津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日の桜

2021-03-30 17:39:04 | 熊本

                                   
             コロナ禍の中、お花見の人が全く見えない桜の名所「健軍自衛隊通り」熊本城とは大違いです。

         

                                    

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■再考小倉藩葡萄酒(十)結び

2021-03-30 09:31:12 | 小川研次氏論考

         結び

        小倉藩の葡萄酒製造は極めて限定的であった。
        その原因はキリシタン禁教の時代であったからである。細川忠利は敢えて挑戦
        していた。多くのキリシタン家臣を抱え、神父らを保護し、母ガラシャの御霊
        救済のためにミサを挙行していたのである。
        「彼女(ガラシャ)は洗礼を授かってから十一年(実は九年)になるが、この全期間
        中に一人の司祭に会ったこともなければ教会へ行ったこともなく、またミサに
        も説教にも与ったことがない。」(「1596年12月13日付け、長崎発信、ルイス
        ・フロイス」)
        ガラシャは生涯、キリスト教で最も重要とされるミサの「聖体の秘跡」を授か
        っていなかった。
        1587年に洗礼を受けたが、夫忠興により外出禁止を強いられていた。逆臣明智

        光秀の娘であることの警戒感に精神的に不安定であったことが原因と思われる。
        しかし、ガラシャの悲願は神父と会い、聖体拝領を授かることであった。
        一時は忠興との離婚を考え、九州へ向かうことを神父に相談している。
        また、最近判明したことだが、ガラシャの亡くなる3ヶ月前に友人へ送った手
        紙に「もうすぐ落ち着きますので、近いうちに豊後に参りますゆえ、あなたに
        も是非お越し下さいますようお待ちしております」と書かれていたという。
                           (NHK番組『歴史ヒストリア』)
        慶長三年(1598)、忠興は丹後国にいたが、豊前国杵築を飛び領地として拝領し
        ていた。ガラシャはこのことを夫から聞き及んでおり、九州に行くことを楽し
        みにしていたのである。しかし、叶わなかった。慶長五年(1600)7月17日、37
        歳の人生を閉じた。
        その母の無念を深く理解していたのが、忠利であった。
        慶長十五年(1610)七月七日付の家老宛忠利書状に、忠興が小倉の禅寺でガラシ
        ャの法要を行うとしたことに、「半天連にて御とむらい候へハ、申すに及ばす
        候」と神父による法要であれば問題ないとしている。(『細川ガラシャ』細川ガ
        ラシャ展実行委員会)
        忠利にとって母の魂の救済はキリスト教式でなければならなかったのである。
        ガラシャが没した年1600年から1632年までの32年間、その御霊を祈り続けた
        地は、豊前国小倉であった。その証が小倉藩葡萄酒である。(了)

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 今回をもって小川研次氏の論考「再考小倉藩葡萄酒」は終了いたしました。
ご提供いただきました、小倉藩葡萄酒研究会代表にして、九州唯一の名誉ソムリエであられる小川氏に深甚なる敬意を表します。有難うございました。

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■細川小倉藩(532)寛永七年・日帳(十ニ月十三日~十四日)

2021-03-30 06:47:02 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)十三日~十四日

         |                                       
         |   十三日  奥村少兵衛 
         |
         |一、当番修理・兵庫也、
鷹師大橋へ泊鷹野 |一、御鷹師渡辺三十郎・横井弥次右衛門、大橋へ泊鷹野ニ被参候処、 三斎様被成御座由にて、御鳥
三斎鷹狩ノ予定ニ |  見参候間、急罷帰候由候、物数之事、
ヨリ急ギ帰ル   |
         | 隼        真鴨四つ          隼分
鷹師ノ物数    |  一、弐拾弐内  黒鴨四つ   たかべ四つ   横井弥次右衛門
         |          羽白四つ   さき六つ
         |
         | 大たか      黒かも四つ
         |  一、物数六つ内 真かも壱つ          渡辺三十郎
         |          真かも壱つ、ひろい申候、
         | 右之通、足立與兵衛ニ被相渡候へと、申渡候事、
         |
         |   (重義)        (大分)                    (申脱)
竹中領ノ人質ヲ盗 |一、竹中采女殿御領之内、おいた郡之内瀧河内ノ内、奈良田村之甚右衛門尉とものゝ人しちを、所之
ミシ者ノ処分   |         (豊後油布郡)
         |  庄屋取置候処、由布院之内、乙丸村之藤左衛門と申もの、十二月五日ニ参、七日之夜、人しちを
相互ノ事     |                                     (互)
         |  ぬすミ取、立退候処を、采女殿領之庄や・百性おりあい、からめ取候を、相遅之事候間、返シ可
竹中重義家老ヨリ |  申由、采女殿家老不破彦左衛門所ゟ、宇野七右衛門所へ申来候ニ付、七右衛門尉ゟ、御家老衆へ
ノ報    誅伐 |  其段被申越候、御家老衆ゟ我等共へ被仰聞候ハ、とかく此ものゝ儀ハ誅伐申付ものゝ事候、彼方
         |                                    (松井興長)
松井興長指示   |  ニ而誅伐可被申付通、可申遣候哉、但、此方ニ請取、由布院にて可申付候哉、佐渡殿ハ此方へ請
         |  取、由布院にて誅伐申付可然と思召候由、被仰聞候間、一段其分可然奉存通、御返事申候事、
鷹師鴨ノ処理法ヲ |一、横井弥次右衛門尉・渡辺三十郎被申候は、中津郡大橋へ御鷹つかひニ参候、遠路之儀候間、鴨壱
伺ウ       |                                         (腸)
         |  つ/\にて持せ上候儀難成候、左候ヘハ、鴨久敷置候ヘハ古ク成申候間、彼地にてわたを出
し、
         |     (鳥 臓)
         |  かもともゝけを上申候、わたの儀はすて申儀候間、たべ候てもくるしかるましきやと、被申候間、
         |  御用ニ立不申候間、被給候へと申渡候、此方ニて足立與兵衛ニ尋候ヘハ、わたハ此方にてもすて
         |  申由申候也、
         |                     (田中氏次)
家老ヨリ速見郡奉 |一、御年寄衆ゟ、宇野七右衛門所へ被遣御返事、兵庫一判にて、次夫ノ状相調、佐分利作左衛門与大
行ヘノ返書    |              (黒原、規矩郡)
         |  畠與三右衛門と申者ニ持せ、くろ原へ遣、

         |                                       
         |   十四日  河本瀬兵衛 
         |
         |一、当番修理・助進也、                           (時)
物師賄奉行台所ノ |一、黒瀬九郎右衛門尉申候ハ、御台所御肴・精進物々以下、御横目壱人被仰付、当事かいに仕度と申
肴等ノ当時購入ヲ |         (菜)                 (乱丁アリ、旧ニ復ス)
願ウ       |  候、はしたの衆さいニさせ申候間、豊後橋ニて、いなを御うた「せ候て被下候は、はしたの衆さ
端女ノ菜ニ豊後橋 |  いニ仕せ可申由、申候事、
ノ鯔ヲ打タセシム |
速見郡奉行府内幕 |一、宇野七右衛門尉所ゟ、御飛脚にて御家老衆へ状参候ニ、我等共三人へも状参候、御横目衆之替り
府横目ノ交替近キ |           (加藤忠広)(黒田忠之)
ヲ報ズ      |  近日御着之由候而、肥後殿・筑前殿ゟ之御使者被参、まち被申候間、此方ゟ之御使者、御進物急
         |  度被成御越候而可然由、被申候被申越候事、
         |             〃〃〃
加藤黒田ノ府内横 |一、幷ニ御家老衆へ参候書状、肥後殿・筑前殿ゟ、之御音御横目衆へ之御音信物付参候を、佐渡殿ゟ
目ヘノ音信物ノ書 |  御越候て、御見せ被成候事、
付        |
林隠岐所領之庄屋 |一、林をき庄屋未進七石仕り、其上納米弐石余取遣候て走り、 三斎様御領築城郡へ参、中津御奉行
未進取遣走リ中津 |  衆へ目安を上申由候、頓而戻し可申候間、戻り次第ニ、如何様ニ成共御相談之上、被仰付可被下
奉行へ目安ヲ上グ |  由、おき被申候事、
         |                     主殿与
         |一、江戸へ遣候御弓・鉄炮衆二人之内、壱人ハ〇大月」吉兵衛、一人ハ山田市左衛門与佐田理右衛門
         |  也、                   コレマデ乱丁               
上林味卜下代当年 |一、上林味卜下代忠兵衛、当年の茶代何も不残相調、罷上ル由候て、茶代ノ相濟申帳持参候て、登城
茶代決裁ノ帳ヲ持 |  仕候間、請取置申也、
参        |

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