津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(519)寛永七年・日帳(九月廿七日~卅日)

2021-03-17 07:29:25 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)廿七日~卅日

         |                               
         |   廿七日  奥村少兵衛  
         |
忠利鷹野ノ帰途誅 |一、今朝ハ、御鷹野ニ被成御出、御帰之時、御誅伐三人被成御覧、直ニ佐藤将監殿へ被成御成候事、
伐ヲ見テ佐藤将監 |
邸ニ臨ム     |                  (不破)            借やニ      (成定)                              
         |一、今日ノ三人ハ、御さうり取ノ猪介、ふわ角丞小者一人、当町ニ〇居候もの、坂崎道雲下女を盗、
         |                        〃〃
         |  田川へ走候を追懸、女をとらへ、小倉へ被召帰候処ニ、彼男罷出、女をきり候所を聞付、とらへ、
         |  しばり申候候て、つれ来候を、申上候ヘハ、此ものと三人被成御成伐負候也、
         |     〃〃                         〃

         |                               
         |   廿八日  加来二郎兵衛  
         |
鷹狩       |一、今朝ハ、御鷹野ニ被成御出候事、
鰹到来      |一、木下右衛門様ゟかつほ、関宿道にて参候事、
         |一、萩ノ保庵と申、町奉行所へ、沅西堂ゟ之状持せ遣使、今日罷帰候、保庵知行所へ被参ニ付、彼知
         |  行へ追懸ケ参候ニ付、おそくかへり候由申候事、
         |  (細川孝之女、小笠原長之室)          (小笠原長元)         (細川孝之)
小万下着ス    |一、小万様被成御乗下候御舟ニ、御加子拾人、備前殿ゟ御ふる廻候由、幷 休斎様ゟも被 召連寄、
         |  御酒被下候由、白井兵介書付上候へ共、懸 御目候儀にてハ無之ニ付、日帳ニ付置候也、
三斎ヘノ使者帰ル |一、三斎様へ、御音信之御使者ニ被遣候かちノ御小性、本庄喜三郎罷帰候、 三斎様へ、廿四日ニ
         |  (下津井、備前児島郡)
         |  下ついにて懸 御目、 御書・御音信物上申候由ニ而、 御返書取、戻申候事、今日は、定而
         |  (豊後国東郡)
         |  竹田津可被成御着と、奉存候由、御船頭白石井又左衛門申候事、
         |                    〃
明日溜池ノ通行ヲ |一、山川惣右衛門与内田七左衛門、ためいけへ、花坊所へ、明朝人を通し申間敷とノ 御意之通申遣、
止メシム     |

         |                               
         |   廿九日  
村少兵衛  
         |
三斎今朝中津ニ帰 |一、国東ゟ、蒲田次左衛門申越候ハ、 三斎様昨日申ノ刻ニ、竹田津へ御着、今朝中津へ御着可被成
        |  旨、注進申候を、則、申上候事、
         |                             (安下庄、周防大島郡)
         |一、池上加介を、 三斎様へ御音信ニ、御迎ニ御上せ被成候処、あけノしやうと申所ニ而、懸 御目
         |         御目録
         |  候而、御音信物〇ニ、 御自筆ノ御書付・御書判被遊、被進之を持参被申候事、
         |                    真下半右衛門
少峯中津へ参上  |一、明日、中津へ少峯参候ニ付、歩之御小性長や二郎介付遣候事、
         |                    〃〃〃〃〃
         |    (規矩郡)
忠利横川ニ鷹狩シ |一、明日、横川へ御鷹野ニ被成御座候、次而ニ、石を可被成御取旨、永良長兵衛を以、被 仰出候、
採石セム     |  則、岩田喜右衛門・永松右兵衛ニ申付候也、

         |                               
         |   卅日  加来二郎兵衛  
         |
藍島ノ海士雁ヲ弓 |一、あいノ嶋海士鴈壱つ持参仕、申候ハ、嶋へ参候而、程近ク居申ニ付而、弓にて射申由申候而、持
ニテ獲ル     |  参申候事、
大坂ニテ鮭ヲ買求 |一、大坂ゟ、鮭壱尺買下申候事、
ム        |
         |               (有吉英貴)                           (鬚 籠)
忠利三斎帰国ヲ祝 |一、三斎様中津へ被成御下着ニ付、頼母佐殿御使ニ被遣、今晩被成御戻候、御所柿ノ入たるひけこ弐
ヒ使者ヲ遣ス   |  つ被進之、頼母殿、則、 御前へ被成御上候事、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十四)平太夫墓の謎・(十五)供養塔

2021-03-17 07:21:48 | 小川研次氏論考

十四、平太夫墓の謎

福岡県北九州市八幡西区東鳴水五丁目三番に鎮座する貴船神社に「時枝平太夫」とその妻の墓が伝わる。
「時枝重記(しげのり) 慶長十二年十月九日」とあり一六〇七年に没している。筑前国に入ってわずか七年である。また如水の死から三年後である。
「重記」とあるが、「鎮継」と同一人物であろうか。
まず、この墓については検証を要する。それは不可解な点があるからだ。

寛政十年(一七九五)頃に福岡藩士加藤一純、鷹取周成により編まれた『筑前国続風土記附録』の「鳴水村」の条に「村中貴船社の後林の中に古き墓あり。里民時枝重記か墓といふ。長政公に仕へし時枝平太夫なるへし。傍に其妻の墓もあり。」と記されていて、明らかに夫婦の墓碑二基存在していた。

「鳴水村」だが、一九九〇年、北九州市による「鳴水・古屋敷遺跡」の発掘調査が行われた。貴船神社に隣接する東鳴水四丁目一〜三番に位置し、河頭山(ごうとうやま、標高二一三m)の西側山裾部にあたる。長崎街道以前に「古道」という幹線路が通っていたという。(『黒崎の成り立ち』)

「堀立柱建物跡や井戸などの生活遺構とともに、輸入陶磁器、龍泉窯の青磁椀などが副葬された土壙墓など数基検出されており、(略) 中世においてこの台地一帯に多くの人々が生活を営んでいたものと思われる。」(『鳴水・古屋敷遺跡』)

この一帯に平太夫は住んでいたと考えられる。

安永四年(一七七五)四月四日、平太夫の子孫時枝常春が鳴水村の平太夫住居跡と墓所を訪ねていた。

「住居の所今もいちじるしく、村民は殿屋敷と云、山の北の方也、門有し所を木戸と云、内畠と成、二、三反程有」(「遠賀紀行」『福岡藩士時枝氏の先祖墓参り』福田千鶴)

「山の北」は河頭山の北側で「殿屋敷」はのちに「古屋敷」と呼ばれることになったと考えられるが、かなり大きな屋敷である。常春が見たのは屋敷跡の畠であった。また、平太夫の墓所の具体的な記録が残されている。

「御塔所は村(鳴水)より三町程行、小高き山に貴船の社有、其上平なる所に石垣築廻し自然石の塔有、村民殿の墓と云伝へ尊敬す、御塔の石垣の内より松一本生出、今は大木と成る。(中略) 北の方弍間程隔て塔有、是は御室の墓也」(同上)

昭和十一年(一九三六)に発行された上野例蔵著『八幡市舊蹟史』(きゅうせきし)に「時枝重記夫婦の墓 字葉山(貴船社の裏大
松の下)にあり」と記され、「石碑二個あり、一ニ時枝重記 慶長十二年十月九日 一ニ時枝重記室 慶長十二年三月二十日」
「其側に松嶽院殿御霊前とあり安政三年(一八五六)辰十月九日依て二百五十年回九代の孫時枝中鎮遠祭之と云ふ碑あり」とある。

これらの墓碑は貴船神社の裏手にある「葉山」の大きな松の木の下にあったという。この「葉山」は「山なみの中で、人里近い低山。端近い小山」の意である。『日本国語大辞典』)
『八幡市舊蹟史』の「石碑二個」は夫婦の名前が彫られた自然石とその傍の妻の「戒名」のある石碑とも考えられる。それは、「其側」にある碑と合わせると三基になり、かつては夫婦二基だったのが、現在の三基と一致するからだ。
この三基の石碑は現在の位置に移されたのは、ここ十数年間のことである。
つまり、私たちは原風景ではなく二次的な風景を見ているのである。


手前「説明文」から見る平太夫(右)と妻の供養塔(貴船神社)


十五、供養塔

三基の石碑を分析してみよう。
まず、自然石に彫られた文は二基の古墓を説明している。

「古墳二 南 時枝重記 慶長十二年十月九日卒 北 同室 同年三月二〇日 安永末初夏日彫之」

安永末とは(一七八一年)である。重記夫婦が没してから一七〇年以上経っているが、この碑文により「平太夫」が「重記」と知ることができる。

二基の古墓は南側に重記と北側に妻の墓を指している。墓が西向きだったと考えられる。妻の命日は奇しくも如水と同じ三月二〇日である。

この石碑は時枝重記子孫時枝常春が祖先の地を訪ねた折、鳴水に在る重記等を祭る墓所を参拝し建碑したものである。

「石屋吉郎兵衛召連、鳴水村へ行、御塔銘わからざればいかがせんと評議す。幸に御塔脇に縦横三尺斗の石有、此石に彫付べしとて決断し給ひ、黒崎旅宿へ帰り、石に彫付文字常春公書給ふ、」(「遠賀紀行」)

これが現在に伝わる「説明文」の石碑である。安永四年(一七七五)四月八日、石屋弟子宇兵衛の手によるが、(同上) 「安永末」と刻んだ。

この段階で既に「銘」が不明なのである。つまり、無銘の自然石が二基建っていたことになる。常春は戒名ではなく、俗名「重記」を記したのである。
この根拠は不明だが、『黒田三藩分限帳』に「重起」とあるが、誤字なのか。
また、奇妙なことに「武蔵守の時、秀吉公九州下向の節、速に従ひければ、黒田孝高公の与力にせらる、武蔵守は翌年致仕し給ひ、平大夫重記、孝高公・長政公に従ひ、日本・朝鮮にて武名を顕わし、高禄を得て福岡に来り仕へり、誠に当家中興なり」(「遠賀紀行」)とあり、天正十六年(一五八八)に武蔵守鎮継は隠居し、「重記」が文禄の役に参戦したとある。つまり鎮継と重記は別人としているのである。常春の系図に「重記」があったのだろうか。
しかし、先出の「時枝平大夫鎮継と申時枝城之城主」とする「庄野先祖之覚 貞享元年記」(一六八四年)は「遠賀紀行」(一七七五年)に百年近く先行し、また「黒田家譜」や「宇佐神宮史」により、鎮継は「重記」と同一人物と見るべきであろう。

「遠賀紀行」を収集した元福岡藩士の長野誠(一八〇七~一八九一)によると常春は時枝長大夫重政の老号とし、その養子を「平大夫重直」と考察している。
この一族は「長」の通名が特徴であるが、「明治初年分限帳」(一八六八〜七〇)の「二百十石 時枝長十郎 荒戸三番丁」とあり、後述する「時枝家」とは同族別系であると考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする