蕃ゟ、京都へ之状数多有之を、一つニ包、京衆へ当、我等共ゟ遣、
         |一、京都衆へ、我等共より御用之儀申遣状三つ、
         |一、同所へ、加々山主馬ゟノ御用ノ状壱つ、
         |一、坂崎清左衛門所へ、方々ゟノ状、其外京衆へ之状とも六つ遣候事、
         |  右之分、西沢文右衛門与樋田少兵衛ニ渡、京差上せ申候事、
         |    (宕)
愛宕福寿院祈祷札 |一、愛岩福寿院之ゟ、九日御祈祷之御札参、御返事幷使僧兼任ゟ扇子進上之礼状、主馬方ゟ遣、但、
ヲ上グ      |  使僧ハ御国ヘハ不参候、大坂まて被参候也、
         |  右ノ御飛脚ニ遣、
松茸       |一、岩石ゟ松茸壱籠百廿七本、次飛脚にて参候事、
         |                       (山本)松井家家司
下関ノ能太夫作左 |一、下関ゟ、太夫ノ作左衛門尉参申候、式ア殿ゟ、源太夫を以、被仰聞候ハ、先度参上仕、御能被
衛門来ル     |  仰付候時、めをまハし、不調法之仕合ニ御座候、其後終ニ不致参上候間、万事為御礼、参上仕由
         |  申候間、 御目見え仕せ候へと、被仰聞候、得其意申由、御返事申候事、
三斎へ松茸進上  |一、三斎様へ、松茸被進之御小早之御船頭桑田左兵衛也、御使者ニハ、かちノ御小性原田理右衛門、
三淵重政京都へ使 |一、長岡右馬助殿、京都へ御使ニ被成御上せ候ニ付而、上方にて賄銀子相渡候由ニ而、米田左兵衛・
者ニツキ上方賄銀 |  仁保太兵衛方加印之切手、豊岡甚丞方へ相渡候也、
切手       |   (螺)
小螺三升ノ用   |一、小にし三升御用候間、可取上旨、主馬奉にて被申渡ニ付、御裏奉行ニ申付候ヘハ、門司ゟ五合ほ
         |                     (塩 中 満)
         |  と持来候、休心を以、主馬方へ渡ス、京ハ塩中ミちニてニ被仰付候付而、三升取出不申候、明
         |  日残分取上可申由、門司ゟノ使申候也、     〃〃
屋敷改御印帳ヲ明 |一、やしき御改ノ御印在之帳一冊、森六左衛門尉・波多理右衛門かし申候也、
家奉行へ貸ス   |
屋敷絵図     |一、同ゑづ弐つ、溝口理兵衛に渡候、右ノ家奉行衆両人ニ、よくおしへ候へと、申渡候也、
平井某遺物三原ノ |一、平井五郎兵衛遺物として、三原之刀一腰被上候、寺川兵右衛門被持上候也、
刀ヲ上グ     |

         |                        
         |   廿六日  加来二郎兵衛
         |
         |        (扇脱)
竹西堂船頭へ賞与 |一、帷子壱つ・団一本、竹西堂ゟ南喜右衛門ニ被下、
洪長老ヨリノ賞与 |一、帯一筋・扇子三本・たひ一足、洪長老ゟ川村弥右衛門ニ被下、
卜西堂      |一、扇子弐本、卜西堂ゟ同人ニ被下、
         |一、たひ一足・扇五本、洪長老ゟ同人舟ノ梶取ニ被下、
水主ヘノ賞与   |一、扇子五本、同人ゟ同人舟ノとも・おもてノ御加子ニ被遣候、
芳長老ヨリノ賞与 |一、樽壱つ、芳長老ゟ上田惣吉舟ノ御加子ニ渡遣、
         |      (ママ)
卜西堂ヨリノ賞与 |一、同壱つ、朴西堂ゟ同人舟ノ御加子ニ被遣候、
         |               (松井興長)
         |  右之書付、懸 御目候処ニ、式ア少所ゟ心得可申遣旨、被 仰付候ニ付、式ア殿へ相渡候也、
         |一、木下右衛門尉様へ、一昨晩戌ノ刻ニ、次飛脚にて 御書被進之、今日辰之下刻ニ、御返書時飛脚
         |  にて参候事、
         |一、三斎様へ、今日松茸被進之御使者、かちノ御小性池上加介也、
道服用ノ唐物ヲ高 |一、京都ヘ之便宜ニ、御道服ニ成申ばと申から物、何ほと高直候共、弐端成共、三端成共、かい調可
価ナリトモ購ハシ |  被申候、地白ク候ハヽ、くろちやニそめさせ可被申旨、加々山主馬を以、被仰出候事、則、主馬
メム       |  ゟ京都へ被申上せ筈也、                          〃
         |      (津川辰珍) (湘雲守沅)
         |一、内裏へ、四郎右衛門殿・沅西堂なと御座候ニ、銀子持せ遣候、かちノ御小性ハ三木少介也、
三斎大坂ヲ出船ス |一、大坂ゟ御小早、今晩戌ノ刻ニ下着申候、 三斎様去廿二日ノ申ノ刻ニ、大坂へ御着被成、すくニ
海舟       |  海御舟ニ召被成、御出船候、今晩は、定而上ノ関へ可被成御着と奉存候由、小早ノ御船頭河村喜
         |          (正次) (周防熊毛郡)
         |  左衛門申候由、嶋又左衛門ニ野嶋にて相申候由申候、


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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十三)如水追悼記念聖堂

2021-03-16 09:40:27 | 小川研次氏論考

十三、如水追悼記念聖堂

「(如水の遺体は)博多の町の郊外にあったキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した」(前出「マトス神父の回想録」)

さて、如水の遺体はどこに埋葬されたのであろうか。それは長政が遺言通りに追悼記念聖堂を建立した場所である。
一六〇五年には博多に新しく教会(如水追悼記念聖堂)が建てられた。

「彼(長政)の父が自分の埋葬場所として彼に委ねていたので、殿の許可を得て美しい教会が建てられ、博多にある最も見事な寺院となった。」(『1605年日本の諸事』『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

既に五千人のキリシタンがいたが、この年に新たに六百人が受洗した。翌年の一六〇六年には、如水の三回忌にあたる記念追悼ミサが挙行された。

「長崎から準管区長フランシスコ・パシオ神父が多数の神父と修道士を連れて、我らの教会堂において如水の葬祭を行うために来た。これに筑前国殿(長政)およびその国の大身はみな参列した。(中略) 殿は我らの家で食事をし、また城内での食事に我ら一同を招待した。」(「マトス神父の回想録」)

さらに、準管区長一行は小倉に向かう。
「博多から準管区長神父は越中殿(細川忠興)の妻であった夫人の追悼式のため、小倉へ行った。その時、筑前殿は自分の厩舎から同宿やイルマンたちのため馬と乗物を芦屋まで提供し、そこからみんな船で小倉へ行った。」(同上)

ガラシャの七回忌に当たる。長政のキリシタンへの寛容なる姿勢が伝わる。

平太夫鎮継は「重だった家臣」「大身」として葬儀や記念祭追悼ミサに参列したのは容易に想像できる。また如水との絆が深かった鎮継の悲しみも察することができる。

貝原益軒『筑前国続風土記』(一七〇九年)に勝立寺に関する記述がある。

「慶長八年(一六〇三)四月二十五日、博多妙典寺において、日忠と耶蘇の僧いるまん(修道士)と、宗旨の優劣を論じ、問答に及び、日忠あらそい勝ける故、長政公感じたまい、耶蘇が居たりし寺地を給わり、此所に梵刹を建させ、宗論勝て立たる寺なればとて、勝立寺と號を給りける。」

日蓮宗妙典寺(博多区中呉服町9-1)にて、日蓮宗の僧とキリスト教の修道士が論争した「石城問答」(せきじょうもんどう)である。「石城」は博多のことで、生の松原の元寇防塁にちなむ。
日忠は勝利し、キリシタン寺の土地を譲渡されたとあるが、一六〇三年は如水も生存しており、また長政も家康に気を遣いながらもキリスト教に協力的であったので矛盾している。

日蓮宗勝立寺(中央区天神四丁目1-5)は、須崎に近く、那珂川河口の左岸に位置する。かつて博多から中島橋を渡った所の橋口町である。この付近は、延宝二年(一六七四)には藩の獄屋ができ、牢屋町と称された。また、後の宗門改の寺となる。(『角川日本地名大辞典』)

さて、「マトス神父の回想録」によると「博多の町郊外」とは、那珂川左岸の福岡側を指している。(当時は右岸側は博多町、左岸の城下町は福岡)(『古地図の中の福岡・博多』) つまり、居住している博多側から見ているのである。
一六〇四年頃は、須崎浜の「松林」もあったと推測できる。
このことから、如水追悼記念聖堂である教会は勝立寺の地にあったと考えられる。

一六一二年の禁教令に対し、長政は「天下の主(将軍)に自らの正当性を主張できることを望んでいたので、彼の最も親しい家来たちに信仰を棄てるように命じた。しかし、これが彼の意図でないことを示すために、信仰に特に熱心な数名の者だけに命令し、他の者には苦難を与えず、比較的身分の低い者や農民たちにはいっそう苦しめはしなかった。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)と上級家臣だけに棄教を命じている。

また、長政は司祭にキリシタン家臣の名簿を作成するように依頼したが、拒否されている。「殿は名簿に記されている数人を困らせるつもりはなく、数人を隠しておくよりは、(名簿を作って)何千人ものキリシタンを救うほうがよいではないか」と言われたが、再度拒否された。(同)

長政はキリシタン保護の姿勢を崩さなかったが、ついに幕府に知れることになる。

「今年、彼が国王の政庁へ参勤した際に、国の支配者たちは、教会を破壊して神父たちを領内から追放しなければ罰すると彼を威嚇した。そこで、彼は国へ帰ってくると、たいそう丁重に神父にこのことを知らせ、神父が修道士たちや説教者たちとともに長崎へ行くように指示した。管区長神父には、自分としては他に方法がなかったことでもあるので、今回の措置をゆるしてもらいたい、また、神父たちにはキリシタンを世話するために、都合のよい時には、いつでも自由に来て差し支えないと述べた。」(「一六一三年度の日本諸事」同)

長政がやむなく教会の破却を命じた。先述の勝立寺の寺地は教会破却後の一六一三年以降に譲渡されたと見る。
その時、如水の遺体はどうしたのだろう。
一六〇六年、長政は父の菩提寺として京都大徳寺塔頭として龍光院を建立し、如水の墓碑を建てた。そして教会破却後に遺体(遺骨)を移したのであろうか。分骨も考えられるが。
また、崇福寺(博多区千代)にも墓所を設けたが、一九五〇年の発掘調査により「空っぽ」と判明した。(四月十八日付朝日新聞夕刊)
キリシタンとして逝った父の御霊救済にはキリスト教式でなければならないことは、かつて洗礼を受けた長政は理解していたに違いない。

しかし、敬虔なキリシタンは信仰の灯火を消さなかった。 元和三年(一六一七)八月二十六日の「イエズス会士コーロス徴収文書」に署名したキリシタンは筑前国のコンフラリア(信徒組織)の組頭として三十九名もいた。(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』) 
中には、末次家の「末次惣右衛門トメイ」、末次興善(コスメ)の養子とされる「末次善入ドミンゴ」や神屋宗湛の身内と思われる「神屋肥後右衛門バルタサル」の名もある。
崇福寺の黒田如水の墓

 

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■家老の忠義・大名細川家存続の秘訣

2021-03-16 06:17:18 | 書籍・読書

                                                            歴史文化ライブラリー<br> 家老の忠義―大名細川家存続の秘訣 

出版社(吉川弘文館)内容情報

戦国の荒波を乗り越え、肥後熊本藩主となった細川家。主君への忠義が絶対ではなかった時代、筆頭家老松井康之と息子興長の価値観は細川家の存続にいかなる影響を与えたのか。天下人とのつながり、主君の守り立て、島原・天草一揆における九州諸藩との連携などから、主家の存続を第一義とし、藩政の維持・発展のため力を尽くした家老の生き様を描く。

内容説明

戦国の荒波を乗り越え、肥後熊本藩主となった細川家。主君への忠義が絶対ではなかった時代、筆頭家老松井康之と息子興長は細川家存続にいかなる影響を与えたのか。主家と藩政の維持・発展に尽くした家老の姿を描く。

目次

細川家を支えた家老の忠義―プロローグ
家老への道のり
政権移行期の松井康之
御家第一主義の継承
八代城主としての松井興長
家老による藩主守り立て
細川家を永続ならしめた康之と興長の生き方―エピローグ

著者等紹介

林千寿[ハヤシチズ]
1968年、熊本県に生まれる。2009年、熊本大学大学院社会文化科学研究科文化学専攻博士課程修了、博士(文学)。現在、八千代市立博物館未来の森ミュージアム学芸員

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