津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■爺様走る

2021-03-27 16:10:42 | 熊本史談会

                                     

  桜の後ろと右手の低層部が熊本市民会館、いつもの熊本史談例会の会場です。
これは午前九時頃の写真でまだ人影が見えませんが、史談会を終えて外に出た13時過ぎは観光客でごった返ししていました。
右手がすぐ行幸橋、熊本城の入り口です。
最後のお世話の史談会に準備万端で出かけたつもりでしたら、PCのマウスを忘れてきており、講演30分前に会場を飛び出し、約1キロほど離れた電気店に走り込みました。開店は10時、しばらく待って5Fに駆け登り、マウスを購入すると79爺は街中を走って10分程で取って返し、開演の10時20分の5分前に飛び込むという離れ業でした。
講演の方のお手伝いも無事にすみ、本当の意味の8年間の御奉公を終えました。
今後は一会員として、毎月の例会出席を楽しみにしたいと思います。
走ったおかげで、自宅に帰ってからはしばらく椅子にへたり込んでしまいました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■再考小倉藩葡萄酒 (七)葡萄酒製造法

2021-03-27 14:45:59 | 小川研次氏論考

         七、 葡萄酒製造法

        天正八年(1580)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
        「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と
        言うなり」
        「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷
        ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ
        三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」
        これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎
        そして氷砂糖である。当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
        さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方であ
        る。主な文献から引用してみよう。

        『料理塩梅集』寛文八年(1668)
        「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜ
        る。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米
        とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そ
        こに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度
        程よくかき混ぜること。
        もう一つの方法
        山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これら
        を桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる
        。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる
        。そして、空気に触れないように桶に詰める。
        甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
        桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。
        又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」

        『本朝食鑑』元禄十年(1697)
        「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾
        った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この
        汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭
        を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさ
        らに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ
        =チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種
        類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」

        『手造酒法』 文化十年(1816)
        葡萄酒
        焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒 、
        山ぶどう酒
        ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升
        本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようであ
        る。
        葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思わ
        れる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明
        した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
        (のちにチンタ酒は蒸留酒ブランデーだったことがオランダ商務館館長により判
        明)

        このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていたのである。
        本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
        山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(529)寛永七年・日帳(十ニ月四日~六日)

2021-03-27 07:05:28 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)四日~六日

         |                                       
         |   四日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、当番修理・兵庫也
         |  (城信茂) (豊後大分郡)                 (乱丁アルモ、旧二復ス)
城信茂府内横目着 |一、城野織ア殿苻内へ御横目被成御下候付、「御鷹野黒之御馬ニ、御中間三人・荒仕子壱人被成御付、
任  鷹野馬中間 |  御逗留中被成御借候間、今月七日、八日ノ比、別苻迄遣置、織ア殿苻内被成御着候ハヽ、引可参旨、
ヲ貸スベシ    |                        (杉)
荒仕子奉行ソノ欠 |  此中被 仰下ニ付、申付候、遣可申人足無之由、弥三郎申候、御郡之夫をかわり/\ニ遣候事い
ヲ申ス      |  かゝニ候間、御鉄炮衆ニ付居申候御鉄御荒仕子ノ内を、一人取遣候へと、弥三郎ニ申渡候、其か
         |                 〃〃
         |  わりニハ、御郡夫を可申付通、申聞せ、遣候事、
海上ノ絵図    |一、六端帆之御小早内ニ、海上ノ絵図入申候かミ袋、其儘、右之御舟ニ被為置候を、持下候由にて、
         |  村上七左衛門持テ登城候、林おきニ渡置候、右袋ノ内ニ、物数七つ入テ有之由、七左衛門申候事、
         |   (一成)                      (近江甲賀郡)                            (ママ)
         |一、道家帯刀殿ゟ、同弥太郎ニ付上せ被申飛脚、土山ゟ戻被申ニ、 御書被下候」をとり、今日ニ着
         |                                    (コレマデ乱丁)
         |  仕申候事

         |                                       
         |   五日  奥村少兵衛 
         |
         | (田中氏次)(横山重嘉)
         |一、兵庫・助進当番也、
         |  (築城郡)
寒田牧山ニ猿出没 |一、寒田牧山之御番ノもの参候テ、申候ハ、此比猿出候而、御馬をおとし申候、玉薬無御座候而、何
ス        |  共不罷成候間、請取申度と申候間、安場甚左衛門ニ申候而、請取候へと申付候事、
番人玉薬ヲ乞ウ  |
弓足軽釈放後ノ切 |一、服部九郎左衛門尉組御弓衆靍田宇右衛門御切米之儀、去年十月ニ籠者被 仰付候而、当年霜月四
米給与方     |  日ニ籠ゟ御出被成候間、彼もの御切米之儀は、去年分ハ正月ゟ九月迄之分八石被遣、当年ハ霜月
         |                            松尾
         |  ゟ十二月迄之分を被遣候て可然と存由、松の丸衆ゟ、小頭彦兵衛使ニ而、被申越候間、可然と存
         |  通、申遣候事、
         |    (太)
銀屋具足屋ノ扶持 |一、銀や大郎右衛門・御具足や忠兵衛、御扶持方被遣候御印写を、松丸衆へ遣候事、
方        |
         |               (総)
安養寺来ル    |一、安養寺能登ゟ被罷下候ニ、捴持寺ノ長老如意庵ゟ、修理・兵庫へあたり参候状被届候事、
鷹匠ノ屋敷ニ鷹部 |一、冨田彦右衛門、屋敷ニ御鷹へや無之、御鷹煩時不成由候間、立日遣候へと、矢野勘右衛門ニ申渡
屋建設      |  候事
         |            (塀)
         |一、本庄久右衛門屋敷之屏・家繕之儀、矢野勘右衛門ニ申渡候事、

         |                                       
         |   六日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番助進・修理亮、
         |   (一成)
三斎ノ小鼓打ノ出 |一、道家帯刀知行所へ参候次而ニ、中津へ御見廻ニ参候処、 三斎様被成 御諚候ハ、小鼓打中嶋二
         |                         (ママ)
府        |  郎兵衛儀、御客人御下被成儀不定候二付、又、尋ニ遣被遣候、いよ/\不被成御下候ハヽ、二郎                  
         |  兵衛儀、江戸へ可被遣候、京都ゟノ今御一左右次第ニ可被成候間、其分ニ心得可仕旨、被 仰下
         |  候事、
         |一、竹内作丞、岡本源次を以被申聞候ハ、在郷へ罷越候、相当之御用御座候ハヽ、在郷へ可被仰下由
         |  日申候、心得申候間、返事申候事、
黒犬猪子ヲ喰捉ル |一、岩田■喜右衛門、ちいさきいのこ壱つ、服部佐伝次ゟ被 召上候、黒ノ御犬弐くわせ申由にて、
         |        (規矩郡)
         |  持せ上り申候、貫山ノつじ畑山にて、くわせ申由申候、松ノ御丸衆被申分可有之間、松ノ丸衆次
         |  第ニ渡候へと、申渡候事、
         |                 (大里、規矩郡)
肥前ノ町船難波シ |一、肥前国町舟米ヲ積、罷上り候処、内裏ノ沖にて破損仕候を、内裏之者、長門浦之者罷出、悉米を
大里長門浦ノ者損 |  取上候由、御浦奉行申来候、就其、辛労分ヲ出可申由、舟主申候へとも、長門浦之者ハ取申候、
米ヲ全テ買上グ  |  内裏浦之者ハ、下として取申儀ハ如何可有之哉と、御浦奉行衆被申候、返事二取不申儀、一段可
辛労分      |  然由、申渡候事、
浦奉行指示ヲ乞ウ |
長門浦ノ者出舟ノ |一、右之様子ニ付、長門浦之者ハ賃米を取申候、左候ヘハ、内裏浦ゟハ舟数多出申候、長門浦ゟハ舟
多少ニ拘ラズ賃米 |  すくなく出申ニ付而、賃米も少渡申候、就其、長門浦ゟ申候ハ、此度之賃米、舟之多少ニ不構、
ノ等分ヲ主張ス  |  とかく等分ニ分候て取可申由申、若、無左候ハヽ、以来、か様之儀、此辺ニ出来候共、内裏浦之
         |  者にはかまハせ申間敷由申候、如何可有之哉と申候、此段ハ御年寄衆へ談合可申由、申渡候事、
         |     御年貢方   (加藤)(粟野)(豊岡)
築城郡皆済目録  |一、築城郡〇皆済之目録、新兵衛・伝助・甚丞へ参由候而、状参候事、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■最後の御奉公

2021-03-27 06:45:17 | 徒然

 今日は熊本史談会の例会、長く事務局を務めた私の担当する回の最後の一日である。
熊本日日新聞に例会の案内を掲載していただいているが、今回は参加者が一番多くなりそうで嬉しい悲鳴である。
昨日はお昼過ぎまで、資料を一度ならず二・三度コピーをする有様であった。
今回は「近世熊本の交通・街道と往還」の二回目、「豊前街道+薩摩街道、日向往還」を取り上げる。
講師は公開の会員で「放牛石仏を守る会」の会長さんN氏、放牛石仏100数重体の所在地を訪ねて歩き回って居られ、街道・往還にもお詳しい。
今回一般参加者が一番多いということは、このような身近だけれどよく知らないことを勉強したいという想いが在られるみたいで、参加を希望する御一人が申込み電話の中で話されていた。
今後の史談会運営の中で、大いに生かさなければならないと思ったが、私の御奉公は今日が最後である。
天気も良し、会場の熊本市民会館は熊本城の入り口にあたる場所だが、コロナ禍の中とはいえ、桜見物の人が多いことだろう。
さて、PCやら資料やらをリックに詰め込んでお出かけすることにいたしましょう。8年間の最後の御奉公です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする